「世界の理不尽を笑い飛ばす」ブラック・クランズマン 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
世界の理不尽を笑い飛ばす
人間は他者の共感を得られないと生きていけない弱い動物である。弱いことが悪い訳ではない。ただ共感の範囲が、たとえば同じ星を見て美しいと言っているうちはいい。しかし徒党を組んで弱いものいじめをして喜ぶようになると問題だ。
人は同じ考え方や同じ感性の持ち主と一緒にいることで精神的な安定を得ることができる。同じような人が生きているということは、自分も生きていていいのだという喜びもある。感性や考え方は人それぞれ、つまり個性である。類は友を呼ぶというのは、個性の似た者同士は集まりやすい傾向があるという意味だと思う。
外見も広い意味では個性の範疇に入るかもしれないが、たとえば黒人がすべて同じ感性や考え方を持っている訳ではない。たとえばアメリカ人がすべて同じ感性や考え方を持っている訳ではない。感性や考え方は人種や国籍と無関係に、人それぞれである。分類と個性は別のものであり、黒人であること、アメリカ人であることは個性ではない。組織や共同体と個人とは、まったく別のステイタスであるにもかかわらず、個人を組織や共同体で分別してしまうことから、差別がはじまる。日本人だからといって一緒くたにされるのは誰でも不愉快な話だが、他国の人は平気で一緒くたにしてしまった経験は、沢山の人が覚えがあるだろう。人は個性で区別されるべきで、人種や国家や職業や家柄などで差別されるべきではない。
本作品は、頭の回転の速い黒人の新人警官が昔から有名なヘイト集団KKKへの潜入捜査を行なう話である。舞台は1979年。20年に及んだベトナム戦争が終結して4年、ウォーターゲート事件から5年が経過しているものの、人々の間には敗戦による厭世気分と、現職大統領による犯罪という権力に対する不信感が蔓延していた筈だ。しかしその前年に人種差別撤廃を謳うカーター大統領が誕生している。黒人の主人公が警官になれたのは、カーター政権の政策が影響したのかもしれない。
大変に言葉の達者な主人公だが、警官のことをブタと呼ぶ女子大生パトリスに反論する場面では、うまく説明ができない。頭では解っている。他人を侮蔑的な呼称で呼ぶのは、黒人を侮蔑する白人警官と同じである。しかしそれを言ってしまえば、パトリスを人格否定することになる。ロンはどこまでも優しい性格なのだ。本作品は主人公の優しさを伝えるだけでなく、彼の言いたい本質も伝えている。
ブッダの言葉を纏めたとされる「スッタニパータ」という本に「犀の角」という一節がある。言葉としては、何物にも惑わされず犀の角のようにひとり歩めと書かれてあるのだが、この説法の本質は、孤立を恐れず孤独に耐えろということである。それは裏を返せば、孤立を恐れ孤独に耐え切れないと、人は他人の価値観、共同体の論理に安易に同調してしまい、真実を見失うということを示している。差別の本質は人間の弱さにあるのだ。
帰属意識や愛国心、郷土愛といった耳障りのいい言葉が、実は差別の温床であることを認識しなければならない。どれだけ差別をなくす運動を続けていても、特定の国や団体や地方を愛する気持ちを持っている限り、この世から差別はなくならない。執着から精神を解放することだけが差別をなくす道である。それは社会を変える運動ではなくて、人間を変える運動だ。
スパイク・リーがそこまで達観しているかどうかは別にして、本作品には黒人差別にとどまらず、世界中の理不尽に対するアンチテーゼが感じられる。この作品には理不尽を笑い飛ばすパワーがあった。電磁波による情報化社会が充実して人々の生活が便利になったにもかかわらず、世界中から悪意の不協和音が沸き起こっている。言いしれぬ不安を感じている人は多いだろう。本作品を観たからといって不安が消えるわけではないが、とても爽快な気分にはなった。