「図々しい人生」こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 hayatoさんの映画レビュー(感想・評価)
図々しい人生
筋ジストロフィー患者がボランティアと共に人生を全うする話。
他人のお世話になりながら図々しく生きる。そんなことがあっていいのかと思い見に行ってしまった。
鹿野はなぜわがままに生きれたのか?彼の、周りの人に愛されるわがままは、僕たち健常者がよく想像する煩わしいわがままとなにが違うのか?
彼はわがままさによって、不自由な体のまま自由に生きることを獲得した。なぜなのか。
・ユーモア
彼と一緒にいることは、時にボランティアの労力を上回るほど、楽しいのだ。
・情熱
彼の心は「やりたいこと」で満ち溢れており、ゆるぎない目標を持っている。普段、そこまで強い情熱を抱いて生きることができない僕らは、より強い情熱を持つ人に際し、その他人の持つ情熱の実現のために動くことで、自分のために動くよりも、むしろ充実感ややりがいを感じられるものである。
・本音でぶつかり合える
鹿野は言いたいことをなんでも言う。それどころかボランティアに対してはあくまでも対等なスタンスを取り続けている。常に介助される状態にいながら、貸し借りの一切ない関係を貫くことで、遠慮なく自分の心が望む通りに生きることができる。
他人にわがままを言えるようになることは、確かに自分らしく生きるためのヒントな気がする。でも、現実には僕らがそのように生きるのは、やはりとても難しい。なぜなのか。
・本音と気遣いの両立
鹿野とボランティアの関係は、ボランティア自身が心から支えたいと思わねば成り立たない。そのためには、遠慮のない関係を築くため本音でぶつかると同時に、相手に好かれなければならない。本音をさらけ出すと同時に、周りの人間が自分のもとから離れていかないような言葉遣いや態度を持ち続けないといけないのだ。
・気持ちを曝け出すことの難しさ
僕らはついつい感情を押し殺してしまう。田中はデートの約束があったのに、わがままを言う鹿野に対しなにも言えないまましぶしぶ夜まで付き合った。鹿野に向かって、あなたの介助よりデートに行きたい、と本音はやっぱり言えないものだ。
・情熱的に生きることの難しさ
鹿野の病状は深刻である。きっと彼も怖くてたまらないに違いない。それでも、絶望的な気持ちを外に出してしまうと、忽ち対等な関係は崩れてしまうし、人を引き付ける強い情熱に影が差してしまう。これは僕たち健常者でも同じ。かつては常に高い目標を掲げ毎日情熱的に生きていた人でも、挫折を何度か味わったり、身の回りの出来事に対する感動がだんだんと薄まったり、目の前の仕事に追われて自分が本当にやりたいと思っていたことに意識を向けられなくなったりする。自分は情熱を持っていると堂々と言える人生を送ることの、いかに難しいことか。
わがままによって我が道を生きた鹿野に憧れる。でも現実に立ち返ってみると、やはり鹿野のように生きるのはとても難しい感じがしてしまう。それじゃあ僕らはどう生きるべきなのか。
・自立とは、「他人に迷惑をかけないこと」ではなく「自分が思うように生きること」である
僕たちはよく「人に迷惑をかけてはいけません」と教わって大人になってきた。でも、自分が幸せに生きることができる「自立」は、そうではなかった。
・与えられる人間になる
自分が思うように生きるためには、人から与えられることを厭う必要はないのだ。でも、人から与えられる人間になるには、人に与えられる人間になる必要があるのだ。鹿野にとってそれが、ユーモアであり情熱であり人生観であった。そして人に与えることは、自分にとっても幸せなことなのだ。
・自分の思いを大切にする
社会のしがらみの中で生きる僕たちは、自分が本当にやりたいと思っていたことがなんだったかを自覚することこそが、実は一番難しい。でも難しく考える必要はないのかもしれない。バナナ食べたい、アメリカに行きたい、デートしたい、みたいな普段ふっと思い浮かんでは消える色々なことに対して、物怖じせず口にでき、それに向けた行動を取れるかどうかではないだろうか。
おわりに
何事もとかく難しく考えてしまうけれども、今回も映画館の中では楽しく見れたのでよかった。
全くの健康体で大学院まで行って一部上場企業に勤める僕より筋ジストロフィー患者の方が幸せな生涯を送っている気がしたのはいかがなものか。
でも、それはちっとも不思議なことではないのだ。「キスしてほしい」で盛り上がれて、周りに与え与えられる人がいれば、人は例外なく幸せになれるのだ。きっと