「斬、へと昇る天道虫」斬、 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
斬、へと昇る天道虫
幕末とは「人を斬ったことがない」侍がほとんどだった時代である。腰に下げた得物は「概念」だけが残り、「実用」を失って久しい。
杢之進もそんな「人を斬ったことがない」侍。
そして幕末はそんな日常が崩壊する予感に満ちた時代でもある。新しい世界との交わり方を、意思決定しなくてはならなくなった。ことによっては「人を斬る」必要に迫られるかもしれない、そんな時代。
「太平の時代が続いてましたからね」
杢之進の台詞には、変化は確実に迫っているという彼自身の葛藤が含まれている。
考えてみれば当たり前の話だが、侍に生まれたからと言って「人を斬りたい」訳ではない。日本に生まれたら無条件で米が好きか、と言えばそんな事はないのと同じだ。選択肢があるなら、パンが良い、麺が好き、と好みは分かれる。
人を傷つけるより、畑を耕す方が自分にはあっている。そう感じる侍だっていたはずだ。
少し前なら、薄々そう思いつつ剣の稽古をこなしながら生きていけた。ついぞ使うことのなかった刀を床の間に置いて、安らかな生を全うした侍だっていただろう。
杢之進は多分そんなタイプなのだと思う。
杢之進だって、闘うこと自体は好きだ。腕もある。農民の市助に稽古をつける杢之進は、容赦なく市助を攻め立てるし、暴力を恐れる一方でどうしようもなく暴力に惹かれている面もある。
でもそれは安全圏の暴力だ。合意の上で、命を落とすことなく終わらせられる暴力だ。
「人を斬ったことがない」「人を斬らなきゃならないかもしれない」「人を斬りたくない」そんな杢之進の葛藤は、初めて真剣を持った日から続いていた。竹刀や木刀で闘うのとは違う。どちらかが命を落とす戦い。
澤村が来たことで、杢之進は暴力の最終形である「人を斬る」ことから逃げられなくなったのである。
常に「人を斬る」事を考え続けていた杢之進は、柄の悪い浪人軍団との悶着について「もう止めてください」と訴える。
誰かを斬れば報復が待っている。始まってしまえば、こちらもあちらも何人も死ぬことになる。
人を斬れば、斬られる。どこかで止めなければ、という杢之進に対して、弟を殺されたゆうは「いざというとき刀を抜かないで、一体いつ役に立つんだ!」と言い放つ。
農家の娘であるゆうにとって、命のやり取りは他人事だ。自分が斬られる事も、誰かの命を摘む事も人生の中にはない。考えた事もない。
激昂したゆうに突きつけられた言葉は、杢之進自身が一番悩んでいた事だ。
侍に生まれ、いざというとき刀を抜かなかったら、自分は何のために生きているのだろう?
ゆうの家族の報復のため、澤村と浪人たちのアジトに乗り込んだ時も、杢之進は真剣を手にしなかった。歯に刀を突き立てられても、ゆうが犯される様を目の当たりにしても、ついに刀を手にしないままだった。
人を斬るという罪深さを受け入れる覚悟は、この時の杢之進にはまだなかったのである。
それでも杢之進に固執する澤村は、朝一番に江戸へ立つ事を告げる。
「来ないなら、お前を斬る」とまで言われて、杢之進は山へと消える。
杢之進は逃げたかったのか?そうかもしれないが、それだけではない。
市助とゆうと見つけた天道虫を見ていた時に、杢之進が語った言葉の通り行動したのだ。
「七星は上へ上へと昇って行くんです。昇って行って、昇る所がなくなると天へ飛び立つ」
杢之進は天道虫のように、「人を斬る」世界への道を昇る。山を登る。「人を斬りたくない」「人を斬れるようになりたい」その狭間で葛藤し、悶えながら、昇れるところが無くなるまで、山を登り続ける。
このまま杢之進と澤村が昇り続ければ、杢之進は天へ飛び立ってしまう。その先は死か、人を斬る存在か。どちらにしろ、ゆうが慕った杢之進はいなくなる。それを感じてゆうは叫ぶ。
「止めてください。もう、止めてください!」それは杢之進と同じ願いだ。どこかで止めなければ、誰もいなくなるまで止まらない。
杢之進と澤村の果たし合いは、杢之進の横薙ぎの一振りで決着した。題字の「斬、」その横に長い一画は、杢之進が初めて人を「斬った」姿だ。
「斬」という存在になった杢之進は、もう画面に映らない。
慕った存在を失ったゆうの嘆きの叫び声だけが、天道虫が飛び立った後の山に響く。
暴力へのどうしようもない憧れと、暴力への本能的な畏れ。暴力に魅了され、暴力を否定し、その相反する感情を映画に叩きつける、塚本晋也という存在がそのまま映画になったかのような、塚本晋也らしい美しさ。
いや~、最高でしたね!