幸福なラザロのレビュー・感想・評価
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胸の内側をゾワゾワさせるほどの快作にして怪作。本当に呆気にとられた
凄い。圧倒された。なんだこの映画は。単なる感動や美しさなどではなく、胸の内側をゾワゾワさせる何かがこの映画にはあるのだ。
古き良きイタリア農村風景が広がる。そこに一人の青年が暮らす。名はラザロ。懸命に働き、決して怒らず、穏やかな表情を浮かべる彼。だが人々は彼に関心を払わず、居ても居なくても同じ、空気のような存在として扱われる。そんな彼がなぜ、奇跡の聖人の名を付与されているのか。後半部では怒涛の展開が我らを襲う。まさかこんなことになろうとは予想もつかなかった。その内容については当然ここで書けるはずもない。
見る人ごとに感じることは違う。私には本作に、社会や文明に対する渾身の怒りや告発が込められているように思えた。もしも聖人が降り立っても、我々はそれに気づくことすらできないのかもしれない。だが我々は幸福にも、巨匠の風格を持つ若き女性監督を発見できた。この最大の喜びについてまずは神に祈ろう。
「ラザロは望まない」の反対…
「人間は望むもの」であるならば、望むものは人間であり、望まないものは聖人or神様なのだろうか。
欲にまみれた人間は悪魔で、無欲な人間は聖人なのか。
「ラザロ」が神様や聖人に見えてしまうのは、「人間だから」なのか。
オリーブの木?や、来るもの拒まずの教会の人間が拒んだり、キリスト教のシンボル的な子羊を食らう狼の存在、そんな狼が食した「子羊(死んだラザロ)」は、これまでのどの血肉とも違った。
ラザロになった狼は、町へ出て、ラザロの思考と記憶を沿ったままに行動する。その果てに、人間から責め苦を受け、ラザロの肉体を捨てて、狼となり山へ帰る。
キリスト教のいうところの人間(子羊)の怖さを知った狼は、山へ帰る。…というような解釈をしてしまえば、宗教の怖さや意味深さや皮肉さが感じられる。
タイトルがなぜ「幸福なラザロ」なのか。
欲を持たないがゆえに、不幸にならないから、幸福としているのか。
病気をしないなら「健康」なのか。求めなければ「幸せ」なのか。「幸福な…」が指すものは何なんだろう。
「人間」としての価値観で見てしまうから、ラザロが幸福には見えないのだろう。
深いな~。良い映画。
神でなく、人には何ができるか。
見終わった後の感想は「つらい...」。
ボディの奥底に、どすんと来ます。人間という生き物の真実。リアルに人生生きるほどに、人の残酷さが見えてきますが、残酷さは無知ゆえだったり、生きるため致し方なくそうなることもある。色々な経験と共振するから、観ていて辛すぎる。
一方、観ても全くわからない、感じない人もいるかもしれない。その方は、この世界を悩まず生きられる。いいな。深刻にならず、死ぬまでずっとそんな感じで生きられるのなら、真実は知らない方がむしろhappyかも。
でもその人達も、実はこの世の一端を担っているという真実に変わりはない。気付く気付かないは、別にして。
ラザロはシンプルです。元来、神はシンプルなのかも。でもこの世は神でなく、人が思ったことがカタチになっていますから、ごちゃごちゃだ。そして残酷、だけれどリアルです。
人が、「悪も善も兄弟だ」と思えばそうだし、善を悪だと思えば、殴り殺すこともできる。キリストは磔になりました。
逆に悪を善と信じて、騙される。
宗教は選ばれし者だけの恩寵と思えば、汚れた者や劣った者を悪として差別して排他する仕切りに使える。入れてやんない、と。
でも一方で、神という幻想を、人が作ったということも真実。人の中に、善なるものを行いたい思いがある。
アントニオという女性が、それを持っています。
彼女が何かとラザロを助け、かばい、それがまるで微弱な電波を出す発信地のよう。彼女が属する弱者集団さえラザロを見下し厄介者扱いしますが、アントニオだけはラザロの「不思議ちゃん」的なところを排他しない。シンプルにその不思議さを認めている。なんか凄くない?神ですか?と。
かといって、確信もってみんなに正義の説教をするのではなく、みんなが受け入れやすそうな、うまい口実も織り交ぜながら、仲間に入れていく。
そうすると半信半疑ながら、ちょっとだけラザロの凄さを垣間見て、驚き、好感を持つメンバーが出てくる。
一瞬だけ善の火が灯ったかのような。いえ期待しすぎ。次の瞬間には、またすぐ消えてしまう灯。
ラザロ自身は、何も望みません。親切に与えます。でもラザロが逆に、人にわずかなことを頼んでも、人はそれを断ります。ラザロは誠実。聞かれたら本当のことをいう。人はそれを利用します。ラザロは断られても、利用されても、恨みません。ラザロはただシンプルに、人が望んだように、叶えてあげようとするだけです。
まるで人が神に願い事をするかの様に。
その結果、どうなったか。
いやはや...一言では語れない映画。
「幸福なラザロ」は、多分私たちの傍、そこかしこにいるんでしょう。
自分の傍にラザロが現れたとき、私は気付けるだろうか。自分も生きていくのに必死なのに、ラザロを庇い、パンを分け与えられるだろうか。感謝や見返りを期待せずに。
いつだって属する群れは、同調圧力というブレーキをかけます。やめとけと言われる。皆の機嫌を損ねたら、自分も攻撃されかねない。一斉砲火を浴びかねない。
でもアントニオ。あなたがヒントをくれた気がする。
幸福なラザロを生かすも殺すも、ただ人に委ねられているだけ。厳しい現実です。
これはどうかな‥
外さない作品を選んでくださる飯田橋のギンレイホールですが、これは個人的にはガッカリでした。
人間ドラマのようでミステリーのようでファンタジーなのか?
銀行でボコボコにされるシーンも意味はわかるけど気持ち悪かった。
高評価の方もいらっしゃるので、感じ方は人それぞれなのだと思います。
聖書知識が必要かもしれない
一見、幸せそうではないラザロに「幸せなラザロ」(原題も同じ意味)としたところの意味を考えさせる映画。
前半は正直眠かったが、隠された聖書からのモチーフを探しながら見ていたらもう少し置きていられたかも、と見終えてから思った。
気付いた聖書から来ていること。
・ ラザロ: イエス・キリストの友人で、イエスが彼を蘇生させる奇跡を起こすことがイエスの神性が知られるきっかけとなる存在。
・ オオカミ: 善の代名詞「羊」を襲う絶対悪として聖書では扱われている
・ 聖書の「荒野の誘惑」のモチーフが登場している
1. タンクレディの挑戦した場所は「荒野」そのもの。
2. 悪魔による第1の誘惑「食」→ ラザロは『パンだけで生きるものではない』存在となる。
3. 第2の誘惑「権力」→ 自ら権力をと戦うタンクレディ
4. 第3の誘惑「神性の証明」→ 「神の子なら守られているのだから飛びおりろ」という誘惑。イエスは「神を試すな」と返す。ラザロも試さないが…。
・ 他、最後のラザロを打つ群衆など、聖書からのモチーフと思われるシーンが多々、気づけなかったものもたくさんありそうだ。
・ ラザロ以外の登場人物は、搾取されつつも同時に搾取を試みる存在として描かれている。
だが、そのメタゲームの中で絶対悪である人間は登場しない。
一方で、絶対善として描かれるラザロは絶対悪であるはずのオオカミと一体になっている。これは善悪の相対化を試みるメタファーなのだろう。
そして幸福の相対化。
この映画において「幸せ」の匂いのするシーンは明確で、それは現代的幸せの要素について考えさせる種になっている
ある日、ラザロが…。
感想がまちまちで、これだけ多様な映画も珍しい。現代の欲望優先の社会システムとその中で崩れてゆくコミュニティ社会と殺伐とした個人の関係がもたらす喪失感覚には様々な思いが投入されるからだろう。
無欲で疑うことを知らないラザロは辛うじて模擬中世の社会では居場所を確保し生活をする事ができていたが、突然の現代の到来により命を失うも、狼により数十年後の現代に蘇生する。しかし、そこにはラザロが生きていける社会はなかった。ラザロは古代の私刑のように素手により民衆から命を奪われる。ラザロから狼は立ち去り、ラザロが再び蘇ることはなかった。ラザロは聖人とはならぬままに二度死ぬ。現代に蘇りの聖人は存在しない。現代に神もいない。
羊なのか狼なのか。
聖書の中のラザロは、愛されキャラだ。
正直、特になにもしていない(笑)
何もしなくても周りの人が世話してくれ、祈ってくれ、神様に愛されて復活したりする。
神様に愛されるくらいだから、素晴らしい人なんだ!
と、みんななんとなく思ってる。
なんて愛されキャラなんだ!羨ましい。
本作のラザロも、無欲とか目が綺麗とか、
特に何もしてなくても、なんとなく無垢な人だと思われる。
でも本当は急に現れたラザロの世話をし、
嫌な奴に高級菓子をくれてやるアントニオの方がよほど善人だと思うけれど。
けれどラザロはそんなアントニオにはなにもしてやろうとせず、
タンクレディ(元侯爵;ラザロ達から搾取していた酷いやつの息子)の為にあんなことするなら、世話になってるアントニオになんかしてあげなよ。
でも、目が奇麗だし、無欲だし、無垢だし。良い子なんだって(笑)
狼がラザロをスルーしたのは、死んだと思ったからじゃなく、同族だと思ったからかもしれない。
羊の皮をかぶった、狼ラザロ。
それでもラザロは神様から愛されてるから『ラザロみたいに人から愛される人になりなさい』って、ある宗教では教える。
そのラザロに「私なんか子供が四人いるのに働いてるわよ!働きなさい!」と、フルボッコにするおばさんに、すげー映画だなって思った。
イタリアのサルビーニ内相が、
「イタリアはヨーロッパの難民キャンプではない」とは言っていたからな。イタリアでは、純粋無垢だけど無職の少年に優しくできる状態ではないんだろうな。
ただのイタリア農村リアリスモ映画ではない寓話映画
20世紀末と思われるイタリアの小さな村。
外界との交渉もなく、公爵夫人のもと、タバコ栽培を行っている。
ある日、公爵夫人と息子のタンクレディが村を訪れるが、タンクレディは田舎の生活が嫌。
無垢な青年ラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ)と知り合い、身を隠した自身を何者かに誘拐されたようにみせかける・・・
というところから始まる物語で、イタリアの一寒村の描写はエルマンノ・オルミ監督『木靴の樹』を彷彿とさせる。
なので「イタリア映画の農村リアリスモ映画だぁ」と思って観ていたら、タイトルロールのラザロが急峻な嶺から転落してしまうし、狂言誘拐だったにもかかわらず警察に通報され、村人全員が警察に連行されてしまう・・・
とはいえ、これだけならば、まぁ、イタリアン・リアリスモの範疇。
だが、映画はその後、あっというまに時空を飛び越え、現代にやってくる。
嶺から墜落したラザロはケガもなく、もと居た村に戻ると、すべてが荒廃しており・・・となり、驚天動地な展開。
前半、年老い、群れから離れた狼が人家を襲うようになり、その狼と対話を試みるひとりの男の寓話が語られるが、これが主要なモチーフ。
もうひとつは、ラザロという名前。
ラザロは、キリストの奇跡によって死後4日目に蘇生する聖人の名前で、無辜無垢の証。
「狼」を21世紀の文明と見立てたように物語後半は推移するが、後半を映画として活かしているのが前半の農村パート。
クライマックスは、論理的には理解不能の物語にもかかわらず、ある種の「奇跡の終わり」をみせられ、胸が熱くなるところがありました。
これ以上は、完全にネタバレしそうなので、書くのは止しておきます。
とはいえ、ただのイタリア農村リアリスモ映画ではないので、その手の映画好きには推奨をします。
残念な現実
世界がラザロみたいな人ばかりならいいのに・・・。
残念な現実を見せつけられておしまいって感じでした。
オオカミにわかる事もヒトにはわからない・・・。
どちらかと言うと気分が落ちるストーリーです。でももう一度じっくり鑑賞して、しみじみ味わいたい映画でした。
物語前半のイタリアの田舎の荒れた風景が好きです。
☆☆☆★★ 狼のキスによりラザロは、現代社会に昔の姿そのままに蘇る...
☆☆☆★★
狼のキスによりラザロは、現代社会に昔の姿そのままに蘇る。
映画そのものとしては、タンクレディが愛犬のを呼び。その声に呼応し、喜びで満面の笑顔を見せるラザロの顔のアップで終わるのが、言わば普通と言える。
…だが。
昔の仲間達の、現在の生き方には共感は出来ないが。映画はまるで、現代社会に於ける貧富の格差を憤る様な展開を見せる。
教会へとやって来る人々には、それぞれに何らかの理由が有る筈。しかし、【聖なる心を持つ】ラザロらを無下に帰してしまった事で。神の怒りを買ってしまったのか?教会から賛美歌が消える。
先日、観直す機会を得た『パフューム ある人殺しの物語』には。或る意味での《神の復活》を願う宗教映画としての側面が(此方の勝手な思い込みもあるが)在ると思ってはいる。
『パフューム…』の主人公は、ラストに。生まれ故郷のパリへと戻り。人々に食べられた事によって、肉体は消えて滅びるものの。魂は人々の心の中へと生き続けるのを(勿論、勝手な解釈ですが)示唆していた。
一方、この作品。銀行にてラザロの肉体はやはり滅びた様に思える。しかし、ラザロの魂は…。
(おそらく)ラザロの魂は、生まれ故郷へと帰って行ったのだろう。
ハリウッド映画だと、宗教的な作品は直接的に表現するが。ヨーロッパ系の作品だと、時々この様な描かれ方で、《神の復活》を願う作品が産まれる気がする。
2019年4月30日 Bunkamura ル・シネマ1
時代錯誤も甚だしい下らない
未だに小作制度という封建的な社会が現イタリアであった間抜けな話です。
そんな所に住むに人に質素や純朴、純真無垢などと言う言葉は当てはまらない。
それに輪をかけて復活まで盛ってしまうのだから始末が悪いダメな映画だった。
ラザロさんって誰?
ラザロは、イエスキリストの友人であると知り、この映画も宗教映画なのかと知り、映画自体難解なのだなぁと、作品の選択に自分を悔いた。ラザロ役の青年は、ど素人であり、スカウトされた人と知り、作品中判らないところもないではなかったが、彼の純真無垢な演技に引きこまれた。子供から大人まで何かあれば、「ラザロ、ラザロ」と呼ばれ、何一つ文句を言わずに、彼らの希望を叶える青年。素人のアドリアーノのキャスティングは、素晴らしい。この作品の監督は、性差別するわけではないが、女性。しかし、ラザロ青年を丁寧に描いている。2時間以上の作品ではあるが、ラザロの演技は飽きさせなかった。私は、ラザロという成人に会ったことも、話したこともない。しかし、今世紀にラザロが生きているのであれば、彼が最もさわしい人物なのかもしれない。最初は、隔絶された村の風景で、後半工業化された町の風景。この対比された描写は、監督自身の描く力が顕わになっている。最後は悲しい結果なのだが、これまでの成し得た業により復活するのか?それとも、あのオオカミは、元居た村に帰っていったのか。
独特のテンポで紡がれる教訓的世界
実話の詐欺事件を下敷きにしているとの情報で、もっとストレートな社会派作品かと思いきや、かなり寓話的、教訓的。昔話か説話のようなおとぎ語だった。
封建的な搾取から、正義と法により華々しく開放されたかに見えた村人達は、経済社会という新たな逃れようのない搾取の構図に放り込まれただけ。同じく貧困に苦しむ姿であるのに、前半の自然の豊かな色彩に対し、後半の都市の色褪せたモノトーン。追い詰められるように、盗み、騙し、他者を出し抜く事で生き抜こうとする村人達。そこでは、かつて搾取する側だった伯爵家の人々も、お金という幻に翻弄され落ちぶれるばかり。
その中で、ラザロだけが、姿形も心根も一貫して変わらない。欲しがらず、疑わず、ただ人の役に立ちたいとの、素朴な善意だけで動いているが、欲と損得が理の世界の中では、理解し難い人外の存在のように、その姿は奇妙に浮き上がってみえる。
人の富を損なう敵である狼も、何も持たぬ彼にとっては、恐れ憎む存在ではない。遠吠えで呼び交わし、都市の暮らしの内に郷愁と懐古を呼び覚ます。
彼には、人として当たり前の欲や疑念が、むしろ理解できないのだろう。きょとんと当惑して立ち竦む様は、愚かなまでに無垢で、けれど代償を求めるでも報われるでもなく、うねる我の群れに呑み込まれ、ひっそりと潰えていくだけだ。
売って、買って、もっと売って、買うの繰返しである資本主義社会。何かがずれている、こんな筈じゃなかった、と何処かに違和感を覚えながら、脱却もできずに日々を送る現代人の一人としては、色々と刺さるところもあった。
これみよがしに声高に批判を叩きつけるスタンスよりは、象徴や比喩の中に疑問を呈して考えさせる手法が好みなので、面白く鑑賞できたが、宗教色の強い比喩や、欧州映画によくある唐突に放り出されるようなラストなど、難解な部分もあった。
ゆったりとした物語のテンポ、のっそりとしたラザロの動き。受ける感覚や後味も独特のものがあり、好みも評価も分かれそうな気がする。
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