「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンとして傑作」劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン らくようさゆめさんの映画レビュー(感想・評価)
劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンとして傑作
がっつりネタバレするので悪しからず。
原作未読、アニメ視聴済みの感想です。
アニメ視聴済みと言っても、熱心なファンではなく、有名な作品であることは知りつつ、観に行こうかと軽く考えていた中、某超人気映画の公開が近付き、このタイミングで行くしかないと観に行く前日にアニメシリーズを一気見した程度です。
結果、泣き腫らすた目で映画を観て、更に目を腫らすことになりましたが。
前置きが長くなりました。
本編の感想に移ります。
冒頭、なんだか見た事のある間取りの家が出て来た時点で、なにか剣呑な雰囲気を感じました。
まさか、と。
実際、その予感は的中し、あの十話の家、そしてあの幼かったアンがお婆ちゃんとなり、この世を去っている事が示されます。
(この時点で、記憶新しい私は既に泣いているわけですが。)
あのアンがそんな歳になる程の歳月が既に流れているならば、彼女たちは……。
そんな不安を裏付けるような、ドールという言葉が、幼さ故の無知ではなく、過去の知識への無知として、伝わらない描写。
(ここに限らず、この劇場版ではアニメシリーズと対になるような描写が度々見られました。)
この時点で私は心穏やかではなかったのです。
私はヴァイオレット・エヴァーガーデンの劇場版を観に来たのであって、アンの孫の話を観に来たのではないと。
ヴァイオレットの物語を既に終わってしまった物語として語るのか? と。
場面変わって、ようやくヴァイオレットが登場します。
少し安心するも、彼女たちの仕事の中にも「電話」という新しい脅威の影がチラつきます。
アイリスが明言したように、電話の台頭によってドールという仕事はその役割を追われる事となる。
その象徴のように、建設途中の電波塔が映されます。
(そして、この電波塔は作中時間の移り変わりを示す指標ともなりますね。)
この後ストーリーは
ディートフリートとの話
アンの孫の話
病気の少年との話
そして、少佐との話
この四つが平行して進んで行きます。
ヴァイオレットを道具ではなく、一人の人間として見る事ができるようになったディートフリート。
ヴァイオレットの足跡を辿るアンの孫。
病気の少年の話は冒頭で触れた十話と非常に対比するような形で描かれ、その解決には遂に手紙ではなく電話が使われ、時代の移り変わりを示しました。
しかし、ヴァイオレットと書いた手紙も同様に、少年の想いを家族へと届けました。
実は生きていた少佐。
その事実に辿り着くのが手紙というのも、作品のテーマと沿っていて綺麗でした。
ようやく再会できる筈の二人を阻んだのは被害者と加害者という問題。
これまで加害者として描かれる事が多かったヴァイオレットは、少佐の認識の中では自分が生み出してしまった被害者だった。
その罪によって、自分を許せず、ヴァイオレットと会うことを拒否する少佐。
加害者を救う事が出来るのは、時間と被害者からの許しだけである。
少佐を動かしたのはヴァイオレットが書いた少佐への「最後」の手紙でした。
ようやく、対面する二人。
言葉にならないヴァイオレットの声が、彼女の感情をどんな言葉よりも鮮明に現し、美しい背景と合わさり、実に感動的な場面となりました。
しかし、この場面で私は泣けなかったんですよ。
ヴァイオレットの話としてはここがエンディングでいい。
ずっと求めた「愛している」という言葉の意味を「少しはわかる」ようになったヴァイオレットが、その言葉を教えてくれた「愛している」をくれた人に出会い、きっと本心から理解し、それを伝え合う。
とても美しいエンディングです。
けれど、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという作品としてのエンディングとしては相応しくない。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンという話は、想いを伝える物語であると私は感じていました。
それは、少佐の愛しているという「言葉」から始まり、その意味を知る為にヴァイオレットがドールとして「手紙」を代筆し、様々な人の想いを様々な形で伝え、そして劇場版ではその役割は「電話」へと変わりました。
ただ、形式がどう変わろうと、想いを伝える事の尊さと大切さは永遠に変わらないのではないか?
三度目となりますが、アニメの十話もまたそれを示した話でしょう。
言葉で伝えることができない自分の想いを、未来の娘に五十年に渡って伝えようとする話です。
私がこの映画で一番泣いたのは、最後の切手の場面です。
少佐と再会し、ドールを辞めた後も、ヴァイオレットはあの島で人々の想いを伝える事をやめていなかった。
そして、それは彼女が死んだ後もあの島で確かに文化として根付いていた。
想いを伝える事は、時代が変わり、人が変わっても、変わらず残り続ける。
最後の場面、冒頭と同じシーン、カメラは進み、前へと進むヴァイオレットを映します。
人々の想いを伝え続けたヴァイオレットは前、未来へと進み、世界こそ違え、その先には現代を生きる私たちが、そして私たちの子供達がいる事でしょう。
ヴァイオレットの物語は既に終わってしまった物語ではなく、この先も私たちが想いを伝え続ける限り永遠に続いていく物語となったのです。
長くなりましたが、本作は「劇場版」ヴァイオレット・エヴァーガーデンという映画として見た場合、文句なしに傑作であると言えるでしょう。
これ以上の着地はなく、その着地の為のメッセージが明確に、またさりげなく、本編に描かれていました。
私は、この作品を愛しています。
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これ以降は蛇足となります。
作品の評価は、その作品の中身でするもので、それ以外の事情は鑑みるべきではないとは承知の上で書きます。
白状すると、私がこの映画を見ようと思った理由の一部には、あの事件が関わっています。
あの事件で公開延期となり、それでも完成へと辿り着いた作品。
だからこそ見たいと思った。あまり褒められた動機ではないでしょう。
その上で、この映画が伝えようとしたメッセージが想いを伝える事だった。その事実がこの上なく私には尊いものだと思えたのです。
アニメもまた人に想いを伝える手段の一つです。
これほどに心揺さぶる作品の制作に関わった全ての人に心からの感謝を。