A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリーのレビュー・感想・評価
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オカルトチックな映画だが…
ちょっと前から気になっていた作品だったので鑑賞。今まで見たことないような映画でかなり驚いた。
事故で死亡した男が幽霊となって自分の妻を見守るというシンプルなストーリー。
演出も抑制が効いており、長尺のカットに音楽もほとんど使わず、セリフも少ない。キャラクターの動作から読み取る部分が多い。それらが成り立っていたのは緻密な脚本があったからであろう。少ないセリフから感じられる人間や幽霊の存在する意味、それは決してオカルトチックではなく普遍的なものである。
鑑賞後にジワジワと押し寄せてくるこの静かな感動は今まで映画から味わったことはなかったかもしれない。どこか文学的な気もする。ユーモアに溢れ不思議な映画ではあるが、その細やかな機微に心打たれる。
すべては消えてゆく…それでも…
余白の多い映画だ。論理的解答を用意していないが故の豊かさがある。存在論、認識論、時間論として見てもいい。時間の持続、圧縮、飛躍、反復がある。最後に重層的で厚みのある時間・空間に到達したとき少し泣いてしまった。エクリチュールの痕跡、消滅、見事な幕切れ。
時間芸術という小説の側面をうまく活用したトーマス・マン『魔の山』を思い出してもいい。序文にこれは時間論だと書いてあるしな。主人公がサナトリウムに行く1日目は精密な描写で非常に長い。それが2日目からはだんだん短くなり、1週間続くとその後2年間くらいがあっという間に過ぎ去ってしまう。
この作品でも、アフレック(ゴースト)とマーラの家での時間が最も長く、ゆっくりとした感覚で描かれている。その後は少しずつ短くなり、あっという間に時間が飛ぶ。冒頭と劇中に引用されるヴァージニア・ウルフ小説の如き"意識の流れ"にも通ずる時間感覚と言ってもいい。
(余談だが、この映画で引用されてるヴァージニア・ウルフの「幽霊屋敷」は4〜5ページくらいしかない短編で不思議な後味を残す。ぜひ読んでもらいたい。)
(更に余談だが、『魔の山』では舞台のサナトリウムが時代のフィジカルな側面から断絶した場所、時間が静止した場所として描かれていたけど、登場人物がそこから下山し、時間へと回帰するには、病状回復よりむしろ自ら成すべきことへの意志が熟すことが必要条件であるかのように描かれていて風立ちぬ〜)
この作品で最も言及の多いパイを食べ続ける5分弱の固定カメラ長回し。「悲しみが伝わってきた」という肯定的意見、あるいは「退屈で苦痛だった」という否定的意見、どちらにせよ、あの気の遠くなるような時間こそを共有しろよ、立ち会えよ、凝視しろよ、ということだろう。時間的持続の中に我々を静かに巻き込み、彼女を凝視するゴーストとの共犯関係を結ばせる。
最愛の人を亡くすという飲み込むことが不可能な巨大な喪失感。その代替を果たすかのように、手元の小さなパイをひたすら機械的に飲み込むという行為。本来は生命維持に不可欠であり、文化的な楽しみも含んでいる「食べる」という行為を通して、飲み込めない悲痛さを表現したこの場面は素晴らしいものだと私は思う。
この場面の音にも注意を払ってほしい。ルーニー・マーラの鼻をすする音や、フォークと食器のぶつかる音の他に、外から子供の声や車のエンジン音が聴こえてくる。つまり、外の世界は昨日と連続した変わらないものであるのに、夫を失ってしまったこの家・この私は昨日とは決定的に変わってしまった…という対比として立ち現れてくる。
(またまた余談だが、ルーニー・マーラはヴィーガンなので、あのパイはヴィーガン用に味付けされたものらしく、味がめっちゃ不味かったらしい…。泣きながら食べてたのは不味すぎてだったのかもしれない…。)
ルーニー・マーラがパイ食べる前に洗い物したり、ゴミ箱を見て一瞬の間があったり、ベッドシーツ洗濯しようとして泣いちゃったりとか、あれも説明はないけど夫が死んでからシーツ洗ってないしゴミもそのままで何も手がつけられなかったってことだから台詞なくても映像で十二分に語られてる。
この映画のフレームは四隅が丸く切り取られたスタンダード・サイズ。プライベートフィルムを覗き見るような懐かしさと親密さがある。この狭いフレームによって、2人が寄り添って同じ枠に収まる距離の近さを保証するし、逆にゴーストが家・土地から出て行けない閉じた牢獄として象徴的に機能しているように思う。
個人的にはルーニー・マーラの線の細さと、幽霊のシーツのふわっとしたシルエットが同じフレームに同居するルックだけで満足してしまったところはある。
あと、あの時間跳躍で「アメリカの起源にまで遡ってその歴史的記憶(原罪)をも総括するつもりなのか!それはいくらなんでも超大すぎるだろ!」と一瞬びっくりした…。当然そんなことはなく、慎ましくも感動的、あくまでパーソナルなとこに回帰してくれて良かったよね。少しテレンス・マリックっぽさあるけど。
あの時・あの瞬間を理解するためには長大な時間的飛躍、スケールが必要だったっていうのはロジックではなく感覚的にスッと理解できるというか、過去の誤ちをずっと後になって理解できる感覚に近いというかなんていうかね
ラストの反復されるあの場面のゴーストは意味理解の審級が繰り上がった主体としてあるように見える。客観化されたかつての「私」は私そのものではなく、そこから逃れる現在の「私」こそ、自己と世界に意味を与える固有の存在なのだ。なんつって。
メルロ=ポンティおじさんが言う実存の問題とかね。彼の言う実存とは、事実・状況を捉えなおし、そこに意味を生じさせること。換言すれば、超越の運動のことだ。まあここでは言語や制度化の問題について語られているのだけど…
あと、ルーニー・マーラが主題曲になっている『I Get Overwhelmed』を聴く場面もよかった。ヘッドホンで聴く過去と、床に寝転びながらイヤホンで聴く現在のカットバック。音楽は連続していながら現在パートはイヤホンから漏れ聴こえる音響設計。
このときの画面の停滞感と比較して、ひたすら美しい音楽が流れていくってのがいいんだよ。停滞した映像は「瞬間」を、流れる音楽は「時間」を表してるのかな。
ゴーストが消滅する瞬間にシーツがフッと地面に落ちていく様の微かな浮遊感・質量感にハッとするような驚きと快感がある。それこそ、メリエスの時代から連なる見世物としての映画のトリック感というか。スペクター(幽霊)とスペクタクル(見世物)、そしてスペクテイター(観客)の幸福な関係というかね。
書きたいことは山ほどあるが語り尽くせない魅力に溢れた作品であることには違いない。
自分が存在することの意味や生きる意味とは何か。
台詞は必要最低限にあるだけで、物語は映像と音楽で語られる。それらがもつ不思議な魅力よって、作品の世界に深く引き込まれた。
映画を見始めて、これはルーニーマーラが主人公で、それをゴーストとなったケイシーアフレックが見守る物語かと思ったが、そうではなく交通事故で死んでゴーストとなったケイシーアフレックが主人公の物語だ。
彼氏を交通事故で失い、悲しみにくれる彼女を幽霊となって見守っているが、時が経ち彼女は悲しみを受け入れ、前を向き家を去る。その時彼女は自分が住んでいた家にメッセージを残す。
ある1人の男が語る。「人間は必ず死ぬ。この世の中も全て消滅して何もなくなる」という風な話。
だとしたら、人間はいつか必ず死ぬのにどうして生きているのか。自分の存在することの意味や生きる意味とは何か。
それを、死後幽霊としてこの世に残った主人公は考える。
「自分の好きなこの家に居続けることが俺の人生、生きる意味なのだろうか」
それを解く鍵は彼女の残したメッセージにある。
しかし、それを取りかけた時家は壊される。
それから、時空を行き来し主人公は2人で過ごした時間にタイムスリップする。
そこで主人公はようやく理解するのだった。「彼女は未来への意志を選択し、自分自身で新たな人生を切り拓いたのだと」
それを彼女の残したメッセージから悟った主人公はようやく過去から解き放たれ、未来へと旅立つことができた。
煉獄に囚われた霊が浄化される話
人が物を食べるシーンがやたら長いのと、おばけが見つめる世界が次々と変わっていくのは
生きている人間と死者の対比になっているように感じた。
たぶん煉獄に囚われた霊が浄化される話だと思う。
主人公は死んだあとすぐに天国への道が開かれたがそれを自ら閉じて
あの家に執着する。それが主人公の小罪。そしてあの地に煉獄として囚われの身となる。
彼はその地に起きたことを延々と見せつけられる。皿を割ったり音を出したりの干渉はできるが
それ以上の干渉はできない。ただただ見続けるだけ。彼女が引っ越すが追いかけることはできない。なぜなら罪が浄化されるまで
煉獄に囚われ続けなければならないから。
幽霊の状態で高層ビルから身投げをしたのも煉獄から逃れようとしたためだろう。
もしかしたら彼はそのようなループを何百回と繰り返したのかもしれない。
最後のメモは別れの言葉が書かれていたのではないか。隣の霊が成仏したときは、目当ての人が戻ってこないと悟ったとき。
新しい人生を切り開こうとする彼女の決意を読み、もうここには戻ってくることはないと悟り、この世への執着もなくなり
成仏したのではないか。
好みが別れそう…
ゴーストストーリーって言っても、ホラーじゃないんですよね。ファンタジードラマと位置づけられてるんですよね。サブタイトルつけるなら、「ゴーストの一生」ってとこかな。私は、個人的に、面白いと思えなかったかなぁ。
夫が事故で死んでしまい、ゴーストとなって、家に戻って来るってのは分かるけど…。妻の絶望感も分かるけど…。その辺りは、無音状態が続くので、退屈なだったかなぁ。しかも、妻の黙々と食べるシーン。長すぎて、食べ終わるまで、このシーン続くのかなぁと心配したほど。そんな無音で、妻の悲しみを表してるのかなぁとも思うけど、長すぎる。
ラスト、このゴーストが、この夫婦を見ていたシーンは、どう考えればいいんですかね? ゴーストも輪廻転生するということですか? だからファンタジーって言うのか…って納得させてるけど、いまいちピンと来なかったなぁ。もう一回観たら、理解できるのかなぁって思うけど、もう一回観る気にはなれません。
あれ? 意外といいかも…?
すべてを理解は出来なかった
正直に言えば、難しくて分からん!
映画経験値が少ない私には厳しい!
でも何か掴みたい!そんな映画だった
ある一組の夫婦。家では物音がしたりとちょっと微妙な距離感ながらも仲良く暮らしていた。ある日夫が事故で死に妻は悲しみにくれる。だが、夫はシーツ姿のゴーストになるが妻には見えず…
とにかく長回しがスゴく長い!
ある意味叙情的でもあるし、色々と考えさせる余裕を持たせた長回しなのかも知れないがとにかく長い!
ぶっちゃけ眠気が…
妻がチョコレートパイを黙々と食べるシーンは悲しみの深さなどが伝わる名シーンとなるだろうが、他の長回しはどういった意図があったのか…
妻が家から去り、彼女の残した最後のメモを見るために、ゴーストはその家に残り続ける。そこやって来る新たな人間たち…
親子づれやパーティーをする若者、取り壊される家、時代も変化し…
突然現れたり、時間軸がワケわからん状態になるので、多くの人と語り合いたい映画である。
正直私は混乱してよく分かってないが、ラストで冒頭に繋がった瞬間は目を見張った
要するにゴーストの彼の妻への想いが、時も空間も越えて結実し、成仏する物語なのだろうか?
とりあえず今書けるのはここまでだ
他の方のレビューも参考にしつつ考察を深めたい。
シーツ姿なのに、どこか表情が伝わるようなゴーストが良かったね
儚く幻想的も。。。
手塚治虫の「火の鳥」の中に、似たように「時間を超えた存在」になった男の話があった。火の鳥の生き血を飲んで永遠の命を手に入れた男。が、これは所謂不老不死では無く、肉体は老いて朽ちて行き、最後には肉体は無に帰る。それでも精神だけは存在し続け、そこで起きることをただただ眺めているしかない、と言う話。
この映画のメッセージは、宇宙マニアのおじさんが酔っ払って演説する話の中にあります。人の一生、その生きる時間など何の意味もない。映画は「思いとココロこそが人が生きる意味である」と伝えようとしているんだと思うけど。。。
儚く幻想的な作りの映画ですが、欲を言うと、も少し美しさが欲しかったかなぁ。と、この手の話が好きで、読みまくってる人、見まくっている人からすると、かなり物足りない。センスは好きですが、この監督の次作に期待します。
【2018年総括】
[年度ベスト5:洋画]
1: 判決 二つの希望
2: ボヘミアン・ラプソディー
3: 30年後の同窓会
4: ラジオ・コバニ
5: ライ麦畑で出会ったら
[年度ベスト5:邦画]
1: 名前
2: 志乃ちゃんは自分の名前が言えない
3: 鈴木家の嘘
4: 万引き家族
5: ごっこ
[監督]
ジアド・ドゥエイリ(判決 二つの希望)
湯浅弘章(志乃ちゃん)
[脚本]
シドニー・シビリア 他二人(いつだってやめられる 7人の危ない教授たち)
川村元気(億男)
[撮影]
ラスムス・ハイゼ(バーバラと心の中の巨人)
今村圭佑(志乃ちゃん、ごっこ)
[男優]
ラミ・マレック(ボヘミアンラプソディー)
佐藤健(いぬやしき、億男、ハードコア)
[女優]
ミシェル・ウィリアムス(グレイテスト、ゲティ家の身代金、ワンダーストラック、ヴェノム)
木竜麻生(菊とギロチン、鈴木家の嘘)
[コンビニカップウィナーズ]
*コンビニでバイトでもしながら下積みからやり直して欲しい
唐田えりか
佐野玲於
[惜しかった映画]
(邦画) 「ねてもさめても」
主演女優の演技力は論外として。一つの人格に見えないってのは、もう致命的としか。
惜しかったのは「麦」の人格表現。生死感さえ希薄な、まるで向こうが透き通って見えるくらいの透明な存在。みたいなイメージなんですが、「あいつは危ない」と言う初期設定の女子が好きそうな安易な視点が×なのと、切れてスマホを投げ捨てるところが×。亮平を捨ててまでも「みんなの非難から守るための逃避行」に朝子が走る理由を、脚本が否定してるってのが惜しすぎる。このつながりの不整合なトコが、単なる腐女子の衝動的行動に見えてしまうのが惜しすぎる。
「同じ場所から違うものを見る」ラスト。「風景」を眺めて美しいと言った女。風景の一部の「川」をみて汚いと言った男。亮平と言う人間を見ている朝子と、朝子の一つの行動にとらわれてしまった亮平。と言う対比を象徴するラストとか、かなり行けてただけに、凄く残念でした。
(洋画) 「シェイプ・オブ・ウォーター」
イタスに至るところが、やっぱり納得できず。そこだけをどうにかして欲しかったんですが。どうにかしようと思うと、根底からいろんなものをやり直す必要はある。
[突っ込んじまった映画]
(邦画) カメラを止めるな!(3回)
(洋画) ザ・グレーテスト・ショーマン (9回)
2回見た邦画は他に無し。「名前」は行きたかったんですけど忙しすぎて行けなかった。TGSは気づいたら9回になってた。次点がボヘミアンの3回(今日時点)なのでぶっちぎりです。ゼンデイヤのピンクのカツラ姿が可愛かったのもあるが、ミリオン・ドリームスをはじめとして曲が好きすぎてね。やっぱりリピートしてしまうのは「音楽のある映画」になってしまいます。
笑っては?
切ない
ものすごく切ない。
その場から離れられなくなってしまった霊が
妻のメモの切れ端を見たい為に漂い続けるお話。
メモを見つけた瞬間に
成仏してしまったのだけれども
エンドロール後にもメモの内容は明かされなかった。
泣けとばかりにBGMなどで演出し「こう感じろ!」などと押し付けてくるような映画ではない。
とても静かででも時の流れは早い。
霊の表情は見えず、すべての感情を観る側に任せている。
その為、好き嫌いが分かれてしまう可能性もあるが、
人生の節目節目で見る度に
見方が変わってきそうな映画だった。
そして私は時々ビクーッと体が反応してしまったけども、最後の瞬間に自然と涙が流れた。
またエンドロール終わっても放心状態が続きなかなか立ち上がれなかった。
消えることのない一瞬の光
よほど霊感が強い人を除いて、亡くなった人と接することができる人はいないだろう。そんな当たり前とも思えることを本作は真っ向から描いているからこそ興味深い。
どんなに伝えたいことがあろうと、どんなに愛する人に会いたいと願おうと、ゴーストとなった主人公にその術はない。ただそこにいて、見守ることしかできない。シーツに身を包んだその姿から表情は見えないのに、その苦しさ、その辛さ、そのもどかしさが伝わってくる。妻に届け、気づいてくれ、という我々観客の願いさえもこの物語は退け、ただ亡くなった後での“伝わらない”時間を紡いでいく。
しかし、その時間の中で出会う(見つめる)人々のやり取りにこそ、本作の真髄は隠されている。主人公は亡くなってからも傷つき,怒り、悩む。人の生きる意味とは何か?死ぬ意味とは何か?神とは何か?そして、時間とは何か?答えなど簡単には出ないが、それでも私はこの映画のラストに今年見た映画の中で最高の清々しさを覚え、あの一瞬にこそ消えぬ希望の光を感じられずにいられない。
寝るのにいい
シーツを被ったゴーストのビジュアルがコミカルで、静かで切ない映画の雰囲気と合うか合わないかギリギリ。時の流れの中に静かに佇むゴースト。やりたいことはわかるし、嫌いじゃないけど、これじゃ寝ちゃうよ!てか寝たよ! ごめんなさい。
A GHOST STORY
無念の昇華
Cはなぜ死後あの世へは行かずこの地にとどまったのだろう。彼の無念とは…。
それは独りになったMの身を案じてのこともあるでしょうが、彼女への単純な未練ではないのです。その理由は、実は最後まで観ないと分からないのだと気付きました。
小さい頃から引越しに慣れ、その度に小さなメモを家に隠すことで、戻って来た時のためにと自分の痕跡を残してきたM。そして今はCと暮らす家から引っ越したい様子。しかしCは乗り気でない。
M “What is it you like about this house so much?”
.....
C “Honey, we've got history.”
M “Not as much as you think.”
終盤、あの家に留まりたい理由を「2人の歴史が [この家に] あるから」と述べるCに対し、Mはそれほどの歴史なんてないと冷たく返します。その返事にCは少なからず傷ついたと思います(というか自分なら傷つく…)。彼の作詞作曲した歌からは、いずれ彼女が自分の元を去るのではないかと恐れる寂しさが含まれているようでした。
Cの死後、Mが悲しみに向き合う時間は長く割かれており、特に泣きながらパイをむさぼり食うシーンは延々と…延々と…続きます(これが結構長い(^_^;))。
しかし彼女が日に日に喪失感から立ち直り、ついには新しい人生を求めて引っ越しをする以降は急にテンポが速まります。
Mが悲嘆に暮れる時間の流れは、Cも同じであり、「生命体と同じ」時間感覚で尺を取ったのだろうと思いました。その後はCにとって部外者の生活を眺めているようなものなので、切り替わりが速くなるのかも知れません。
嫉妬し苛立つとポルターガイスト化するC。
彼にとってあの家は、Mと幸せな時間を過ごしたかけがえのない「宝物」なのです。それなのにMは予定通り引っ越して戻らない。Mにとって自分と過ごした時間は取るに足らないものだったのだろうか…。
あの家でCとMが仲良く暮らしたことや、CがMを愛したことを、まして記念碑がある訳でもなく、全く誰も覚えていない。
そしてCはパーティーでの悲観主義的うんちく野郎 (一応預言者らしい…) の話に聴き入るのです。
多くの人は、せめて子供ぐらいと、自分の生きた証を残したいと考えるでしょう。しかしたとえ子供を持っても、自分のDNAが未来永劫確実に受け継がれていく保証はない。大勢の名もなき人々は、結局この世に何も残すことなく旅立っていく。歴史に名を残す偉人ですらその「真意」がどれだけ正確に後世に伝わるか分かりません。曲解されることなどしばしばです。いずれ滅びるこの世界で、自分が生きた証を残す努力は全て無意味なのだろうか…。
預言者の話辺りから、Cは自分の拘りに疑問を持ち始め、Mのメモを取り出す前に「宝物」であった家は取り壊されてしまう…。Cは絶望して未来都市であのような行為に至るのではないでしょうか。
タイムスリップ?した先は19世紀(とのことです)。移住してきた家族は、家を建てる前に原住民に殺害されてしまい、女の子の遺体も朽ち果て地に帰ります。
そして一周して現代へ。
実はわずかにすれ違いのあるCとM。
Mの強い要望を受け入れる形でCが引越しを承諾した瞬間に、ピアノのポルターガイスト音。幽霊Cは何にショックを受けたのでしょうか?
もしこの時、自分が引越しに承諾してさえいなければ、Mは自分の死後もずっとこの家に居てくれたかも知れない、自分との思い出に浸ってくれたかも知れないのに、と後悔したのです。
突然の事故死によりMに感謝もお別れも言えなかった。引っ越ししたがっていたけれど、この家での自分との暮らしを彼女は正直どう思っていたのだろう?聞けずじまいになってしまった…。
せめてMが隠したメモを読みたい…。ようやく柱から取り出すと、読む瞬間に消え去るC。
文面は出て来ませんが、そこにはMの本心が書かれていたのだと思います。Mは勿論、Cを忘れるために/忘れたくてこの家を出て行ったのではない。MもCと一緒に過ごした時間を愛し、思い出の詰まったこの家に愛着があった…。自分への疑いようのない愛情が「あの頃間違いなく実在したこと」を確認し、無事無念が晴れてCは悔いなくこの世を去ったのです。もしMがメモを残していなかったら、隣人幽霊のように、何を探していたのかも忘れ現世で漂い続けることになってしまったかも知れません。
私の想像する文面はこんな感じ。
“C and M had a loving history here.”
もしくは歌詞に含まれる疑問に対する答えかも。
地縛霊となってまで(^_^;)愛着がある土地に残っても時代は移り変わり、自分が生きた痕跡など残らない。確かに預言者の言うように、結果が残せないなら人間の人生全ては無意味とも取れます。しかし、19世紀の女の子が口ずさむ歌は、Cの歌のような…。つまり、19世紀のメロディが、巡り巡って無意識下でCの制作過程に影響を与えている可能性を匂わせることにより、たとえ目に見えなくとも、人は何かしらこの世にかすかな波紋を残していくことを示唆しているのではないでしょうか。この辺は“Cloud Atlas”を思い出させました。
CとMには子供がいないけれど、Mの心にはCとの愛が間違いなく刻まれている。
ついでに言えば、無形のラブストーリーはこの2人に限ったことではないから、””A” Ghost Story”。
夫婦の愛も、家族で囲んだ食卓も、ささやかに祝ったクリスマスも、踊りまくったパーティも、歴史に残るようなことじゃない。でもそんな繰り返しがこの世界を今日まで作ってきた。別に偉業を成し遂げなくても、未来で誰も自分を覚えていなくても、気に病むことはない、とりあえず行ける所まで地球と一緒に回ってみないか…。
(住民が移り変わり、いずれ壊される家=地球)
よく言えば芸術的な詩のようで、悪く言えば退屈で意味不明です(^_^;)が、いろいろな解釈ができる作品です。特にCとMに関する重要な情報(会話)が、観客がまだ映画にのめり込めていない冒頭と、理解に苦しみながら迎える最後に持って来ているので、不親切というか余計難解にしている気がします。個人的にはVilhelm Hammershoiの絵のようで、きれいな映画だったなと思いました。
白い布一枚で表現される幽霊に低予算感が漂いますが、よーく観ていると、目の開き方が違っていたり、シワや汚れを付けることで、悲しんだり年老いてくたびれたりと、表情豊かになっていました。
男の子が幽霊におもちゃの銃を向けて立ち向かう姿が可愛らしかったです。
Ke$haが出ていましたね。
思いの外芸術性高し
ただの恋愛物じゃない
大草原の小さな家
夫Cが死んでからしばらくは妻Mを定点カメラの長回しする手法もあり(特にパイを食べるカット)、どことなくヨーロッパ的な印象もあったのだが、幽霊となったCが柱の溝からMの書いた紙きれを穿り出そうとする辺りから雰囲気が変わった。いきなりのブルドーザーの乱入により住まいは壊され、時は流れ、再開発地域となったのだろうか、巨大な企業のビルが建ってしまう。それを嘆いて幽霊が自殺!?いやはやとんでもない展開だった。
時間がループして同じ場所だと思われる大草原。そこに現れたのが『大草原の小さな家』に出てくるような開拓者の家族。しかし、いきなり弓矢によって一家惨殺・・・ちょっと待って。人種差別に繋がる表現があるかもしれないので、ここはよくわかりません。
急速な時間の流れは逆に考えると、幽霊側の認知、記憶がぼやけてしまってるかのような隠喩。隣家の幽霊とあいさつを交わしたときにも「誰を待ってるの?」「わからない」といったやりとりがあった。幽霊として長く生きていると、当然頭も回らなくなってきて、記憶も途切れ、ぼけてくるはずです。ポルターガイストごっこをするのもボケたじいさんが暴れてるようなものだったのかもしれません。妻を想うあまり、新住人を追い出せば妻が戻ってくるんじゃないかと単純な発想しかできなくなっているような・・・。
天文学の知識をまくし立てるおじさんの言う通り、天文学的時間で考えれば何もかもが無駄に思える。そんな厭世的な発想も時間ループで愛を貫けば問題は解決するのですが、幽霊が二体になったりと、新たにタイムパラドックスも発生。ここまで来れば、もう大満足です。紙切れを見つけた途端にしぼんで消えるラストもシュール。こんな作品も世に出すA24はあなどれないなぁ。
ちなみに以下が監督が影響を受けた10の作品です。
『千と千尋の神隠し』(2001)、『ポルターガイスト』(1982)、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2013)、『オルランド』(1992)、『ブンミおじさんの森』(2010)、『ジャンヌ・ディエルマン』(1975)、『闇のあとの光』(2012)、『Old Joy』(2006)、『楽日』(2003)、『River of Fundament』(2014)
オルフェオとエウリディーチェだ。
「地獄のオルフェ」「オルフェオとエウリディーチェ」の物語がベースにあると思われる。
妻を亡くし悲しむオルフェを、可哀そうに思った神々。
オルフェは妻を取り戻す為に、黄泉の国に行くことを許される。
しかし黄泉の国から妻を助ける際に、オルフェオは決して妻を振り返ってはいけないと言われる。
しかし不安なオルフェは、ついつい妻を振り返ってしまう。
妻は息絶えるが、愛の神は「誠の愛」が証明されたとしてオルフェオとエウリディーチェを助ける。
しかし助けると言っても、二人とも天に昇っていくので行く先は想像できると思う。
本作の夫Cは妻の愛を確かめに帰るが、それが見つかるまで天には昇れない。しかし最終的には、夫Cも遅れて妻Mと同じ場所に昇ったと解釈した。
台詞は殆どないが、これほど登場人物たちの気持ちが伝わる作品はないと思う。素晴らしい。
全134件中、61~80件目を表示