「レベルのちがう重み」読まれなかった小説 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
レベルのちがう重み
ヌリビルゲジェイラン監督の作品はレビューがしづらい。
なんていうか、人生の深淵を見つめる感覚が、半端なさ過ぎる。
その目線/洞察力にくらべたら、わたしたちの世界は、なんと甘ったるいものであろうか──と思ってしまい、萎縮してしまう。
ロシアのアンドレイズビャギンツェフ監督もそんな感じがある。
イランのアスガーファルハディ監督の映画もその感じがある。
わたしは牽強付会とは知っているものの、海外映画と日本映画の比較へもっていく文章展開が好きである。
アメリカや韓国などとくらべて、比較的映画が発達していない(と思われている)国々がある。
日本映画もほんとは発達していないが、一般的な日本人の見地から、映画の第三世界と見なされている国がある。多分ふつうの日本人は「トルコの映画、へえ、めずらしい」ということになるはずである。
ところが、じっさいその映画を見ると、日本より、だんぜん精神性が大人である。
その「大人」も、われわれが常用する「大人」より、ずっと「大人」である。
精神性だけでなく、映画もずっとじょうずだ。
それが衝撃や萎縮になる。
なにか一つを見てそう思ってしまうのは、たしかに牽強付会であり過剰一般化でもある。が、わたしたちはいったいどんだけの文明国だっていうのだろう。──という気分になる、わけである。
映画は、それを探究するひとにとっては、とても影響力の高いものだ。
茫漠たる農村がひろがっている。しみったれた田舎である。だけど、カメラは流麗である。テクノロジカルでぐいぐいフォローする。
に加えて、アナトリアでも見た語る長回し。後頭部を超スローでズームしていくだけで、そこに人生が見える。
シナンが大学を卒業して、田舎に戻ってくる。小説みたいなものを書いて、出版しようとしている。かれは田舎で終わりたくないと思っている、類型的なモラトリアムである。
だが映画に類型性はない。モラトリアムな青年だが、その年代の日本人よりも、かれは多種多様なことを考えている。が、社会は手厳しい。辛辣である。
しんらつとはなんだろう。辛辣とは、たとえば夢を追ってがんばっている人にたいして「おまえには才能がないからやめろ」と言うようなこと──を指している。
そんなダイレクトな言及はないが、その辛辣が映画にはある。思えばわたしたちは、なんと優しい世界に生きているのだろう。
こういった映画と日本映画、たとえば「21世紀の女の子」なんかとの併映は、とても考えさせる試みだと思う。大人と子供のちがい。社会や社会システムのちがい。つくづく圧倒させられる映画体験だった。