「いまこそ反戦の意思表示が必要」テル・ミー・ライズ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
いまこそ反戦の意思表示が必要
1969年の発表というから、かれこれ50年も前の映画である。第二次大戦後に世界の警察となるという野望の取りつかれたアメリカは、キューバ危機後のソビエト社会主義共和国連邦との対立もあって、世界の様々な地域に軍隊を送り込んでいた。ベトナムでは多くの兵士が帰国後にPTSDを発症し、大量の自殺者を産んだ。彼らは熱帯雨林のジャングルに紛れるベトコンから時折手痛い反撃を食らい、ヒステリックな絨毯爆撃や枯葉剤の大量散布などを行なった。核兵器を使わなかったのは世界中でベトナム戦争反対の声が上がっていて、アメリカが世界から孤立するのを恐れたからだと一般的に言われているが、本当のところはわからない。当時の大統領がジョンソンでなくてドナルド・トランプだったら核兵器を使っていた可能性もある。
本作品はコラージュのように世界各地の反戦運動を描写し、反戦歌も紹介している。残念ながら日本の反戦歌は登場しないが、日本にも、谷川俊太郎作詞、武満徹作曲の「死んだ男の残したものは」という名曲がある。戦争が齎す悲劇をストレートに伝えた歌詞で、武満徹のマイナーコード全開のメロディーが重苦しさを運んでくる。日本国内の反戦運動はベ平連を中心に広まり、70年安保で暴力的なデモの頂点を迎え、そして挫折という言葉と共に廃れていった。
この映画のハイライトはふたつの焼身自殺だ。ベトナム戦争に対する抗議の自殺として、何度も報道に取り上げられているから知っている人もいるだろう。仏教の僧侶とクエーカー教徒の勤め人である。それぞれの宗教は自殺の動機とはあまり関係がない。戦争反対を華々しくセンセーショナルに主張したかっただけだ。彼らを英雄視する必要はない。
ただ、人が自殺するにはかなり強い動機が必要だ。死の恐怖は苦痛のイメージと重なって、自殺者を逡巡させ、躊躇させる。しかし絶望があまりにも大きければ、死の恐怖も苦痛も気にならなくなり、人は簡単に自殺する。戦争による絶望がそれだけ大きかったということだ。
戦争を扱った映画だから当然のことだが、悲惨な映像がたくさん流れる。人間の死は、兵士も子供も同じように扱われなければならない。一般市民の被害だけがことさら強調されがちだが、一兵士の死も同じようにひとりの人間の死である。将棋の駒が相手に取られるのとは違うのだ。その違いを理解しない人たちが、いまもなお戦争を始めようとしている。集団的自衛権の行使、特定秘密保護法の施行、共謀罪の成立など、日本でも戦争への準備は着々と進んでいる。いまだに発電を続けようとしている原発は、原子爆弾の製造所でもある。
映画として面白い訳ではないが、いまこそ反戦運動の意思表示が必要だと思わせる作品であった。