「映画を見てある登場人物に苛立ちを覚えた方へ」劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン イーリスさんの映画レビュー(感想・評価)
映画を見てある登場人物に苛立ちを覚えた方へ
あまりにも素晴らしかった。
人生で一番泣いた映画かもしれない。
最高の作品だったのだが、私は見ている時にある一点に苛立ちを覚えた。
それはギルベルト少佐のヴァイオレットに対する態度である。
予告の段階から少佐は生きているのだろうと思っていた。
そして少佐がヴァイオレットに会いに来ないのは記憶を失ったからじゃないのか、なんて勝手に予想していた。
違った。
彼は自分の存在がもうヴァイオレットには必要ない、等ヴァイオレットに負い目を感じていたために会いにいけなかったのだ。
おいギルベルト! それはないだろう!
ホッチンズ中佐が「大バカやろう!」と言ったのと全く同じ感情を抱いた。
お前は何故そんなに煮え切らない態度を取るんだ、と強く思った。
『株が下がった』
表現するのであればこうだろうか。
そこで違和感を覚えた。
この感情、苛立ちは本当に正しいモノなのかと。
その違和感はその後の怒涛の展開によって頭の片隅に追いやられたのだが映画が終わり、帰路につく中で再びその違和感が蘇ってきた。
そしてぐちゃぐちゃになった感情が幾分か整理されたその時に私はその違和感の正体に気がついた。
「自分は思い出の中のギルベルト少佐しか知らない」
そうだ、映画以前の話で語られていたギルベルト少佐の話は彼が如何に慈愛に満ち、真っ直ぐで優しい青年であったかを示すモノばかりだ。
思い出は美化される。
物語だからと先の展開をある種メタ読みできる我々と違い、ホッチンズ中佐しかりヴァイオレットの周囲の人間は皆ギルベルト少佐は死んだものだとして語っていた。
だから我々は本当の等身大のギルベルト少佐の事を何も知らなかった。
彼もまた葛藤する1人の人間だという事を完全に失念していたのだ。
そういう意味では我々も映画を見るまではある種少佐を「死んだ人間」として見ていたかもしれないという事にその時初めて気がついた。
我々が見ていたのはヴァイオレット視点からのギルベルト少佐であり、最後に言われた「アイシテル」を知るために健気に生きてきた事を知っていたからこそホッチンズ中佐と同じ怒りが生まれたのだ。
なら逆はどうだろう?
自分が戦場に連れ出す決断を下し、目の前で両腕を失ったヴァイオレットが自分の事を好意的に見てくれると思えるだろうか?
まあ無理だろう。
そう考えると少佐のあの態度も理解が及ぶ感情として咀嚼する事ができる気がした。
この解釈が正解かは分からないが、普段レビューなんてしない私が感情のまま何かを書かずにはいられない位想いが溢れ出してしまう位には素晴らしい作品だった。
蛇足にはなるが、「解釈」関連で気になった事がある。
ヴァイオレットとギルベルト少佐、2人は腕を失ったという共通点がある。
そして少佐の描写の中でこれみよがしに腕がない事を強調する様に袖を揺らめかせていた。
何故? ヴァイオレットの様に義手を付ければいいのに。
ひょっとするとこれは最初は自分の意思ではないにしろ義手を付け戦争の後も前に進み続けたヴァイオレットと戦後歩みをとめてしまっていたギルベルト少佐の対比なのかもしれない。
そして片目を失ったギルベルト少佐と、ヴァイオレットがつける少佐の瞳と同じ色のブローチ。
まるでギルベルトが失ったものを補うかの様な組み合わせだと思うのは、2人が縦の関係でなく寄り添う関係になったと示す意味を含んでいるのではないだろうか、というのは考えすぎだろうか?
私もギルベルトに苛立ちを覚え、それに困惑しました。おっしゃるとおり、今までのギルベルトは大佐やヴァイオレットの(多分美化された)思い出でしか描写されていなくて、視聴者が生身の彼を見るのは劇場版が始めてでした。劇中のヴァイオレットやホッチンズか感じたものと同じ苛立ちを感じていたのかもしれません。
ギルベルトについては同じ考察でした。多くの人と最愛の人まで戦争で死なせてしまって(死なせたと思ってて)、自分は死に場所を探しながら生きてきた。
海への賛歌を聴くまでヴァイオレットが生きてたとも知らなかった。
そう考えると、あれだけ酷い仕打ちをして自分のことを恨んでも当然と思える相手に合わす顔がないのも分かる気がします。
直接会話も会う会わないのやりとりだけ。まさか素敵な女性に成長して自分を愛してくれてるなんて思いもせずに
亡くなったクリエーターの方々に向けられたメッセージにも思えました。「愛してる」って
悲しくて、切なくて、それでいて優しくて、温かくて、なんとも慈愛に満ちた素晴らしい作品でした。
色々な人の立場から、各々の大切な人に向けたメッセージをこの作品が、京アニの皆さんが代筆してくださった!そんな気がします💫