バーニング 劇場版のレビュー・感想・評価
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ビニールハウスは人間の隠喩?ジョンスの空想劇?
村上春樹 の短編小説「納屋を焼く」を映画化。
ジョンスがビニールハウスに火をつけるシーン。そもそもベンは犯人でなく、ジョンスによる虚像なのでは?
または、「ビニールハウス」は人間の隠喩で、女性が標的だったために、ヘミが失踪?その趣味に退屈し欠伸するベンを見て、ジョンスが始末したのでは?
作品の捉え方に正解がない気がする。全て、小説家志望の主人公の空想とも捉えられるし、作品全体にモヤがかかっている。
井戸が実在した・実在してない等と、事実が歪められているのは、「バニーレークは行方不明」の子供失踪の件にも似ている。
狂おしいまでの情念が燃え上がる
1「燻る」:“持たざる者”としての主人公ジョンス
映画のポスターには「究極のミステリー」という惹句がありますが、村上春樹の短編小説が原作である本作に、ミステリーやサスペンスのように明確な真相や答えを期待すると、肩透かしを食うことになると思います。また、映画化にあたって原作の『納屋を焼く』をかなり大胆に再解釈しており、大幅なアレンジが加えられているため、元の原作小説の雰囲気を期待して観に行くといささか面食らうことになるかもしれません。しかし、楽しみ方さえ間違えなければ、本作は非常に複雑で多面的な解釈のできる傑作であると断言できますし、村上春樹の小説の映画化としても、(これが全てだとは言いませんが)理想的と言っていい形になっていると思います。
原作小説との一番の違いは、主人公の設定にあると思います。原作の主人公「僕」は、三十一歳で一応結婚もしていて、職業は小説家のようですが、あまり忙しくない様子で、作中に「毎日が休みみたいなものだし」という台詞も出てきます。「彼女」(映画では「ヘミ」)とは月に一、二回食事に行ったり、バーに行って酒を飲んだりする仲で、主人公は完全に遊びで「彼女」と付き合っています。つまり、原作では主人公も、「彼」(映画では「ベン」)ほどではないにしても、かなりの“高等遊民”として描かれているのです。
ところが、映画『バーニング』の主人公「ジョンス」は、これとは全く異なり、典型的な“持たざる者”として描かれています。ジョンスは小説家“志望”であり、実家の牛の世話をしているだけの実質無職で貧乏な若者です。映画では、彼とギャツビー(謎多き裕福な若者)であるベンをあらゆる面で容赦なく対比させて描いていきます。車、服装、家、料理、友人……そして、その極めつけがヘミの存在です。
ヘミとの性行為の場面でのぎこちない様子を見るに、おそらくあれがジョンスにとって唯一の経験だったのではないでしょうか。原作の主人公は「彼女」にあまり執着していない様子でしたが、ジョンスはヘミに狂おしいほどの恋心を抱き、彼女の部屋で自慰行為をくり返します。ジョンスにとってヘミは、唯一の友人であり、初めてできた恋人(?)であり、そして自分を“どん詰まり”の現状から連れ出してくれるかもしれない希望の象徴だったのだと思います。しかし、突然現れたベンがそんな彼女を事もなげに奪い去ってしまうのです。
原作小説にはなかった、主人公のベンに対するコンプレックスと、ヘミに対する狂おしいまでの恋心と執着は、映画オリジナルとなる終盤の展開にとって重要な伏線となっています。
2「熾る」:消えてしまったヘミと、燃えないビニールハウス
映画の中盤、ベンとヘミがジョンスの家を訪れることになり、そこでベンが「時々、古いビニールハウスを焼いている」ことをジョンスに話します。そして、その日以降ヘミが消息を絶ち、ジョンスの前から消えてしまう──ここまでは原作小説とほぼ同じ展開です。そして、ジョンスが近くのビニールハウスが燃えていないか毎日確認してまわるようになるのも原作通りなのですが、原作の主人公が毎朝の日課であるジョギングのついでに、あくまで興味本位で近くの納屋を見てまわっているのに比べると、ジョンスは何かに縋るように死にもの狂いで、燃え落ちたビニールハウスを探し求めているように見えます。
また、それと並行してジョンスはあらゆる手がかりをたどって、ヘミの行方を追います。ヘミのアパート、キャンペーンガールのアルバイト先、パントマイム教室、ヘミの実家があった土地……そして、彼女の恋人であったベン。ジョンスがベンのビニールハウスの話にこだわるのも、それがヘミにつながる重要な手がかりになるかもしれないと考えたからだと思います。
ヘミは原作の「彼女」と比べるといくつかのディテールが付け加えられているのですが、そのどれもが曖昧で定かでない情報のため、かえって実在感が薄くなっているように感じます。アパートで飼っているという猫の「ボイル」は一度もジョンスの前に姿を現しませんし、ヘミが言う「中学生の時にジョンスに“ブス”と言われた」話や「子どもの頃に井戸に落ちてしまい、ジョンスに助けられた」話もジョンスの記憶にはなく、事実なのかどうか分かりません。考えれば考えるほど、彼女が本当に存在していたのかどうかさえ分からなくなってきます。
自分にとって大切な人が突然目の前からいなくなってしまい、手がかりをたどるほどに、その実体にたどり着くどころか、その人のことがどんどん分からなくなっていき、果ては本当に存在していたのかどうかさえ分からなくなる……。
原作にも「そこに蜜柑がないことを忘れればいい」という「蜜柑むき」のパントマイムの話や、「同時存在」の話など“存在”をめぐる議論がテーマとして出てきましたが、映画ではそれを哲学的で高尚な問いかけとしてではなく、今を生きる私たちにとって非常に卑近で切実な問題として描いているように思います。身近だった人と連絡が取れなくなり、だんだんその人のことがよく分からなくなったり、本当にいたのかどうかも信じられなくなったり……という経験は、大なり小なり誰にでも思い当たるふしがあるのではないでしょうか。
ベンの車を追いかけ、半ば強引にカフェで彼と再会したジョンスは、彼から「ビニールハウスは、もうすでに焼いた」という話や「ヘミはけむりのように消えてしまった」といった話を聞かされます。
焼け落ちていても誰も気が付かない古いビニールハウスと、頼れる友人が誰もいなかったヘミ……。ジョンスの携帯電話にヘミからの不審な着信があったタイミングも、ベンが「ジョンスの家を訪れた一日か二日後にビニールハウスを焼いた」という話と符合します。
おそらく「ビニールハウスを焼く」というのは言葉通りの意味ではなく、何かのメタファなのでしょう。そして、ここでの「ビニールハウス」とは「ヘミ」のことを指すのでしょう。少なくともこの時ジョンスはそう確信したはずです。なぜなら、これ以降ジョンスはビニールハウスが燃えていないか見てまわることを一切やめて、ベンを徹底的につけまわすようになるからです。
「焼く」というのが何を指しているかははっきりしなくとも、ベンがヘミの失踪に何らかの形で関わっていることは間違いない──彼はそう考えたのでしょう。彼女につながる唯一の手がかりとしてベンを執拗につけまわすジョンスからは、鬼気迫るような情念が伝わってきます。
3「燃え上がる」:疑惑が確信に変わる時
ベンをいくらつけまわしても、ヘミにつながるような手がかりを何もつかめず、完全に煮詰まっていたジョンスの元に突然電話がかかってきます。これまでもたびたびかかってきた無言電話かと思いきや、なんとそれは16年間消息を絶っていた母親からの電話でした。母親と再会した折に、ジョンスはヘミが落ちたという井戸のことを訊ねます。すると彼女は「水のない井戸があった」と言います。近所の人やヘミの家族に聞いても「そんなものはなかった」と言われた井戸が、あったと言うのです。
ひょっとしたら井戸は本当にあったのかもしれない。ヘミが言っていたことは本当なのかもしれない。暗い井戸の底からヘミを助け出したのは自分だったのかもしれない。ギリギリまで追い詰められていたところに、やっとヘミの存在を証明するような話を聞くことができたジョンスは、そう考えた(信じたかった)のではないでしょうか。
冷静に考えれば、井戸があったからと言って、それがヘミの存在を証明することにはならないですし、ヘミが言っていたことは、ベンが「ビニールハウスを焼く」と言うのと同様に、何かのメタファであり、それが事実であるかどうかは本当はどうでもいいことだったのかもしれません。ヘミはジョンスに「暗い闇の底にひとりでいた自分を救い出してくれたのは、あなただった」と伝えたかっただけなのかもしれません。
とまれ、ヘミの存在をギリギリのところでもう一度信じたいと願ったジョンスは、ベンの家で“決定的な2つの証拠”を目にします。それが猫と腕時計です。
ベンは「捨て猫を拾った」と言っていて、猫にはまだ名前はないそうですが、部屋から飛び出して行き、駐車場でジョンスの前に現れたその猫は、ジョンスが「ボイル」と呼びかける声に反応して彼の元に寄ってきます。また、ジョンスは以前ベンの家を訪れた時に、トイレの引き出しに複数の女性もののアクセサリーが入っているのを見つけますが、今回はそこにピンクの腕時計が加わっていることに気が付きます。
ジョンスは、これらの2つの証拠から「ベンがヘミを手にかけたのだ」と確信したのでしょう。ベンが拾ったと言っているこの猫は、(自分は一度も見たことがないが)ヘミが飼っていたというボイルで、だから自分が名前を呼んだのに反応して寄ってきたのだ。引き出しに入っていたのは、自分がヘミにあげたはずの腕時計に違いない。彼女が飼っていた猫がここにいて、腕時計がここにあるということは、ベンはヘミを……!
しかし、ここでも冷静に考えれば、ベンがヘミを手にかけたという確かな証拠は何一つありません。「ボイル」と呼びかけたのに反応したからと言って、その猫がボイルである確証はありませんし、ピンクの腕時計は元々くじ引きの景品にもなっていたぐらいありふれたデザインの品です。ヘミのアルバイト先の女の子も、ジョンスがヘミの行方について訊ねた時に、似たようなピンクの腕時計をしていました。ひょっとしたら、それはヘミが彼女にあげた物かもしれません。引き出しにあった腕時計がヘミの物であるという確証もまたないのです。
そして当然ですが、たとえ猫と腕時計がヘミのものであったとしても、それが“ベンがヘミを殺した証拠”になるわけではありません。ベンがヘミの失踪に関与していた疑いは濃くなりますが、まだいくつかの他の可能性が考えられます。例えば、ヘミが誰にも気付かれない方法で自殺をするのに手を貸したとか、身元を隠してどこかに逃亡するのを手伝ったとか……。
しかし、ジョンスにとってそれはどうでもいいことだったのかもしれません。自分にとっての希望の象徴であったヘミを事もなげに奪い去り、あまつさえ自分には全く理解できないような理由で彼女の存在を “消して”しまったのであれば、それはいずれにせよ殺してしまいたいぐらいに憎く、許せないことだったのでしょう。ここにきて父親のエピソードが、ジョンスの中にある確かな怒りを象徴していることに思い当たり、鳥肌が立ちました。
“衝撃のラスト”には素直に驚きました。まさか村上春樹の小説を原作とした映画が、これほどまで情念に満ち満ちた結末を迎えるとは予想だにしていませんでした。どうしようもなく救いのない結末ではありますし、結局のところ、ヘミのこともベンのこともはっきりと分かることはほとんどありません。しかし、一つだけ確かなのはジョンスの狂おしいまでの情念です。ヘミの存在を信じられるか否かの狭間で揺さぶられ続け、最終的にはベンに対して明確な殺意を抱くまでに至った、ジョンスの苦悩と怒りは痛いほど伝わってきます。ラストカット──まさにジョンスの情念が燃え上がる光景には、不思議なカタルシスさえ感じました。
醜さ
辛気臭い映画。
韓国映画には一定の周期でこの手の映画に出くわす…。
醜さに対面する映画とでも言おうか、こおいうモノを提示したりすると魂のステージとか上がるのかしら?
作品の至るところに、妬みや嫉みの種がバラ撒かれてる。状況然り、台詞然り。
なにせ悔い改める材料に事欠かない。
寂れた農村で裸になって踊る姿には、羨望や挫折を感じはするものの、美しいなんて皮肉めいた言葉は出てこず、ただ哀れであった。
ミスリード
「単純過ぎてミステリーじゃないじゃないか!」という声もあるようだが、それは見事に監督に騙されている。
ベンがヘミを殺したというのはあくまでもジョンスの主観による筋立てでしかない。彼にはそう思えたから、彼の目線で進む(原作も一人称だ)この話はそう見えるように作られている。
ジョンスが最後に犯行を確信する猫のボイルのくだりについても、彼は一度もボイルを見ていないし、本当にヘミが猫を飼っていたのかもハッキリしない。あの狭い部屋で、彼は何日通ってもフンしか見つけられなかった。
トイレにあった腕時計にしても、ヘミが消えた後にジョンスが会うヘミの同僚コンパニオンが同じ腕時計を付けている。どこにでもある安物だ。
そもそも、ヘミとジョンス(および周囲の人)の記憶はことごとく一致しないし、ヘミは整形で顔も変わっている。となると果たしてヘミが、あの食堂の娘の「ヘミ」と同じ人物だったのかどうかも怪しくなってくる…あぁ、わけわからん!
なんなら全ては童貞文学青年の妄想か?ジョンスは最後の最後にしか実際に小説を書いているシーンがないわけだし…
と、そんな狐につままれたような感覚をこそ楽しむ映画だと思います。画面に映っているものをそのままではなく、蜜柑の皮を剥ぐように、そして一房づつ内容を解き明かしてこそ面白くなる。
白い煙が
原作は未読です。
暗喩的な台詞が多く謎があるストーリーですが、主人公の視点で、日常生活の中で不穏な疑惑が膨らんでゆく様子には引き込まれました。
明確な説明や解答は示されず、何を信じるかどう判断するか、主人公と同じように考えさせられます。
どこか途方に暮れたような風貌の主人公は、若者の漠然とした不安感や孤独感が滲み出ているような、垢抜けない雰囲気と言いますか、モッサリ感が絶妙で素晴らしい思います。
エキセントリックで奔放ながらどこか脆さもあるヒロインや、紳士的な物腰の中に不穏さを垣間見せる謎の男も、各々に見事な存在感のある演技でした。
富裕層との格差、華やかな都市と寒村との対比といった社会的背景を示す細かな描写も、説得力があります。
主人公とヒロインが男に誘われ富裕層の若者達と酒を飲むシーンがありますが、その場での主人公の居心地の悪さに、彼らとの格差、断絶感、異質感を痛感させられるような、個人的にはかなり刺さるシーンでした。
ポスターに衝撃のラストなどと書かれていますが、展開としては途中で予想は出来たので衝撃という程ではないと思います。
しかし、鬼気迫る長回しのクライマックスは印象深いものでした。
雪の中の全裸というのは、映像的に衝撃ではありましたが。
冒頭の白い煙と相対するようなラストの黒い煙が、主人公の変容を示しているのか、漠然とした不安が明確な怒りに変容したのかと感じました。
ヒロインのことだけではなく、境遇や社会など全てへの怒りなのかと。
長いしつまらん
まずミステリーじゃないな
そんで衝撃のラストでも想像を全く超えてもこない
この作品を絶賛している人は、自分を頭いいと思っていてそれに酔っているのではないか
意味深なシーンを長々と流して、何の意味も含ませない雰囲気映画の金字塔になりうる作品だ
伏線は伏線として機能しているのに、回収の仕方が下手過ぎるんじゃないかと
説明不足とは言わないが、映像だけで魅せすぎて言葉が少なすぎる
物語の解釈も人それぞれで多様性があるといえば聞こえはいいが、ミステリとしてのストーリーを思いつかなかっただけなんじゃないかと思えてくる
終始暗いシーンで一辺倒ですし、どこかに山場があればまだマシだったのかなと
あと単純に長い。
役者さんたちの演技は素晴らしかった。
時間を半分以下に編集しなおしてもっかい作りなおしてほしいとは思う
総評。つまらんかった!
やはりネタは、あれか。
アフリカにボランティアに行く金持ちのベン、何か動機があるはず。彼のゼイタク生活の資金はどこから出ているのか。マリファナ吸わせて裸踊りさせてジョンスから娼婦と罵られるよつに仕向け、ヘミを孤立させる目的は。そういうことだね。結局ヘミは殺されてなどいない、という監督の仕込みがわかる。面白いメタファだらけだ。
待ち受ける衝撃のラストは想像を絶する程ではないけど
テレビ版を見てから見るとおそらくなぜ彼女は消えたのか、彼らの関係はなんだったのかが分かってより面白いんだと思われる。
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映画だけ見てると、これってえーっとなんだったっけ??寂しい男の一人エッチ記録?いやいやミステリーか一応ってだれてくるんだよなぁ。
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結局、知り合ったベンの言うビニールハウスを焼くのが趣味っていうのは女を殺すのが趣味っていうことで、ベンはへミのこと殺してたんだよね。
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そのビニールハウスの話を聞いてる時、整形って英語でplastic surgeryって言うじゃん?そんでへミ(だけに限らず殆どの韓国人女性)は整形してるじゃん?だから"ビニール"ハウスである必要があったのかなと思ってた(笑).
まずはウンコの自己紹介。実は幼い頃、汲取り式便所に落ちたことがあります・・・(恥)
小説家を目指すフリーターのイ・ジョンス。父親が公務員に暴行を加えた罪で裁判にかけられ、家には誰もいなくなったために実家へと戻ることになったが、偶然にもキャンギャルをしていた幼なじみのヘミと出会い、運命が変わってゆく。「整形をしたからわからなかったでしょ?」とジョンスに問いかけるヘミ。井戸に落ちたのを助けてくれたジョンスを好きだったのに、唯一声をかけられたのが「ブス」という言葉。しかし、ジョンスは何も覚えていない。
パントマイムを演じて、ミカンがないことを忘れること。存在そのものを否定して、且つ欲っしないと伝わらない。哲学的な命題のようでもあり、箱の中の猫みたいなロジカルな会話を楽しんでる少女にも見えるヘミ。アフリカ旅行に行く間、ボイルという名の猫の世話を頼まれたジョンスは必然的とも思える展開で彼女と体を重ねる。初めての経験だったようにも思えたジョンス。毎日のように彼女の部屋へ通うが、猫の姿は見つけられない。さらには愛おしさのあまり、部屋では自慰を繰り返す。
旅行から帰ってきたヘミはアフリカで知り合った韓国人男性ベンをジョンスに紹介する。奇妙な三角関係の始まりだった。リトルハンガー(食の空腹者)、グレートハンガー(人生の空腹者)との違いを熱弁し、アフリカの部族による踊りを披露する。ポルシェを乗り回し、ギャツビーと呼ばれる謎の富裕層だったベン。一方、ジョンスもヘミも金のない貧困層の若者という構図がある。しかし、それをうらめしく思ったり、格差を打破しようとする意志も熱意もないのだ。小説家志望であるが、言葉にぶつけることもない。ただヘミに対する思いだけは熱くなっていくのだが、「ヘミに近づくな」とも言えず、「愛してるのかもしれない」とつぶやくのみだ。そして妄想だけが膨らんでしまう。
サスペンス部分としては、「ビニールハウスを燃やす」というベンの特異な趣味が、「女を殺す」のではないかと疑ってしまうところ。観客もジョンス目線で追いかけるため、燃やされたビニールハウスを探すと同時にヘミが殺されてるのではないかとストーリーを追う。ベンのマンションのトイレにあった、不自然な女性用化粧品やアクセサリー。燃えたビニールハウスが無いとわかり、やはり殺人なんだと確信に変わるジョンス。後半のカメラワークは明らかにジョンス目線に変更させるほど作為的だ。閉塞感、猜疑心、彼の思いが熱く伝わってくる・・・
ベンは実際に殺人犯だったのか?といったことは全て観客に委ねられるが、ラストにおける破壊的な暴力は明らかにジョンスが行ったもの。父のDNAを受け継いだかのように編集され、また、序盤に映し出される多数の飾られたナイフの映像が蘇ってくるのです。
魂が解き放たれるくらい虚しさが残るラスト。妄想が膨らみ過ぎたのも小説家の卵ならではだったのかもしれないし、どうにもならない格差社会から生まれた空虚感のせいかもしれない。北朝鮮の南向けプロパガンダ放送、テレビから流れるトランプの言葉、中国人の金に対する侮蔑といった話題、全てがジョンスを無気力人間にしてしまったのかもしれない。難しい内容ながら、眠気が一切来ないほど考えさせられた。ただ、最後に考えたのは、ワンカットだったためにあのポルシェは本当に燃やしているのかな?ってことだった・・・
ふたり
真面目すぎる愚直なジョンスと金持ちベンの対比が格差がありすぎて残酷でした。ヘミが居なくならなかったとしても、ジョンスとベンのふたりには何かの拍子で同じ様な事が起こったと思います。ベンは要らない人間を古くなったビニールハウスに例えているのだと思いますが、高級車であっても燃やされてしまうものは燃やされてしまいます。ジョンスの怒りは持たない者達の怒りを代弁しているのでしょう。貧乏人の怒りが凝縮された様な作品だったので、格差が拡大している韓国社会や支配層への批判を感じました。
☆☆☆★★★ 村上春樹の原作は未読。簡単に。 【自然界の闇と裏】 ...
☆☆☆★★★
村上春樹の原作は未読。簡単に。
【自然界の闇と裏】
作品全編で貫かれる《悪》の匂いが恐ろしい。
深く深く。ゆっくりゆっくり。ジワジワ〜っと真綿で首を締め付けて来る感覚。
前半での、ゆったりと展開される序章を楽しめるかどうかで、後半の狂気性の持続と。火薬が点火する一歩手前の状態及び、ラストでの一気の爆発を堪能出来るかと思う。
中盤でヘミが、いきなり服を脱ぎだす時に映る夕焼け空から闇の帳が迫る場面。
自然音と同時に。ゆっくりとカメラがパンをして、周辺を映し出す撮影の素晴らしさは忘れ難い。
また後半での追跡劇。都会のノイズと共に聞こえて来る不協和音の音楽的効果は、絶えずドキドキとさせられた。
確かにヘミは存在していた。間違いなくこの男が怪しい。でもそれを証明する手立てが無い!
だから彼は決断する。その焦燥感と、目と鼻の先に《北》を控える土地の寂寥感。
間違い無く傑作では有るのですが、ちょっとだけ残念なところも。
例えばビニールハウスで有り。水の無い井戸で有り。また、彼が書き始める小説で有ったり、警戒中のパトカーや猫等。
数多くの映画的な記号や伏線が。観終わってしまうと中途半端に宙ぶらりんの状態で回収されずに映画は終わってしまう。
「マクガフィンだから!」…と言われて仕舞えば
こちらも反論のしようが無い。
ただ…マクガフィンが多すぎるとかえって逆効果の気もしますね。そこのところ…どうなんでしよう?
明確な答えや意味を求めてはいけないのかも知れませんが。
2019年2月4日 TOHOシネマズ流山おおたかの森/premiere
無いことを忘れればいい
このバーニングは、村上春樹とは違く感じるけど、深く、静かに、濃い霧の中に潜り込んでしまうような感覚は好きでした。
どこにも確信はないけど、どんどん疑惑は膨らんでいく。
主人公もヘミを追っているのか、自分の闇に落ちているのか分からなくてなっていく。
子供の頃、母親の服を焼いた時に感じた感情、触れてはいけない感情なのに、求めているかの様。
ビニールハウスを燃やす彼を見たいのか、自分がやってみたいのか、同化していくみたい。
自由で素直に生きるヘミへの感情も嫉妬の様にも感じる。
見てる私もどんどん引き込まれていくスリルを味わってしまった。
すぐ近くのビニールハウス
原作未読
久々に偶然再会した幼馴染みの女性と意気投合し惹かれていく主人公と、その彼女と、彼女がアフリカ旅行で知り合ったという男との話。
彼女を介して交流する様になった男に2ヵ月に一度ぐらいの頻度で他人のビニールハウスに火をつけると話をされ、その後彼女は失踪する。
燃えたビニールハウスはみつからず、彼女も見つからずという展開ながら、トイレの引き出しの件とか、メタファーがどうのとかの件から想像はつく訳で、ある意味何も意外性はないストレートな展開に。
はっきりとは描かないのが美徳なのかも知れないけれど、ミステリーというには不穏さも衝撃もなく、その部分に関しては単純で物足りない。
メインストーリーは嫌いじゃないけど、余計な描写をたっぷり織り込みだらだらと長過ぎた。
信頼する人は井戸の底から見上げる丸い空に現れる
重要なセリフや会話、物語の時系列などかなり原作に沿っているのに加え、村上春樹さんの小説でよく出てくる『井戸』も現実と非現実の曖昧さ(人間の脳が生み出す幻想も本人にとっては現実という解釈を許していただけるのなら)の象徴として出てくる。しかも、無限のはずの空も落ちた井戸の中から見上げると丸く切り取られた限定的な世界になる、という哲学的な問いかけまで織り込まれて。
ビニールハウス(原作では納屋)はどこにでもあり、いつ焼け落ちても、たぶん誰も(一部の所有者を除いて)気にも止めない存在。それをいつ世間から消え去っても誰にも気にされない人間の存在として捉えるか。或いは、いつ焼かれるのか、いつ消えていくのか気にしていたとしても、誰かが(言い換えれば、社会の中の何かのシステムが)気が付かない間に、自分の身近な人や大事な何かを、必要性の判断などもなく、どうでもいいもののように消し去っているのかもしれない、と捉えるのか。
そのどちらでもあるような気もするし、全く違うことかもしれないし、いまだに自分の中では答えが出せないでいます。
消失したヘミの存在が曖昧になればなるほど、この世界で唯一、自分を信頼してくれた彼女への喪失感が大きくなる。信頼できる人が身近にいることもとても大切なことですが、自分を信頼してくれる人がいることが、いかに生きる力になるのか、痛切に考えさせられる作品だと思います。
意味不明。全てが中途半端
久々に、観て後悔した映画。
サイコパスの片鱗があまりにも見えなさ過ぎな犯人と、根暗な主人公と、ぶっ飛んだ女の子の物語。
ヘミ役の子はオーディションで選ばれただけあって、魅力的な子でしたが・・・
観終わって、とにかく頭の中が「???」だらけ。
これが狙いなのか?笑
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