「なるほどねぇ、この世界の片隅にも、裏があったのだ。」この世界の(さらにいくつもの)片隅に 加藤プリンさんの映画レビュー(感想・評価)
なるほどねぇ、この世界の片隅にも、裏があったのだ。
さらにいくつものでない版を1度だけ観て、3年後なので、記憶違いがあったらゴメンナサイなんだが、
間違いなくリンである。
前作(ややこしいのでこう表記させていただく)において、どこか匂わしていた、
いくつかの謎の残り香は、この女のものだった訳だ。
彼女の存在のおかげで、実にいろいろな意味が裏返り、そして、納得いくものになる。
周作にとっては、すずとの縁談も、そもそも、出逢いの籠の中の思い出も、
納屋での一夜の件も、あまりに完璧すぎた、良き夫としての行動も
すべて裏があったのだ、と言うことになる。
つまり周作は、リンとの別れの条件として、存在するはずのない、初恋の相手を引っ張り出してきたのだ。
住所もわからぬ、実存するかもわからぬ、初端から、見つかるはずのない女性を条件とし、
見つからない事が前提の、すずさんだったのだ。
ところが、運命の悪戯か、すずさんは見つかってしまう。その時の周作は、どんな顔をしただろう、
まさか、見つかりましたハイ、リンの事は諦めます、すずさん愛してますとはならない。
成長し、着物を被って誤魔化していたとはいえ、相手がすずだと、わからなかったくらいだもの。
その内側には果たして、どんな気持ちが渦巻いていたのか。
そしてその気持ちから、どうやって変化していったのか。
しかしこれで、前作で感じた違和感は、すべてほどけた。
まさかあの、夢で見たような思い出話だけで、ずっとすずに恋心を抱き続き、いきなり縁談というのは
どれほどの一途な純愛男子なのか、イヤイヤしかしそれでは納屋の一夜をセッティングする理由とは矛盾する。
それともその愛は、妻の思い人と今生の別れを優先させてやるほど、聖人的な自己犠牲も厭わない鋼の愛情なのか? なんなのだ。
…なるほどなあ、裏があったのだ。
自分自身にウシロメタイ気持ちがあったからこその、贖罪でもあった訳だ。
まぁ、、良いさ。
結果的に、桜の木の下で、あの挨拶ができた2人だもの。
そこまでのどこかで、周作のなかで区切りがつき、本当の夫婦になれたんだろう。
これだという切っ掛けになるエピソードは、たぶん、ない。
なんでもない日常生活の積み重ね。
その重みが、その意味が、この映画の本質だもの。
夫婦生活の積み重ねで、いつしか、ふたりは本当に夫婦になったんだと思う。
紆余曲折があったからこそ、遠回りをしたぶん、ふたりは出逢ったのだし、
すずさんは生き延びたのだし、
辿り着いた愛情は、より深くなったのだろう。
人生なんて、結果論的に、なるようになるし、なにが幸いするかなんて、誰にもわからない。
監督がインタビューで「すずさんにそこまで日本を背負わさなくても良い」と語ったように
戦時中の、そして戦後も続く、日常の積み重ね。
淡々と積み重ねられる、人々の生活を描くだけで、この映画の主題も、
戦争というものの本質も、人の強さも、弱さも、
苦しさも、楽しさも、とてもやり切れない悲しさも、
すずがただ1度だけ見せた怒りも。
わざわざ日本を背負わさなくても。
それでも、すずは生きていかねばならないのだし。
それは誰もが同じなのだし。
すずが言わなくても、他の誰もが、言葉は違えど、同じ思いであったのだろうし。
そして、戦争の罪深さは変わらないのだし。