読まれなかった小説のレビュー・感想・評価
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議論!問答!議論!問答!
原題は主人公シナンの書いた本のタイトルと同じ。意味は「野生の梨の木」
その中で使われている単語「アフラト」は梨の木の意味とトルコの遺跡のある町の名前である。これは作中でも言及される。
シナンの言葉や、そのあとの会話、何度も出る東部などから読み取れるのは、遺跡に代表される昔のトルコと、そのに生きる市井の人々の今と未来。つまり今のトルコを表していると思う。これが第一層。
今のトルコの市井の人々の中にシナンと父の物語があり、私たちが主に観ている第二層を形成する。
シナンは自分の本をメタノベルと言った。これはオートフィクションのことであり、自身のことを第三の主人公に置き換え小説の形をとる、日記と小説の中間のような作品だ。
常にシナンの視点で展開する本作がシナンの小説そのままであるともいえる。
シナンの夢や妄想のシーンが多く、振り替えってみると、作品内で起きた出来事のほとんどがシナンの夢ではなかったかと思えないこともない。
本は映画であり、映画の中が夢や妄想であった場合、シナンという男とは?というのが物語の帰結点で、最初に書いたメタノベルに回帰する。
昔は立派だったがギャンブルで失敗した父をシナンは嫌っている。
シナンの視点で観ているので、当然私たちの目にもシナンの父はしょうもない男に映る。
しかし実際は、シナン以外に父を悪く言う人はなく、本当にクソヤローなのは、大学を出ても仕事はせず、父と同様にろくに友達もいない、人をバカにし高圧的に議論を仕掛けるシナンの方なのだ。
もちろん父もダメな男だ。しかしシナンのクソさに比べれば可愛いものなのである。
町の大学を出たインテリで、自身の故郷である田舎やそこに住む人をバカにしていること。そして若いこと。この2つが相まってシナンを拗らせまくったクソヤローにしている。
何度も出てくる犬は父だ。その父の写し身である犬を売ることで、ある意味父と決別し、東部で兵役につき、本を出版することで自分の内面とも決別した。
そうして初めて、クソヤローだった頃の自分も認めてくれていたのは父だけだったと気付く。
子どもだった自分が井戸で首を吊る最後の妄想でクソヤローのシナンは死んだ。大人へ成長し、無意味だと思われる井戸を掘るエンディングは感動的だった。
巧妙に構成され、有名な戯曲や小説や映画などからの引用も多いらしく、とにかく複雑だが、普遍的な若者のやり場のない怒りと成長というメインプロットに対して、トルコの現状や宗教まで乗せたのは、関連性も薄くやりすぎで、そんなに面白くない。
何度もシナンが仕掛ける議論、問答、言い争い、これらの言葉攻めが楽しめなかった場合は本当に面白くないかもしれない。
そういう意味では、小説ないしは舞台劇のようで映画らしくなかった。映像は美しいのだけれど。
コーランと口論
どことなく若きスタローンを思い出す風貌の青年シナン。大学を卒業したばかりの彼はトロイ遺跡近くの故郷へ戻り、処女小説「野生の梨の木」を出版しようと奔走する。500部ほどでいいというから自己満足の賜物なのか、とにかく印刷予算2000リラにはあと少し・・・。
彼の父イドリスは小学校教師であり、週末には競馬に明け暮れ借金も多い。シナンからすれば聖職とは名ばかりのダメ親父に映っていたのだ。しかし、大学も出してもらってるし、尊敬はできないけど、完全には亀裂が生じてるほどでもない。祖父の畑に井戸を掘る作業も手伝ったりするのだ。井戸を掘って水を引こうというのがイドリスの夢。水さえ出れば貧しい農村に潤いを与えて暮らしが楽になるはずだという信念からだった。
ストーリーはかなり穏やかではあるけど、一旦議論が始まると激しく感情を揺さぶられる。とは言っても、ほとんどがシナンの若気の至りと言うべき人生経験の無さに腹を立てるといった具合。すでに小説家気取りの彼には全く共感はできないのだ。それでも家族に対する優しさも感じられ、父との関係をどう修復するのか?といった視点で展開を追う。
彼が世の中を知るのは町長の言葉や採砂工場のボスの言葉。そして思いっきり青春しているハティジェとの終わった恋やルザとのケンカ。しかし、地元の小説家スレイマンに対しては稚拙な文学論でくってかかるのだ。それは父親に対しても同じで、人生経験の無さを読み漁った書物でケンカを売ってるようなものだった。そして、家に金が無く、電気を止められた経験を経て・・・
山手にある畜産農家。ヤギのベルの音も心地よく響き、猟犬やジャッカルという動物に焦点を当てたかと思うと、アリにたかられる光景という珍しい映像も飛び出してくる。畑の中腹にある一本の木には意味ありげな朽ちたロープが掛けられていて、それが自殺を象徴するものだと感じるのですが、夢の中では死を連想するものもあった。しかし、導師二人の会話を聞くにつれ、神のいる国とそうでない国では犯罪と自殺者の数に違いがあるということだった。イスラム教もキリスト教とそれほどの相違はないこともわかるし、貧しい農村であっても神を信じる人々の社会には自殺者も少ないということだ。かなりミスリードする映像(特に赤ん坊がアリにたかられるカット)もあったけど、借金苦で自殺するという単純な物語ではなかった。
一番のミスリードは「読まれなかった小説」というタイトルだと思う。母親想いのシナンが丁寧にサインしてプレゼントした本は途中までしか読まれなかったし、妹も勉強で忙しいため未読だという。そして、案の定、書店に置いてもらった小説は全く売れずにいたが、父親だけはシナンのことをちゃんと理解していたのだ。3時間超の長尺もここにきて急展開。我慢して観た甲斐があったというもの。そしてその終盤にもミスリードする映像・・・シナンが首吊り自殺?!と思わせておいて、ただ井戸に降りただけというオマケつきだ。しかし長かった。商業ベースじゃないのだろうけど、ここまでして映画で文学を表現してもいいのだろうか。と感じた。
Good and bad memories should merge and dim and melt away.楽ありゃ苦もあるさ
人は、10歳前後、つまり小学4年生頃より自我が目覚め、第二成長期前の大切な時期とされる。簡単に言えば、好き嫌いを言えるようになる。そんな人間の”個”の始まりから十数年経ち、忌み嫌う人が、実は、自分の一番の理解者だとしたら?
ダーダネルス海峡と黒海に面するトルコの行政都市であり、トロイの木馬遺跡のアクセスが便利な観光都市でもあるチャナッカレを舞台にした人間ドラマとされる本作。
映画は主人公のシナンが、大学を卒業し、故郷であり、両親と祖父母が暮らすチャナッカレに久しぶりに戻ってくるところから幕が開く。バスを降りて早々に洗礼を浴びせるような言葉が待っていた。”親っさんに金を貸したが戻ってきていない”と...見ている方とすると”あ~っあ”暗くて長い時間が永遠に続くような映画が待っていると気持ちが萎えてしまいそうになる。これは、作者があらかじめ見ている者に話の筋を刷り込もうとして、父親とその息子シナンの関係をしめす比喩的表現の仕方か?
しばらく見ても競馬ホリックな父親だけれども見た目は笑顔を絶やさず、愛想がよく、家の修理なんかも何も言わずにしている父親で、かえってブラブラと小説家志望なんて夢物語を地で行くような主人公に対して不快感の様な変な反感を抱いてしまう。
映画が進むにつれて、エピソードごとを一つの章や小説のように表現していることに気付かせてくれる場面に出会う。特に、周りの木立が紅葉していて、しかも切り開かれた場所に美しい瞳を持っていることが、遠くからでもわかる幼馴染のハティージェが、こちらを見て立っているシーン。あまりにも美しすぎる丁寧な撮影がされていたので、これは、作者の思い入れのあるものかと最初、とらえていたが、その不思議なクリアな映像と描き方が反って幻想的で禁忌なものを感じてしまう。
全編を通じて、”音楽の父”バッハのC-minorのパイプオルガンでいつもなら登場するところを弦楽調にアレンジをした曲をサウンドスケープとして、作者はいい感じで流しているつもりかもしれないが、あくまでも個人的な意見として、バッハではこのむさ苦しく、モッサモッサ歩く男では、とてもではないが違和感の何物でもなく、しかもそれをパンしたり引きで撮ったりもしているもんだから、滑稽というチンケな言葉が、お似合いなものとなっている。
誰かが言っていたが、ジェイラン監督の映画に対する思いれは、”物語を語るだけでなく、人間の状態を探求することにある。”つまり、個人的勝手な解釈では、登場する人たちの自己主張とまでは言えない”ず~ッ”と続く’とりとめのない’会話と小説のようなエピソードを寄せ集めて構築しているので蒙昧な者にとっては、とにかく会話も物語も両方ともダラダラと長く、邪魔なものとしか感じられない。そんな長い話の中には、Q&AサイトのQuora(クオーラ)での指摘でもあるようにトルコの御国事情なんかも会話の中にされげなく...
Like most teachers. I started out in the” desolate village” of the East.
なんてね。知らんけど。
そんな中でも約15分間のシナンとたまたま本屋で成功した作家スレイマンの会話のシーンが個人的には、この映画の息抜き的なものとなり、何十年か前のことをふと思い出させてくれる場面として....この二人の会話の場となる本屋の雰囲気が抜群にいい。どこがいいかと聞かれても稚拙すぎて表現ができないが、日本だけでなく東洋人の持つセカンドハンドの本に対して、何を売っているかだけを示す古本屋と言ってしまうところと横文字の”Rare Book Shop”と店に看板をかけた落ち着いたカフェ調の違いと言えば分かってもらえるのか?
What is it? So the book's out?
”For dearest Mum. It's all thanks to you and for you alone.”
Sinan
いつも母親は、いい立ち位置にいる。
自分の父親をMr. Loser と呼び、
自分自身の事をPeasant と呼ぶ。実の妹までもThe shepherd's living in
his father's storeroom.なんて揶揄しているが?
”The shepherd”なんて言われ、今や家族と別居してボロボロの家に住む父親。シナンはその家で、あるものを見つける。彼の写真だけで中身が空っぽの財布。つまり一銭のコインもない財布のその奥に大切に折られている新聞記事の紙切れの端を見つける。
Literature in Çanakkale - Sinan karasu
そして二人の会話へと続く......
The young should criticize the old.
That's how progress works.
You know, sometimes things I see in you, me and even Grandad
remind me of a wild pear tree.
I don't know. We 're all misfits, solitary,
"misshapen".
Everyone has their own temperament.
The fruit of wild pears is misshapen like you say.
But I have it for breakfast some days and it's so good.
My point is, yes, human nature is as full of oddities as animal nature.
唖然とさせられてしまうこの会話が、一瞬の幻覚を見せる場面に繋がる。
その幻覚は、”自分を毛嫌っている息子なんて消えろ”と思っているのか?それともシナンの今後を不安に思っているのか? 当然.....
とにかく両親だけは本格的な役者さんとわかる台詞でもシナンを含めておじいちゃんもおばちゃんも友人も全ての人が、自然なおしゃべりをされているのでモキュメンタリーか?と錯覚してしまいました。嘘です。すみませんでした。謝るぐらいなら、書くなってか?
一つの部門ですらなかなか簡単にはノミネートされることすらできないピューリッツァー賞 。多くの部門で受賞をし、ノミネートなんて腐るほどしていて、自らを気おくれすることはなく堂々と"World's Greatest Newspaper"とのたまわっているアメリカの新聞紙Chicago Tribuneが、短い言葉でこの映画を絶賛をしている
「待ちきれないほど、もう一度見たい。」と.....?
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