「内容も姿勢も問題山積」機動戦士ガンダムNT 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)
内容も姿勢も問題山積
OVAで全7巻、それを再編した地上波アニメで全22話あった「機動戦士ガンダムUC」、その1年後の世界を90分の映像で描く。
UCの頃には影も形もなかった「ユニコーンガンダム第三号機 フェネクス(フェニックス)」の捕獲を巡る物語。連動して、3人の幼なじみの物語のようでもあり、UCに続いて「ニュータイプ(以下NT)とは何だったのか」に対する物語でもある。
主題や物語を描くための手段としてNTが登場するのではなく、「ガンダム世界におけるNTとは、どういうものなのか」を定義・解説することが目的となっている作品のため、独立した活劇として観ることが困難な作品。なので、「ガンダムというシリーズ作品としては」という見方しかできず、感想もその中でしか生まれない。
その上で感想を述べるとしたら、自分としては終始うんざりが続く90分となった。
その理由は
①旧作の主観的、比喩的な表現を「客観的事実」として1つ1つ解説することにセンスを感じない
②その「客観的事実」をフル活用して描かれるかつてない大スケールの戦闘(?)が、宇宙世紀作品として受け入れがたく、シリーズが積み上げてきた数々の風味を台無しにしていると感じる
③上の二つについて、非シリーズ原作者が公式の宇宙世紀正史作品でやるべきことでないと感じる
④主要人物たちに魅力がない
⑤人物の作画も、2018年の映画としては非常に弱い
という5点から成る。
それぞれについて、具体的に言及する。
【①旧作の主観的、比喩的な表現を「客観的事実」として1つ1つ解説することにセンスを感じない】
ガンダムUCの頃からそうだったが、福井氏の悪癖であると感じる。
例えば、1stガンダムでララァが「時が、見える……」と言って散れば、福井氏はララァの心象としてではなくて「ニュータイプは、過去や未来が見えたんだ」と、「(ララァ以外でも)NTならできること、できるという事実」として受け取ってしまうらしい。
このような解釈が
「1stホワイトベース隊の、NTが多すぎる事実」=NTは感染するから
「1st最終話の、アムロとカツレツキッカの念話」=NTは能力を分け与えられるから
「ジ・Oのビームを弾き、動きまで止めたZガンダム」=NTはサイコフィールド・サイコシェード(シャード)を使えるから
「カミーユやジュドーに加勢した、死亡済みの面々の幻影」=思念体として別次元で次の生を得ているから」
「小惑星アクシズの落下を止めたνガンダムとアムロ」=サイコフーレムの共振で、意思を物理的なエネルギーに変換することができるから……
と、過去作の数々の超常的な決めシーンすべてに対して当てはめられ、解説される。
よく言えば、かつて主流だった独自解釈&独自解説主流の同人誌のノリ(妄念に入れ込んでいる作者以外はまず面白くないという点を含めて)なのだが、公式の正史の作品として語られるときつい。その「解釈・解説・事実定義」が面白くなる方向ならともかく、宇宙世紀やNTを巡る物語としては決して面白い方向に機能していないからだ。
執拗な癖ともいえるこの「定義癖」は、例えばある野球部員が甲子園決勝のマウンドで「昔亡くなった、エースピッチャーだった弟の声が聞こえた気がした」なら、「全てのエースピッチャーは、死者と交信できる能力を持つ。全てのエースピッチャーは死後に思念体として別次元で生きている」と解釈するようなものである。「個」の主観的体験として演出された事物を「法則」として解明するかのように物語るのは、本当に面白さに繋がっているだろうか。
【②その「客観的事実」をフル活用して描かれるかつてない大スケールの戦闘(?)が、宇宙世紀作品として受け入れがたく、シリーズが積み上げてきた数々の風味を台無しにしていると感じる】
①で挙げた内容はガンダムUC、ガンダムNTの作中ではすべて「やろうと思えばできること」として認定されるので、作中人物たちは敵も味方もそれらを「手段」として駆使した超常の戦いを行う。
ビームは強い意志を持ったサイコフィールドで弾けばいい。サイコシェード(シャード)で敵の装備を組み立て前まで時間を戻して無効化すればいい。念話で連携をとればいい。亡くなった者たちの思念体としての力や、人類の集合無意識を拾い上げる力を駆使して、物理エネルギーに変えて圧倒すればいい……など。特に本作では、(サイコフーレムで増幅されているとはいえ)、敵側がかめはめ波だけでなく何の捻りもないサイコキネシスで物理的破壊を行う。コックピットでふん、はっ、と念力的なポーズを取ると、超巨大なヘリウムタンクが見えない力にねじ切られ爆発するのだ。これは福井氏の「現実世界を賑わせたサイコキネシスも、サイコなんだからNTで説明できる」という解釈だろう。ただ、それを実弾やビームを超えるより便利な武器として描かれると、宇宙世紀ものとしては観たくなかったという感想が勝る。
【③上の二つについて、非シリーズ原作者が公式の宇宙世紀正史作品でやるべきことでないと感じる】
ガンダムUCの頃からそうだが、福井氏のこだわりは「ガンダムという世界観を自分が包括する」ことである。シリーズ原作者である富野氏よりも自分の方がこの世界を理解している、それを表現するというベクトルがつきまとう。ガンダムユニコーンと銘打ってUC(ユニバーサルセンチュリー、宇宙世紀)の0年と原罪を描き、ガンダムナラティブと銘打ってNT(ニュータイプ)の解説と帰結を描く。「後発の、ファンの一人」にすぎないにもかかわらず、枝葉を描くのではなくて、幹を自分という塗料で塗り尽くそうと試みるのだ。しかもその手段が「思念体としてのシャアの亡霊がそうさせた(比喩ではない)」など、上述の通り70年代~80年代スーパーロボット感であり、私としてはセンスを感じない。結果、不遜を尽くしていると感じる。
そもそも2002年の氏の出世作である『終戦のローレライ』の時点で、1996年の『ガンダムX』の言葉置き換え物語すぎて、「この人はガンダムが好きな人なんだなぁ」と苦笑いだったが…元より、「誰かになりたい人」でしかなかったクリエイターが、「その誰かを超えたと見えるように包括的な話を書いて、全力でそういうことにしたがる」という悪戦苦闘は、本作よりも物語として面白い。
【④単純に、主要人物たちに魅力がない】
観れば誰でもわかるので割愛。
【⑤人物の作画も、2018年の映画としては非常に弱い】
自分は作画を重視しない人間だが、それにしてもアップが多いミシェルの顔などは、もう少し美人にしないと画面が持たない。「最低限クリアしないと、お粗末さに笑われてしまう」水準のまま出ていると感じるので、これは制作進行のミスだろう。
【総評】
自分はガンダムUCの時点で氏の傾向を嗅ぎ取って「なんだかな」と思っていた人間なのでこの程度の落胆で済んでいるが、UCの大ファンで「4年後のUCの新作」として待ち遠しく思っていたファンには、より顕在化した氏の個人的嗜好傾向や格段に落ちた人物作画で、非常に苦しい思いをした人も多いのではないだろうか。
「正史として、宇宙世紀やニュータイプの包括」に執着する原作者であり、その目的のために作られた作品だが、とはいえ本作で描かれた「進化人類」たちのサイエンス・ファンタジーは、U.C105年の正史「閃光のハサウェイ」や、それ以降とはまったく繋がっていない。そういう意味で雑で半端な作りであり、ガンダムシリーズファンとしても、UC後半や本作の設定・定義を肯定する方が全体世界観の調和を損なうので、観ないでいい作品だったと思う。