あなたはまだ帰ってこないのレビュー・感想・評価
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タイトルなし
マルグリットデュラス 自伝的小説「苦悩」の映画化 1944年第二次世界大戦末期 ナチス占領下のフランス 夫とレジスタンス運動に身を投じる 若き作家マルグリットは 逮捕された夫を取り戻すために奔走する 解放に歓喜するパリで 夫の帰りを待つ… 愛と苦悩が描かれた作品
重いとはわかっていいつつも、
たまたまではあるけど、見てみた。 当時の待つ女性の心情を描いた作品、つらく重い日々だけど、こういう人が当時はたくさんいたんだろうな、と。 こういうことは繰り返してはいけないし、あってはならないものだ。 と、そう言うのは簡単でも、やはり当時の人たちのその苦悩はなかなかに表現しきれないものがあると思う。
苦しい…
とにかく息苦しい。夫をナチスに囚われ、帰りを待つ妻。ナチス占領下のパリでドイツ軍人に近づきつつ、夫の消息を探り続ける。やがてパリはドイツから解放され、捕虜も戻ってくるが、ここでもまだ夫は戻ってこない。同様に帰りを待つ者を励ましながらも、本当は死んでいるのではないか、仲間が嘘をついてるのではないか疑い始める。彼女自身の自問自答、なぜ夫だけ戻らないのかなどの嫉妬や心の葛藤を独白するシーンが息苦しくさせる。帰還した捕虜もあり得ないくらい痩せ細っており、戦争の酷さを際立たせる。しかし、ようやく夫が生きているという情報が入るも、生きているのがやっとで、仲間もわからないほど、顔も変わり果てていると言う。そんな状況を見るなら、死んでる方が幸せなのかもしれないとも思ってしまったが、どんな状況でも会ってほしいと、この息苦しさから解放されたいと思いながら見た。しかし、映画は感動的再会シーンをあえて描写せず、次第に回復した夫と海にいるシーンへ。夫と二人で会話してるシーンもなく、挙げ句、2年前から考えていた離婚を彼女から切り出し、理由は夫不在時に支えてくれた仲間ディオニスの子供を生みたいからだと言う。え〜え!!ディオニスとはちょいちょい怪しいと匂わせシーンはあったが、あれだけ戻ってきてほしいと願っていた夫にすることだろうか。。確かに愛しているとか、夫との幸せな回想シーンがそんなになく、戻ってきてほしいのはわかるけど、そんな描写があれば余計に悲壮感漂うのにとは思ったが。。引っ張るだけ引っ張って、ラストでがっかりと言うか、どっかり疲れてしまい、共感できなかった。色んな愛の形、妻という責任においてということなのだろうか。
ナチス占領下のパリを知る映画
ストーリーは私小説的な部分が多いので、拘束されている夫を待つ不安な気持ちがよくわかった。 それ以上に第二次世界大戦中にパリをドイツに占領され、ナチスがフランス人を管理していた様子に驚く。 レジスタンスの活動はあったにせよ、それは一部の人たちで多くのフランス国民が、その占領された状況に我慢していたことに驚く。
【第二次世界大戦中、夫の帰りを只管に待つ妻の物語。だが、夫の生還後、妻の取った行動に”マルグリット・デュラスさん、如何に恋多き女性とは言え・・”と男性目線で思ってしまった作品。】
ーマルグリット・デュラス:20世紀フランスを代表する女性作家。恋多き女性として、自分の少女時代のフランス領インドネシアでの経験を綴った「愛人/ラマン」は、世界的なベストセラーとなり、映画化もされた。(劇場にて鑑賞したが、非常に面白かった・・。) 今作は、「愛人/ラマン」が刊行された1984年の翌年に「苦悩」というタイトルで刊行された、デュラスが”私の生涯で最も重要な作品の一つである”と語ったと言われる作品を映像化した作品である。- ■1945年4月 ナチスに対抗する活動家である夫ロベールは政治犯として、ナチスに勾留されていたが、無事に彼女の元へ帰ってきた・・と言う”幻想シーン”から物語は始まる。 ■1944年6月 ・ナチス・ドイツは徐々に劣勢になっていたが、未だマルグリットの夫は捕らわれたままであった。夫の情報を得るために、ナチス側の警官で夫を逮捕したラビエと密かに会い、情報を得ようとするマルグリット。活動家の仲間であるディオニス達からは”軽率だ・・”と批判されるが、何度もラビエと会うデュラス。 ーラビエは、デュラス作品の”ファン”であることが、劇中描かれる・・- そして、夫ロベールの移送情報を貰い、通行手形までもらって夫に会いに行く。移送されるトラックからロベールが移送先を告げる叫び声が・・。 ・ナチス兵が撤退し、”パリ解放”の歓喜の中でも、マルグリットの表情は暗い。夫が戻って来ないのだ・・。TVから流される、ナチスに捕虜になった人々が虐殺されているという情報。 ーマルグリットの心象を彼女を演じたメラニー・ティエリーの抑揚のない沈んだ声で表現したモノローグが延々と続く・・。歓喜に沸く人々を冷めた言葉で観察する言葉が印象的である。- ◆ここまでは、”戦争の勝敗に関係なく、妻は夫の無事な姿を待っているのだ・・、”というストーリーだと思って観ていた・・。 ・その後も、マルグリットは”熱のためか”夫は死んだ・・と思いこんだような、暗いモノローグが続く・・。 ・が、ある日、ディオニスが”ロベールの仲間が10日前に彼に会ったと言っている”と言う情報を齎すが、マルグリットの表情は沈んだまま・・。 ・そして、”ロベールは生きているが赤痢にかかり、4日と持たない状態だ・・”と言う情報が入り、ディオニス達は決死の思い出ロベールを1945年5月7日に連れ帰る。 が・・、何故かマルグリットは夫に会いに行くわけではなく、相変わらず暗い表情を浮かべている・・・。 ー何故、ロベールに会いに行かないのか????、マルグリット!- 対照的なのは、ユダヤ人の娘を待ち続けていたマルグリットと同居していたセッツ婦人の姿。娘が5カ月前にガス室に送られていた事を知り、去る姿。 <夫の帰りを只管待つ間に、”愛は移ろい、瞬く間に終焉してしまう”様を描いた作品。 戦後、夫と海に出掛けた際の、”夫との離婚、そしてディオニスとの関係性が語られる場面。” 原作では、途中からディオニスとの関係が赤裸々につづられているが、映画ではそのシーンが”ディオニスがマルグリットを励ます”形で描かれていたため、劇中のマルグリットの終始苦悩する表情が少し理解しにくかったが、 【貴女の苦悩とは、夫が帰ってきて欲しいという思いと、ディオニスと結ばれたいという思いの狭間での苦悩であったのか・・。 それで、夫を逮捕したラビエとも、余り後ろめたさを感じずに会っていたのか・・!】 と納得してしまった作品。 怖ろしきかな・・、マルグリット・デュラスの業に塗れた愛の深さ・・。 これが、創作ではなくマルグリット・デュラス自身が選んだ事実であるという事にも、男としては戦慄した作品である。>
字幕を読む=小説を読む感じ・・・
作家マルグリット・デュラスの自伝的小説を映像化した作品。前半はナチスの手先である男ラビエとのやりとりが中心で、自らもレジスタンス仲間と連絡を取り合う時期でもあったのでスリリングでした。夫を密告したのは誰だ?という疑問もあるけど、自らもラビエに「写真の男に見覚えはないか」と詰問され、いかにして仲間を裏切らないでいられるか・・・という心の揺れも見て取れる。写真の男が最後に登場するのもビックリだ。
女性一人で夫の帰りを待つなんてのは精神を保つだけでも大変なこと。釈放してやるから仲間の名前を言え!なんて言われちゃうと・・・という見どころ。そして、彼らのやり取りを見届けようとするディグリスや仲間たち。パリ解放が近づくにつれ、逆にナチスを処刑してやるんだという強い信念がマルグリットを支えるようになった。
しかし、パリ解放となっても夫は帰ってこない。もう死んでるんじゃないの?仲間は夫の死を知ってて隠してるんじゃないの?と、再び心が砕け散りそうになるマグルリット。といった感じで全編彼女のモノローグで繰り広げられる映画。わかりやすいけど、文学的な言葉遣いもあるため、映像表現がおろそかになっても気づかない・・・もっと工夫があればいいのに。
ラストの海岸のシーンは印象的でしたが、wikiを調べる限りではロベールとは離婚しているので、そのままの言葉として受け止めてもいいのだろう。まるで死を克服するまでの妻の務めを果たし、夫不在の間に彼女を支えていたディオニスの愛が勝ったのだと・・・
才能に優れた女性は、男を利用して、そうして捨てる…
…という事実。 この作品(原作)は、その事に対する言い訳だったりアリバイ工作だったりをしている様にも思える。 確かに戦争は、人の自由を奪い人生を滅茶苦茶にするけれども、それでも才能に溢れた私は、男を利用して生き残る。でも仕方無かったのよ、戦争が全て悪いんだから…とでも言いたげに見える。 昔、ラ・マンを劇場で観て、偉く感動して2度見して、原作も読んだりした事があった。同じ、マルグリット・デュラスの原作で期待していたのだけれども、何か起こりそうで散々期待だけさせておいて、結局何も起きないフランス映画のご多分に漏れずで…とても面白いとは言えなかったナ。 あと、女優さんだけは、雰囲気があって良かったです。この人、「天国でまた会おう」で、主人公の憧れの女性の役をやっていましたよネ。
邦題はセンスがあると思う
「待つ女」というのが主題だと考えられる本作。しかし、少し違う。特に前半と後半で。
障害を持つ娘の帰りを待つ老婦人だが、最後に娘が死んだ、という報を受けても、「一方的に言われただけ、単なる噂かも」と言う。この時、老婦人は「待つ女」というよりも、もはや「待つことを選んだ女」といえよう。パリ解放後、「夫が帰って来れない(帰って来れる体でも、死んでいても)」という大前提が崩れ、夫が自由になり帰ってくる、or夫はもう死んで帰って来ない、という二者択一となり、待つ女はその選択を迫られているのだ。信じて待つか、諦めてしまうかを。
そしてこの一連の「苦悩」こそが、ディオニスに問われた、「ロベールを待つことと君の苦悩、どっちが肝要なんだ」という種の意味の質問に集約される。ここでマルグリッドはロベールを諦め(たと私は考える)、ディオニスと結ばれる。そしてロベール生存の報が届くのだ。そう考えると恐ろしくよくできてるな。
マルグリッドが時々分裂するのも、信じて待つマルグリッドと諦めたマルグリッドの分裂だと考える、ロベールが帰ってきて階段を駆け下りるマルグリッド、窓から外を見るマルグリッド。
屋内と屋外の使い方が光る今作。「車道を歩いたり、歩道を歩いたり」を繰り返すマルグリッドは、ドイツ車(戦車、捕虜車も)走る車道に出て、ゲシュタポに挑むか、仲間のいうように慎重に行動するか、心揺れている。しかし、少なくともパリ市内を歩けていた。特にラビエに勝利した後の自転車のシーンは彼女のゲシュタポへの勝利だろう。
しかし一転、パリ解放後、街中のお祭り騒ぎにはマルグリッドはブラインドを通して、淡い光や人影を見つめることしかできない。ロベールの安否わからぬままでは歓喜に酔う外界とは相容れないのだ。
「あなたはまだ帰ってこない」は「苦悩」をよく表した言葉だ。すぐに帰ってきてくれれば、問題ないのだ。しかし、「あなたはまだ帰ってこない」を繰り返し、ロベールの生存を諦めてしまったマルグリッドには彼に会う資格はない(と彼女は思っている筈だ)。彼女は会いたくない、と繰り返す。しかし、ここからどう向き合っていくのか?というのが、ワクワク。少なくとも2年は一緒にいるし。不勉強なので原作は読んでないが、挑戦してみたい。
前半が割とつまらなく、後半との対比の意味では面白いなー、と思った程度。あと隣の席のご老体が肝心の後半で寝こけてて、もったいないと思った。でも、2時間はたしかに長いな。前半あんなにいるか?
叫びに満ちた沈黙が続く苦しみ
捕虜となったユダヤ人の夫の帰還を待つ女。夫との感動の再会ではなく、ただただ、待ち続ける女の耐え難い苦悩と、彼女の内に秘められた叫びに満ちた沈黙だけが描かれているのが良かった。 死んだはずだと何度も言い聞かせてきた夫が生きて帰ってくると、待ち望んでいたその時のはずなのに、会いたくないのだと泣きながら、彼女は夫から逃げてゆく。 死んでいるに決まっている、そう考えたほうが良いのだと思いながら、夫の死体が転がっている溝のイメージに付きまとわれながら、彼との再会を待ち望むのをやめられない。 相反する感情の狭間でまさに引き裂かれるような苦しみを味わう女の日々を、原作の自伝的テキスト『苦悩』でデュラスは書いたが、これが映画ならではの方法で描かれていたのが面白かった。(私たちはほんとうに2人のデュラスをみることができる) 待つのはデュラスだけでない。 同じく捕虜になった足の悪い娘を待つ母親。多くの妻たち。母たち。 女たちはずっと、待ち続けている。 戦時下の苦しみを描く映画ながら、美しいイメージがいくつか印象に残っている。 彼女の部屋の、レースカーテン越しの柔らかい光。 夫が帰ってきたら行こうと決めていた、イタリアの海の輝かしい光。 このラストの海のシーンは、原作を読んだ時からずっと映像で観てみたかった。 移りゆく愛の形と、穏やかな海。観れて良かった。
デュラス作品を読んでいるかのように感覚になる
原作はマルグリット・デュラスの『苦悩(LA DOULEUR)』。
デュラスの実体験、それも第二次世界大戦中に書かれた日記がまるのまま挿入されているという作品です。
第二次世界大戦終戦から相当の年月を経たある日、わたしマルグリット(メラニー・ティエリー)は2冊の日記を見つける。
戦中に書いたものだが、たしかにそこに書かれていることは生々しく記憶しているが、そんな日記を書いたことはまるで憶えがなかった・・・
時代は1944年6月、ナチスドイツ占領下のパリ。
わたしの夫ロベールはナチスに逮捕され、刑務所に収監されている・・・
というところからはじまる物語で、戦時下のハナシだけならば、戦下のメロドラマっぽい雰囲気。
だけれど、『二十四時間の情事(ヒロシマ・モン・アムール)』『かくも長き不在』のマルグリット・デュラスなので、一筋縄ではいかない。
記憶・認識・・・というのが、デュラス作品の主題のひとつなので、この映画も映画にするときにそこいらあたりに十分配慮している。
わたしマルグリットの一人称を強調するように、単焦点レンズで撮って、そのとき撮るべき対象以外はぼやけている。
そして、その対象はマルグリットばかりでない。
記憶の奥底から何かを引き出そうとしたような映像。
そこに、ときにはモノローグが被さる・・・
なかなかチャレンジングな映像表現である。
夫ロベールの行方を探すうちに、ゲシュタポの手先である刑事ラビエ(ブノワ・マジメル)と懇意になり、情報を引き出すためのやり取りが描かれる前半は、物語の起伏もあり、かなりスリリング。
つまり、ストーリー映画として愉しむこともできる。
が、後半、帰還者が増えるなか、戻って来ない夫を待つ段になると、ストーリー性は喪われ、少々、観続けるのがつらくなってくる。
そんな中、終盤は急転直下の展開。
衰弱に衰弱を重ねたような姿で夫ロベールが帰還するのだけれど、マルグリットのこころは、自分を支えて助け続けてくれたレジスタンスのサブリーダー・ディオニス(バンジャマン・ビオレ)に、いつしか惹かれていた・・・
えええええ、な展開。
それも、先に述べたチャレンジングな映像表現が災いしたのか、マルグリットの転心ぶりがあまり伝わってこない。
もしかしたら、終盤現れる「ふたりのマルグリット」のショットが、それを表しているのかもしれないが・・・
と、観ている側としては少々わかりづらいところが無きにしも非ずなのですが、まるでデュラスの作品を読んでいるかのように感覚になるあたりは評価したい作品です。
ほぼ出ずっぱりのメラニー・ティエリーは好演。
内省的な独白形式をとりながら、自分という「ある女」の内面に迫る
苦悩している自分を見るもう一人のマグリット。 帰って欲しいのか。帰って欲しくないのか。思いは千々に乱れる。
電話を受け取りドアを開け、夫の元に駆け寄る。それが夫を待つ妻である自分の取るべき行動のはずなのだが、もう一人の自分はそれを冷ややかに見ている。
疲弊。緊張。怠惰。諦観。
ラスト。緊張感と息苦しさからようやっと解放されるのかと思いきや、安易な喜びに浸らせてはくれない。
マグリットと愛人の関係は夫も公認の仲だが、夫を一番に愛しているのだと思い込んでいた私にとって、この仕打ちたるやどうしてくれよう、という思い。
死産の夢は、過去に起きたことだったのか、それとも夫がまとう収容所の死のイメージからか。愛は去った、ただそれだけが理由なのか。
彼女は愛人の口から「夫が死んだことにしてくれ」と決着をつけてもらいたがった。しかし彼はそれを許さない。マグリットの心を見透かしていたのか。
「夫は収容所で死ななかった」という一文は非常に客観的でマグリットの気持ちは隠されており、狡猾。
待つことで夫への愛は成就したとでもいうのか。勿論彼女は夫を愛していたのだろう。死んで欲しかったわけではない。こうなったのはただの結果であり誰も悪くはない。ただ、夫が「死ななかった」原動力はマグリットへの愛であることを考えると、やはりやりきれない。
情報の少ない戦時下で、生死の分からない家族を待つという普遍的な苦しみを体現しているのは、ユダヤ人の娘を持つ母親のほうであろう。
彼女の姿からは、拉致被害者の家族を嫌でも思い浮かべる。前にも進めず諦めもできず、人生という時が停滞した苦しみを味わい続け、頭の片隅ではもう生きていないかもと思いつつ、「もし生きていたら」「生きていることを信じなければ」という思いが、頭の片隅に存在し続ける。長い人生で心の底から晴れ晴れとした気持ちを味わうことも無く。
マルグリットへの感情移入はつゆとも起きなかったが、ある個人の目を通して、戦争のある日常の重苦しさを体験することは有意義だった。演じるメラニー・ティエリーの匂い立つような色気と知性、演技力は素晴らしい。
引き込まれた
作品としては決して観やすいものではなかったのですが、マグリットの感情の描写と演技が非常に上手くて、スクリーンに引き込まれました。また、台詞が文学的なので、上質な本を一冊読み切った感覚になります。
戦場にいる夫の帰りを待つ妻というのは、もしかするとただの幻想なのかもしれません。見えない未来を待ち続ける事や全体主義の中で反体制として女性がひとり生きる事は並大抵の事ではないと思います。マグリッドを身勝手だととらえる事は簡単ですが、ナチスに協力した大概のフランス人も自分勝手なのです。
マグリッドを救ったのは、物事を俯瞰的に見て深く考察する彼女の哲学的精神だと感じました。ラベルからの情報を必要としたのも自分が置かれた状況を確認する為、マグリットという自己と待つ妻という悲劇のヒロインを分離する為、だったのではないでしょうか。苦悩というとネガティブなイメージがありますが、苦悩が彼女を奮い立たせた。マグリッドは苦悩する事によって、あの時代のあの場所で生きる事ができたのではないでしょうか。
原題に集約される女性の苦しみ
世界大戦はその名の通り世界中の人々を深く傷つけた。人々の犠牲のない戦争は存在しないが、中でも第二次大戦は開発された新兵器による大量虐殺が特に顕著になった戦争だ。当然ながら傷ついた人の数もそれまでの戦争とは桁違いに多かった。だから第二次大戦を題材にした映画の数も膨大である。 本作品は銃後の生活を扱っていて、レジスタンス活動で逮捕された夫を待ち続ける妻の話である。映画の前半と後半でテーマが異なっていて、前半では、古い歌で恐縮だが、かぐや姫が歌った「あの人の手紙」を思い出した。ご存知ない方のために2番の歌詞の一部を紹介する。 ♪耐えきれない毎日はとても長く感じて~涙も枯れたある日突然帰ってきた人~ほんとにあなたなの、さあ早くお部屋の中へ~あなたの好きな白百合をかかさず窓辺に飾っていたわ♪ 要するに、理不尽に戦場へ送られた夫をひたすら待つ妻の話である。しかし3番の歌詞になると、♪昨日手紙がついたのあなたの死を告げた手紙が♪と、実は帰ってきたのは夫の幻影だったというオチになる。 本作品は妻の強かさという点で、かぐや姫の歌のヒロインと大きく異なる。ナチスに協力するフランスの戦時政権の官憲であるラビエを相手に、スパイ同士のような丁々発止のやり取りをする。 この映画を理解するための政治的な背景を簡単に書くと、ナチスに占領されたときのフランスは、抗戦派は追放され、あるいは亡命したので、政権はナチスに協力する政権であった。トランプ政権になんでも「100%一致している」と言って日本人の保険料もゆうちょの預金も差し出しているアベ政権と同じだ。そしてフランス国民の多くは傀儡政権であるペタン政権を支持した。第二次大戦時のフランス人は全員ナチスに反対するレジスタンスか、その協力者だったという印象が強いが、実はレジスタンスはほんの一握りで、多くの人はレジスタンスを逮捕したり、ユダヤ人を排斥する立場にいたのだ。 そんな背景があり、しかも主人公の職業が作家であるということを考えると、ナチス占領下のパリでの生活は、薄氷の上に立っているようなものであった。ナチス協力者が圧倒的多数を占めるパリ。東京都民の殆どがアベ応援団になっているようなものだ。しかし妻として夫の側につきたいという気持ちと、作家としての反骨精神の両方があって、ナチスの敗北と連合軍の勝利を堂々と主張する。前半はある意味爽快な感じさえする話だった。 しかし後半になると、妻や作家よりも女が前面に出てくる。夫を待つ妻の役割に疑問が浮かんでしまう。それに近くに自分を思ってくれる男がいる。遠くの親戚よりも近くの他人ということもある。待っているうちに夫のイメージが薄れていく。逆に近くの男の存在がどんどん大きくなる。もはや夫は失われた記憶に過ぎないものとなる。原題のフランス語「La douleur」は多義的な単語で、女性の苦しみのすべてを一言で表すような言葉だが、後半のイメージはまさにこの単語に集約される。 フランス映画は哲学的であるがゆえに冷徹だ。戦争中にナチスに協力したフランス人の富裕層の振る舞いを言い訳できないほどストレートに描く。また、夫を待つ妻が実は心の中は愛に飢える女であることを遠慮なく赤裸々に描く。人間は愚かで臆病で自分勝手な存在だ。それゆえにいつまでも戦争がなくならない。共同体との関わり、属する組織、属さない組織とのそれぞれの拘り、そして自分自身との関わりという3つのバランスを危うく保ちながら、綱渡りするように生きている。それは哀しいことでも嬉しいことでも、いいことでも悪いことでもない。人間はそういうものなのだ。本作品はそのように語りかけてくる。
圧巻の演技
主人公の主観を文学的に表現しながら進んでいくので決して観やすくはない。若干の疑問が残るのと少々長く感じた点は残念だが、撮り方、サウンド、人物など文句なしの作品。女性の本質は女性の誕生から未来永劫不変なのかもしれない。 それにしても名女優!
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