バーニング 劇場版のレビュー・感想・評価
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このコピーで台無し → 「待ち受ける衝撃のラストは、想像を絶する」
こんなコピーだと、どうしても良質な「サスペンス」を期待しちゃうもの。
それが 「えっ、これで終わり?」と まったく無用な「期待外れ感」を引き起こしてしまっている。
ハリウッド映画によく使われるような安っぽいコピーを、このような映画に安易に使うべきではない。村上春樹原作という点でサスペンスのような単純なものではないのだから。
中身は「パラサイト」と通じるところがあった。 貧富の差、怒りの爆発、ギャツビーの家は坂道に、そして主人公を演じたユ・アインとパラサイトのチェ・ウシクも面影が似ていて。まあこれらの点は映画オリジナルのもので原作の主題ではないが。
それにしても韓国って大変そうだ。。。
ミステリーのまま
イ・チャンドン作品の中では珍しく中途半端な気がした。(オアシス、ペパーミントキャンディなど文句なしで☆5)
どんなに行動しても証拠を得られないまま殺害に至ったのは、父と同様にバーニングしたということかもしれない。でも映画ってのは平気でどんでん返しをしてくるわけで観てる側としたら本当に彼がやったのか?と思わざるを得ないまま終わる。
おそらくは父親の刃物を使ったであろうが、なぜコレクションしていたかは表現されてもいない。
序盤、タバコの吸殻入れにしていた紙コップに2人でタンを吐いたり、女が久しぶりに会った幼馴染みにわざわざ猫の世話をさせたり、男と一緒なのに空港に迎えに来させたり(その時はラリってたかもだけど)、なかなかぶっ飛んでいた。
主演は中々良かったのに色んな意味で残念だった。
原作ありきなのかな?イ・チャンドン作品は好きだけど村上春樹は嫌い。そもそも私は原作を読むタイプでもない。だからか楽しめなかったのかな。
同じ瞬間に全く違う事を思う三人
物語が本格的に動き出すのがベンが秘密を打ち明ける中盤なのでそれまでは少々退屈かもしれない。
それでも序盤から物語を紐解く鍵は至るところに散りばめられていて、見逃すと全てがわからなくなる。
はじめからあると信じること、メタファー、生きる意味を求めるグレートハンガー、はじめから無かったかのように消えてなくなること、これらが紐解く鍵であると同時に物語を構成する鍵でもある。
それにジョンス、ベン、ヘミの三人のキャラクター、井戸、猫などが絡んでエンディングへ向け加速していく。
人生の意味を見出だせない三人。ベンとヘミが外に意味を求めたのに対し、自分の内に問題があると思っていたジョンス。彼は言う「世の中は謎なんです」と。
現実を直視せずに空想の中に浸ることが多いジョンス。彼が見るヘミは存在していたのか?無いものをあると思い込んだだけか、または始めからいなかったように消えただけか、もしかしたら水のない井戸に落ちてジョンスが見つけてくれるのを待っているかもしれない。
どれにしても、父の行く末を見守り、母を受け入れ、現実を見始めたジョンスはベンを燃やし、始めから無かったように空想をリセットした。
良し悪しや人生の意味まではわからないが、少なくとも「世の中は謎」ではなくなったと思う。
泣く意味がわからないと言うサイコパス男ベンもまた人生の意味を見出だせずにいる。いや、ある意味すでに見出だしているのかもしれない。
価値のなくなったビニールハウスが消して欲しいと僕を呼んでいるんですと彼は言う。
ビニールハウスを消すことが生きる意味ならば、裏を返せば「価値のない僕を消して下さい」という誰かを呼ぶ心の叫びだ。
ジョンスに刺されたラストシーンで安らかな笑顔に見えるのは彼の考える生きる意味が成就した瞬間だからだ。まあ死ぬんだけどもね。
ヘミは現状を受け入れ生きる意味を問う行為そのものに人生の価値を見出だそうとしているが、本当に価値のあった過去に思い入れがあり、夕日に向かいグレートハンガーを舞う姿は、ベンの目には消して欲しいと願うビニールハウスに写ったことだろう。
生きる意味を感じているヘミ。呼ばれていると感じたベン。裸になったことを咎める現実が見え始めているジョンス。
同じ夕日に向かってグレートハンガーを舞うシーンで、バラバラな三人の思いがバラバラのまま交錯する瞬間は後になって意味がわかる興味深い場面だ。
けっこうよかった
サスペンス的な内容なのにすっきりしない。ポルシェの男が常に半笑いで、いい人なのかもしれないけど見ていてムカつく。猫のくだりはとても面白い。女の子がいなくなるところが村上春樹っぽい。ただ、とても長い。
パントマイムスルメ映画
非常に難解な作品でした。
村上春樹の短編小説が原作で、だいぶ脚色してあるとのこと。
村上春樹はまだあまり読んだことがありませんが、確かに物語の雰囲気がまさにそんな感じでした。
物語終盤までイマイチパッとせず、何か心に残るモヤモヤとした違和感。
ヘミは本当にヘミなのか?ベンは一体何者なのか?そしてジョンスも決して普通の人ではない。
それぞれの登場人物の表情が意味ありげに見えて、退屈ではないけれど、なんか気持ち悪い感じが残っていました。
でも、それが目的なんでしょう。
自分もジョンスと同様に鈍感な方なので、何かに気づき始めたのはヘミの腕時計を見つけるあたりからだし、役に立たないビニールハウスのメタファーには、最後まで全く気づけませんでした。
この映画は色々な解釈ができると思います。
なんせ、一般的に考えられる真相だったとしても証拠がないのです。
一つの考え方、捉え方に縛られては、この作品の本当の面白さには辿り着けないと感じました。
謎は残るばかりです。
正直、結末以外はほとんど全てが謎でした。
パントマイム、猫、グレートハンガー、アフリカ旅行、同時性、夢、井戸、グラス、ビニールハウス、あくび、腕時計、ボイル…etc
振り返っていたら、また観たくなってきました。
他作品との比較はあまりよくないかもしれませんが、パラサイトっぽさを至るところで感じました。
高級住宅街に住むギャツビーと貧乏人という構図や韓国の陰陽入り乱れる街並み、衝撃の結末なんかも似ています。
日本の小説を韓国の格差社会に落とし込んだのも良かったのかもしれません。
そしてこの映画で最初に感じたこと。
チョン・ジョンソかわええ〜。
それはさておき、観れば観るほど、考えれば考えるほど深みの出る作品だと思いました。
『納屋を焼く』
日頃あまり韓国映画は観ないのだけれどミナリ鑑賞記念にバーニングをみた。
本作は激しいアクション等はなくてゆる〜りとしているのにぐんぐん惹きこまれたミステリー作品。
最後まで目が離せなかった。
もちろんイ・チャンドン監督作は初めて。
後で知ったけれど村上春樹氏が1983年に発表した短編小説「納屋を焼く」を原作をアレンジした映画なのですね。
そう観ると色々深い意味がありそう。原作読んでないなぁ。
アフリカのリトルハンガーとグレートハンガーの話や古いビニールハウスを焼く話はなんだか哲学的にも感じた。
小説家志望の青年ジョンスと幼なじみの女性ヘミ。
彼女がアフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれるジョンス。
ヘミはアフリカで知り合ったという男を連れて帰って来る。
その男ベンはギャツビー族で何でも手に入る大金持ち。
貧しいけどヘミに信頼されるジョンス。
彼らはどちらがグレートハンガーなのだろう?
もう一度みたくなる。
ヘミが忽然と消えてしまう終盤。
必死に探すジョンスを通して想像力を掻き立てられた。
真実ははっきりとは語られず、夕焼けのように曖昧。
何日も経ってから、あれはジョンスの書いた小説なのかーと気づいてにんまりした。
もやもやとした映画なのに、何故かまた観たいと思わせる不思議な作品。
カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で国際批評家連盟賞を受賞した作品だそうです。
告知ポスターがパラサイトの色合いと一緒だなぁ
映画を見て思いついたことをダラダラと書く。
村上春樹は以前小説を読んで合わずに途中で脱落。
どうせ、見ても意味わからない感じで終わるんだろうなぁ〜という、マイナス感情からの視聴。
映画はウォーキングデッドのスティーブンユアンが見たかったので見ることにした。淡々と流れていくストーリー、嫌いじゃない。むしろ見終わった後に不思議な余韻に浸っていたくなるような、不思議な感覚。結構好き。いや、かなり。好きだこの感じ。ヤダヤダ、わたしハルキストじゃないし!村上春樹なんか読んでも意味わかんない凡人で行く予定なのに!
で、感想。
ヘミが会いたかったグレートハンガーとはベンのことだったのかな。いや、3人のことかな。
ベンはサイコパスなんだろうか?すごく人当たりがよくて、魅力的、でもどこかで壁のようなものも感じる。主人公ジョンスやヘミに向ける笑顔や、ジョンスだけにした秘密の吐露。ただただ親切心があるようにも見えるし、奥底には持たざるもののジョンスに憐れみを感じているのを隠しているのかのようにも見える。これ知ってるなぁ、見たことあるな、上流階級のひとは見下しててもそれを上手に隠すよね、でも上手に隠せておくびにも出さなければそれはないってことと一緒なのかなぁ?見ながら、そんなことを考えた。それか、シンプルにそのまま、作家志望のジョンスには自分の高度で繊細な意識を共有できると思っていたのかな。
「犯罪だけれど警察もボロいビニールハウスが燃えてなくなっても気にしない」
燃やされることは必然だったことで、自分はその必然に組み込まれているだけ(セリフは違うけどそんなような話だったかな)
ベンはヘミを殺したのだとしたら、いてもいなくて誰も困らない存在であり、「最初からなかったみたいに消えてしまいたい」ヘミを、ベンが出会い、最初からいなかったかのように消える手伝いをしただけなのかもしれない。
ベンが殺人をしたかったという主体的な動機ではなく、もっと大きな運命の流れを感じる。
殺人鬼の戯言なのかもしれないが、「雨が降り洪水が起き人々が流される、そこに水の意思(ジャッジ)はない、ただ流れただけ。」自分も焼かれるのを待っているのを受け入れているだけという。
うーーーん、よくわかんないけど、わかる気がするーーー不思議体験!
ヘミの「最初からなかったみたいに消えてしまいたい」この感覚わかる!何もなかったかのように、消えてしまう悲しみも辛さもいろんなわづらわしさも、最初から何もなかったら何もないんだもんね。
でも、大麻も犯罪ですしってクギ打つ所、大麻の共犯にさせといて放火の告白をチクらせないようにしてたかと考えると、策士!
途中で猫の安否がとっても気になってしまい、余韻が中断した。ベンよ、女には容赦ないようだが、猫チャンには優しい人みたいでヨカッタ!
ベンがとても魅力的でどんな奴なんだろう、もっと彼の場面を見たい!と思うと同時に、ジョンスもヘミも、本当にとるに足らない魅力のみの字もない平凡なキャラクターで最後まで興味が湧かないように描いてたのかもしれないけど、逆にそれが新鮮だった。とてもリアリティがある。ヘミの平凡なんだけどアフリカ行ったりパントマイムとか踊りとかして精一杯平凡からの脱却試みてる感じもリアルでそれが側からすると苦笑いされてるみたいのも痛々しくてよかった…
あとは、
濡れ場シーンを初め、結構エロ描写があってPG12ってあったけど低すぎないか?と思った。
思ってたのとちがった
シークレットサンシャインが好きだったので、イ・チャンドン作品期待。
途中まで良かったけど、
ミステリー要素に引っ張られすぎたか?
楽しみかたがわからなくなってしまった
ラスト近くのヘミの部屋からのカメラが引いて待ちの風景、
のところで終わっても充分成立したような。。。
もしくは新しい彼女にメイクしてるところで終わる。。
ラストの展開はカタルシスはあるかもしれないが、ちょっと好みではなかったなー
フレンチのコース食べてたはずが、メインディッシュで味の濃いステーキ出てきた感じ(笑
よく、わからない
村上春樹の原作を大幅にアレンジして、、、どの辺りが原作なのだろうか。
ヘミはジョンスが好きなのか、ベンが好きなのか、2人とも特別ではないのか、まず、ヘミがわからない。言動も理解し難い。ベンも結局何者なのか、本当に放火しているのかわからないし、家にある女性のアクセサリーは忘れ物なのか、戦利品(殺している?)なのかわからない。観る人が想像してくださいってことなんだろうか?
1番わからないのが、やっぱりヘミはどうなったの?て事だけど、旅行に行く時も部屋は散らかったままでも平気なんだから雲隠れするのに片付けていくことないだろう。私の想像はベンが殺して猫は連れ帰った。綺麗好きなベンがとっ散らかった部屋を見かねて片付けた。ハズレ?当たり?
この映画も韓国の貧富の差が描かれているんだ、て印象で、他はどう捉えたらいいのか、よくわからない😓
同じこころを抱える3人の物語
この映画は、存在の不確かさがテーマとなっている。
このため、曖昧な表現が多く、
普通のミステリー以上にミステリアスな作品になっている。
だから、本当は何が起こったのか分かりにくい。
分かりにくいまま楽しむのが、この映画の楽しみ方の王道なのだろうけれど、
あまりに分からないと楽しめないので、解釈してみたい。
結局のところ、
この映画はヘミの失踪ではなく、殺人の物語である。
古い汚れたビニールハウスは、中身が空っぽで、役に立たない。
ベンがそれを燃やす、というのは女性を殺すことのメタファーになっている。
ジョンスはその事実に気付き、最後にベンを殺し復讐をはたす。
なぜベンの殺人に気付いたのか。
ベンのマンションから逃げ出したネコが、ボイルと呼ぶと近寄ってきたこと。
ベンのマンションのトイレに、ヘミの腕時計がしまってあったこと。
そこにあった女性の品々は、ベンが殺した女性からの戦利品だ。
死んだ女性たちは、恐らく小さなダム湖の底なのだろうか。
それをにおわせる描写をしておきながら、ジョンスが悪い眠りから覚める場面につなげる。
事実とは何なのか。夢とうつつの境界はどこにあるのか。
存在も、事実も、曖昧な世界こそが現実なのだ、と監督のつぶやきが聞こえてくるようだ。
ジョンスは殺人の事実に気付く前は、何を信じればよいのか混乱していた。
ヘミの失踪。ヘミが井戸に落ちたという話と、井戸などなかったというヘミの家族や近所の人たちの証言のずれ。ベンは燃やしたというけれど、そうしたビニールハウスは見当たらないこと。
だから、ベンにどんな小説を書いているか、と聞かれた時
世の中が謎みたいで、何を書いたらいいか分からない、と答える。
でも、それからしばらく後、ヘミのアパートで小説を書き始める。
つまり、その時には、ジョンスは、ヘミが殺されたことを確信していた、ということだ。
この映画の分かりにくさは、メタファーの多用からも生まれている。
と同時に、それがこの映画の味わいを生み出している。
例えば、ヘミが井戸に落ちた話。
本当に落ちたのかもしれないし、そうではなく、狭く深い穴に落ちたような苦しい経験の象徴かもしれない。
重要なのは、ひとり泣いている自分を見つけ出してくれたのがジョンスであった、ということ。
北向きの窓しかないヘミのアパート。
1日に1回だけ、塔の窓ガラスに反射した光が部屋に差し込む。
それは、ヘミの人生のメタファーだ。ジョンスとの営みの、まさしくその最中に光が差し込んだ。
夕暮れ時の、ヘミの浮遊的な踊り。
この映画の核となる、存在の不確かさ、不安定さ。不安と孤独を象徴している。
ジョンス、ヘミ、ベン3人が並んで、沈みゆく夕日を見ながら酒を飲みグラス(大麻)を吸う。
同じ方向に向かってたたずむ姿は、
実はこの3人が同類の若者であることのメタファーになっている。
ジョンス、ヘミは、不幸な生い立ちをもち、現在も貧しい生活。
ベンは全く違うようで、実は、存在の不確かさ、不安定さ、不安と孤独を抱える若者である点において、同類といえる。
だから、ベンはジョンスに引かれ、ジョンスを自分の近くに呼び入れようとする。
ジョンスが好きなフォークナーの小説を読み始めたりするのも、シンパシーを感じているからだ。
そして、最期、ジョンスに殺される場面では、ジョンスを抱きしめる。
精神的な同性愛をにおわせる描写に、夏目漱石の「こころ」に通じるものを感じた。
「ミカンが“ない“ことを忘れたらいい」ヘミは象徴的にそう言うが、忘れた人にはなりきれない。
グレートハンガーとして、
人生に飢え、なぜ生きるのか、人生の意味は何なのか、を求めてさまよい続ける。
この映画は、3人のグレートハンガーの物語だ。
自分がバカでした。
コロナ禍で新作映画が滞っており、見逃していたこの映画が安い値段で再上映された。映画を見終わり、「ヘミは行方不明だし、ビニールハウスは燃えないし」と( ゚д゚)ポカーンの状態だったが、ビニールハウス放火が殺人のメタファーではと家内に指摘され、やっと理解。映画評を読むと、ベンを殺すのも主人公の妄想ではの意見あり。家内は殺される瞬間にベンが嬉しそうな顔をしたので、実は主人公に殺されたかったのではとのこと。
3人の配役が絶妙。 ベンの胡散臭さは異常。笑 映像が本当に美しくて...
3人の配役が絶妙。
ベンの胡散臭さは異常。笑
映像が本当に美しくて引き込まれた。
まさかあんな結末になると思ってなくて、わけわからなかったけど、いろんな考察を見てもう一回か鑑賞した。
個人的にはヘミが消えたのはベンは無関係じゃないかなーと思う。
唯一の理解者だと思ってたジョンスに娼婦呼ばわれされ、その数日後にベンに捨てられ、自ら消えたのではないかなーと。
ラストの長回しはあっぱれでした。
ただ、どうしても意味不明なシーンが多いんだよねー。
最後、ヘミの部屋でなにか書いてたり、
ベンが女に化粧してたり、、、
なにか意味があるのだろうか。
いくつか傑出したシーンはあるものの・・・
原作は村上春樹の初期短編『納屋を焼く』。
村上春樹作品の映画化は数が少なく、さらに観ているのは、大森一樹監督『風の歌を聴け』、今回カップリングの市川準監督『トニー滝谷』、松永大司監督『ハナレイ・ベイ』ぐらい。
本作、原作小説も読んでいるが、30年近くも前のことなので憶えていません。
アルバイトしながら小説家を目指している青年イ・ジョンス(ユ・アイン)。
とはいえ、まだ一篇も書き上げていない。
それどころか、何を書けばよいのかがわからない。
そんなある日、街でキャンペーンガールをしている幼馴染のシン・ヘミ(チョン・ジョンソ)と偶然の再会を果たす。
アフリカで「リトルハンガー(空腹な者)」と「グレートハンガー(人生に飢えた者)」の違いをみてみたいと言っていた彼女は、その言葉どおりアフリカへ旅立ち、帰路足止めを食ったナイロビ空港で巡り逢ったベン(スティーヴン・ユァン)とともに帰国する。
ベンは、ジョンスともヘミとも異なり、若くしてすべてを手に入れたような青年で、ジョンスの田舎の家の庭で三人で飲んでいる際に、「ぼくは何か月か毎にビニールハウスを焼いているんだ」とジョンスに告げる・・・
というところから始まる物語で、ここいらあたりが映画の中盤。
この映画の最も美しいシーンが、このジョンスの田舎の家の庭のシーンで、大麻で高揚したヘミが沈む夕陽を背景に、着ているものを脱ぎ捨てて踊るのをワンカットで撮っている。
その間に陽は沈む・・・
で、その後、ヘミが姿を消し、消えた彼女を巡ってのミステリー的サスペンスとなるのだけれど、おもしろいのかおもしろくないのかよくわからない。
ストーリー的にも、ヘミの消息についてはいくつかの解釈ができるのだけれど、その解釈は観客に委ねられている。
委ねられていながら、衝撃的な結末を迎えるので、すごいショック。
それもワンカットの力技。
だけれど、イ・チャンドン監督の語り口って、こんな風だったかしらん。
もっとはじめからグググと力で押して押して押し出し的だったような感じがしていたが、今回は終盤にかけてだけ。
「リトルハンガー」と「グレートハンガー」や、「ビニールハウスを焼く」「井戸に落ちる」「踊る」などいくつものメタファーが出てくるが、劇中で「メタファー」と言ってしまうあたり(それぞれのことを指しているのではないが)、この手のメタファー満載映画ではちょっと・・・と思ってしまった。
その他、ジョンスとベンのふたりの役どころ、田舎の鼠と都会の鼠を地でいく配役なのもツマラナイ。
いくつか傑出したシーンはあるものの、全体をしてはあまり買えない、といったところ。
もう30分短くてもいい。
評価は★★★☆(3つ半)です。
以下は、補足(というか追記というか、妄想というか・・・)。
と書いたところで、どうにも『バーニング 劇場版』のストーリーが気になって仕方がない。
なので、補足・追記のようなものを書きます。
ヘミが消失してしまった事柄についての真相は明らかにされないので、次のような解釈ができる。
1.ベンが殺してしまった
2.ジョンスにもベンにも関係なく、多額の借金のため行方をくらませてしまった
3.生死不明であるが、ヘミが行方不明となってからの出来事は、ジョンスが書く小説の内容で、実際の出来事ではない
これぐらいが妥当な線だと思うが、ここでは、それぞれについて検証することはしない。
気になっているのは、上記のいずれでもないストーリーも可能ではないか・・・ということ。
個人的には、こういう風だったら面白かろう、個人的にいちばん興味深いのだけれど・・・というもので、それは
ヘミが行方不明なのは、ジョンスが殺してしまったからで、ジョンスはそのことをまるで憶えていない・・・というもの。
そんな解釈できるかしらん、とも思ったが、そう考えることも出来なくもない。
それぞれの台詞やシーンを、次のように解釈すると・・・
ベンが「2か月に1度くらいの割合で古いビニールハウスを焼く」というのは、「古い彼女(オンナ)を棄てる」ということ。
性的交渉した後、一切の連絡・交渉を断つ(断たざるを得ないようにして)。
洗面所の戸棚に隠してあった女性もののアクセサリーは、戦利品。
ベンが飼い始めた猫は、ベンが言うとおりの拾ってきた猫。
ジョンスが「ボイラー」とヘスの飼い猫の名で呼んだ際に近づいたのは、単なる偶然。
ヘスが語っていた「昔、井戸に落ちた」エピソード。
ジョンスの母親は「涸れ井戸」と言っており、ヘスの母親も近隣の住人も「井戸(水を湛えた)」とは認識していない。
つまり、忘れ去られた存在。
ジョンスは、そこへヘスの亡骸を葬った。
ジョンスがみる「ジョンス少年の目の前で焼かれたビニールハウス」の夢。
これこそが、ジョンスがヘスを殺したメタファー。
ジョンスがヘスを殺す動機は?
夕陽の中で踊るヘスを観たから。
それまでのヘスは「グレートハンガー」だったけれども、ベンとも付き合うようになって「人生への渇望が満たされている」ことをジョンスは悟ってしまう。
ジョンス自身が「グレートハンガー」だけれども、その人生への渇望は何によっても満たされない。
その満たされない何かを求めて、ヘスを殺してしまう。
最後、ベンを殺したジョンスが何もかもを脱ぎ捨ててしまうこと。
夕陽の中で踊るヘス同様、生まれ変わったことのメタファー。
と考えると、ジョンスはヘスを殺したことを覚えていないわけではなく、自分が殺したことはわかっていながらも、「ベンがビニールハウス(ヘス)を焼いた(殺した)」ということで、自身の存在を証明しようとしたのかもしれない。
もしそういう物語ならば、かなり好きな部類の話なのだけれど・・・
これは俺にはダメだったよ
これは俺にはダメだったよ。
「ラブレス」以来のほっとかれ感。思わせぶり映画を撮るなら、誰かがいなくなり、その理由も行く末も明かさずに終われば、一丁上がりって感じだ。
この監督には、「オアシス」「ペパーミントキャンディ」のレビューで、「悲劇の名手。俺に『ロミオとジュリエット』は当時こんな感じで大ウケしたのだろうなあ」と絶賛した。
この映画もまさに引き裂かれる悲劇だけれど、これはダメだよ。救いがないよ。
井戸はあったし、二人の繋がりは本物だよ。でも、こんな引き裂かれ方はダメだ。本当にダメ。
ハルキストじゃないから余計わからないのだろうか?俺は、ハルキは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だけでいいや。
ヒロインはきわめて魅力的。男性二人の抑えた演技は見事。このあたりは、さすが。
ーーーーーー
あまりに突き放されたから、みんなのレビューを読んできたよ。
なるほど。「ヘミは本当に実在したのか」か。最初から噛み合わなかったのは、俺でも感じていた。「村上作品では、井戸は、よく現実世界と心の出入り口として使われる」も「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んだので、よく知っている。
なるほど、そう考えると「井戸から見上げたらジョンスが見ていた」というヘミのセリフは、まさに現実側と心の側っていうようにもとれるな。
みんな、すごいな。でも、そうだったとして、いったいどこから本物? ヘミは実在? ジョンスは? この世界を作り上げているのは、いったい誰の心なのか。ジョンスなのか、ヘミなのか。それともまさか、ベン…? 裕福だが何かぽっかり穴が空いているような心。ジョンスとヘミのような心の底での繋がりには懐疑的だが、本当は憧れているので、それを壊す想像を… いや、さすがに考え過ぎの無理スジだね。
可能性を感じる興業の形
先行してテレビ版を放映し、その後劇場上映するというモデルは過去にも例はあるとは思う。しかし、今回のようにそのテーマ性やプロット、それを物語るラストの違い(物語の途中でエンディング、劇場版はその続きがある)の印象で訴えたいものがこうも違うのかという作品であり、かなり強く影響を受けてしまった。作品中に出典されているキーワードをwikiで色々調べてみてもそれぞれが関連性を持っている事は当然とはいえ驚く。『グレート・ギャツビー』における信頼できない語り手→その代表作が『響きと怒り』、そして作家はウィリアム・フォークナーであり、そして短編集に収められている『納屋を焼く』、そして同名作品を書いた村上春樹は、F・スコット・フィッツジェラルドが好きだということ。それは監督を含めた制作陣の細かいストーリー設定を背景も含めて拵えている事を意味し、その真摯な制作に敬意を表する限りである。
家族や社会、貧富や都市地方、そして恋愛といった普遍的なテーマをサスペンス&ミステリーとして落とし込んだ解釈も大変興味深い。大事なキーワードである『みえないモノを忘れる』というフックも又展開に深く彩りを及ぼしていて不気味さを一層際立たせている。
そして本作はその対比やメタファーをかなり丁寧且つ親切に描いている点も注目したい。そして、テレビ版では目立たないようにしている伏線(物置小屋の金庫内に保管してある父親のナイフ等)を映画版でははっきりと示すように映し出しているところからも、編集の妙を存分に発揮している組立なのである。
テレビ版では謎の儘で終わる失踪も、映画版では壮絶な結末を迎える。その印象は、ミスリードというより、二通りの作品なのではないかという結論を得る。失踪した彼女の部屋で一心不乱にキーボードを打ち込む内容は、小説なのかそれとも殺害の計画書なのか、それとも遺書なのか・・・ そんな豊かな想像を抱かせてくれる大変良質な作品であった。数々の状況証拠を観客に披露したとて、それは直ぐに覆される乏しいカット。正に“信頼できない語り手”としての監督が、主人公に与えたのは心の鬱屈からの爆発。それは悲しく、寂しく、そしてそれでも抗えない“血”なのだろうか・・・
テレビ版にはないカットのお陰で想像を担保させてくれる喜びも発見であり魅力でもある。
PS.監督の記者会見での発言を書き足しておく
「最近の映画は段々シンプルになっていくような感じがあって“観やすい映画”、“決まったストーリーを追っていく”ことに観客が慣れてきている気がしますしまた観客がそれを望んでいるように思うんです。そんな流れに逆行したいという思いがありました。観客の皆さんには映画を通して生きること、世界とは何か、人生とは何かを自分なりに省察して欲しいのです。皆さんには映画を通して“新しい経験をして欲しい、新しいことを感じて欲しい、新しい問いかけをして欲しい、そして世界のミステリーを感じて欲しい”と思います。しかしそれは難しい作業ですし慣れないことなので、皆さんがどんな風に受け止めてくれるか気になってます。日本の皆さんにも“新しい経験”を是非楽しんで欲しいと期待しています」
このサイトのレビューでも、視るに堪えない罵詈雑言を平気で書き連ねる輩が散見する。本当に作品を観たのか疑わしい内容もあるし、それは論外だとしても、まるでケチをつけるために決して安くはない鑑賞料をはたく、非常識な人間もいるが、そんな輩にこそ、今発言を読んで欲しいと願うばかりだ。「一体、お前は何を観ているんだ?」と・・・
バーニング劇場版 を観た後 ずっと、頭からモヤモヤが離れなかったけ...
バーニング劇場版 を観た後
ずっと、頭からモヤモヤが離れなかったけど、自分なりにやっと解釈できました!
以下、かなり自己流の解釈とネタバレ
この話、全て主人公ジョンスの深読みがもたらした悲劇じゃないかと思えてきました。
主人公サイドの目線で見るとベンが、サイコパスな殺人キラーに見えてしまうのは、仕組まれたトリックなのです。
ミステリーがモヤモヤするのは、全部、物事を勝手に解釈してる、ジョンス目線で描いてるからで、ジョンスこそが実は サイコパスだからです。
ちゃんと客観的になって ベンをみれば、サイコパスらしさは感じられない、少し虚言ぎみだし、ヤンチャに葉っぱも吸うけど、家族とトラブりもしないし、常識人です。
そもそも、ヘンミだって、殺されてこの世から居なくなったって証拠は何一つありません。
むしろヘンミは、サイコパスなジョンスからそっと逃げて旅にでたかったのでは?なんて解釈もできます。
ヘンミはジョンスから遠ざかるために、ベンに相談しネコを預けた可能性もあります。
だいたい、よーく考えたら、主人公のジョンスこそ、ヘンミの職場や教室まで探し回り、ベンにもつきまとい、もろストーカーなんですよ。 「ヘンミは僕のことを好きでいてくれている」「ヘンミが僕と連絡とらないのは失踪したからだ」「いや、こんなに連絡してこないなんて、彼女はあいつに殺されたんだ!」と、どんどん妄想し、犯罪に及ぶ様はまさにサイコパスな思考です。
一途すぎる純愛は、時に思考回路を混乱させる。主人公は童貞くんで、真面目で、小説家志願の想像力が人一倍豊かな人間で、父譲りの思い込みの激しさとカッとなる面を持ち合わせています。
主人公ジョンスは恋愛に不器用で、観ていてめちゃくちゃ応援したくなるキャラ。
逆にベンは、器用に生きて、お金持ち、生活や心に余裕がある人物、ただ主人公にとって、目の上のタンコブの彼は、それだけで憎むべき対象になる。
主人公の行動範囲で得た情報と、主人公の頭の中にある思い出の反芻で作られている映像だから、主人公が正義に思えてしまう。
最後主人公が殺人をおかしたときも、映画を見ていた観客たちは、良くやった!あいつは殺されて当然!ざまあー!くらいのスッキリした気持ちになってる。
わたしもそうでした。でも、スッキリした気持ちになって良いのか?ずっと引っかかってました。
そこで、主人公に肩入れしないでこの映画を紐解いていくと、この究極な答えに行き着きました。
サイコパスサイドの目線で見ていたから、主人公が殺人を犯すのを応援していたけど、じつは、ベンは妬みの対象にされた挙句、殺された損な男であって、主人公は犯さなくていい過ちを犯してしまった…という、ミスリードの極みのようなお話だったのではないか。
わたしの解釈が独特すぎるのかな。
原作は #村上春樹 原作 の #納屋を焼く 。かなりアレンジされてます。
役者さんに、スティーブン・ユアン(WDのグレン ♡) も出ていますよ。
#イチャンドン 監督作品は「ペパーミント・キャンディ」「オアシス」「ポエトリー」「シークレット・サンシャイン 」と、ほぼ全作品を観てるくらい大好き。
本作もやっぱり凄かったです!
初 イ・チャンドン
なんていえば良いのか。
感想に悩む。
ジョンスは偶然幼馴染のヘミとばったり会うところから話が始まり。
ヘミがアフリカの旅行に行くことで。
ギャッツビーのベンと会う。
なんとなく始まった二人。
ベンとヘミも曰くありげ。
ベンはジョンスにも興味を持つが面白いそうだから。
ベンは定期的に女の子を殺してる。
面白いけど退屈もしてる。
それがビニールハウスを役につながるメタファ。
最後なぜジョンスはベンを殺したのか。
殺さないで終わっても良いんじゃないかと思った。
何故全裸になるのかも不明。
全体的に何故あれ程に自慰を描く必要があったのか。
突然の踊り。
逢魔時の踊りは綺麗だった。
でもヘミの情緒不安定ぶりには、共感不能。
ノスタルジックな風景。
一見綺麗そうだけど。
みんな問題ありすぎ。
お父さん。
お母さん。
ヘミ。
諸々。。。
残酷な真実
小説家志望の青年ジョンスは、ある日、幼馴染のヘミと再会する。
かつてジョンスに「ブス」と言われたヘミだが、彼女は整形をして美しくなっていた。
ちょうどアフリカ旅行に行こうとしていたヘミは飼い猫のエサやりをジョンスに頼む。旅行に発つ前に彼女のアパートを訪ねたジョンスは、そこでヘミと関係を持つ。
アフリカから帰ったヘミと一緒に空港に現れたのはベン。ベンは働かず、高級車を乗り回し、瀟洒なマンションに住む金持ちだった。
ある日、ジョンスはベンから、「僕はときどき、ビニールハウスを燃やすのだ」と打ち明けられる。その日を境に、ジョンスはヘミと連絡が取れなくなる。
ジョンスはヘミを必死に探し始める。何度もケータイを鳴らし、彼女の母親の営む食堂に行き、彼女のバイト先を訪ね、ベンにつきまとう。しかし、ベンは「ヘミは突然姿を消した」と言う。
だが、突き詰めればジョンスの彼女への執着はセックスでしかない。
ジョンスは彼女のアパートのベッドでマスターベーションをし、彼女の性夢を見る。
丘の上にそそり立つ展望台は男根の象徴である。北向きの彼女のアパートには、日が差さない。僅かに展望台の窓に反射した光だけが彼女のアパートを照らす。そう、自分の男根だけが、彼女に光を与える、それこそが彼の願いなのである。
彼女の身体に執着するジョンスはだから、ドラッグでハイになり屋外で服を脱いだヘミを強く非難する。
友達のいなかったヘミは、旅行中の猫の世話をジョンスに頼むしかなかった。だから彼女は彼と寝た。ベッドの近くにコンドームを常備しているヘミに取って、1回身体を重ねることはなんでもない。
「1回セックスしたからと言って、勝手に恋人ヅラしないでよね」という、男にとっては辛いシチュエーションではある。
ヘミを追うジョンスはしかし、“ほんとうに”彼女を見ているのか?身体ではなく、彼女の存在を見ているのか。
ここで映画は、そもそも彼女は存在しているのか?という謎を散りばめていく。
ジョンスの幼い頃に「ヘミ」という女性がいたのは確かだ。劇中、ヘミの家族に会っているし、ジョンスの母の記憶の中にも存在する。
しかし、この「ヘミ」が、あの「ヘミ」かは彼には確かではない。
微妙に食い違う過去の記憶。ジョンスは彼女に「ブス」と言ったことを憶えていない。幼い頃に彼女が落ちたという井戸も、あったかどうかはっきりしない。そもそも彼は、整形したという今のヘミに昔の面影も見つけられていないのだ。
映画はやがて残酷な真実を暴き出す。ジョンスは“いま生きているヘミ”を見てはいないのだ。
再会した日、ヘミはジョンスにパントマイムを見せる。そのとき、彼女は「ないことを忘れるのよ」と言った。
ベンの家には、ヘミが飼っていた猫がいて、彼女がしていた腕時計があった。ベンがヘミを殺したのか?
「ないことを忘れ」られず、「いたと思いたい」ジョンスは、ベンを殺す。
しかし、ベンがヘミを殺したのか?
そもそも、ジョンスはどれだけヘミと向き合ったのだろう?
どれだけ、身体ではなく言葉を重ねたのだろう?
ジョンスはヘミに、「ベンが君と逢う理由を考えてみろ」と言う。同じセリフはジョンスにも向けられて良い。
ベンがヘミを殺すまでもなく、ジョンスにとっての彼女もまた、「生きて」はいないのである。
原作は村上春樹。
謎の金持ちベンを、ジョンスは「ギャツビーみたいだ」という。こんなところにも村上春樹的モチーフが散りばめられている。
※ギャツビーは村上春樹の好きなフィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」の主人公
パスタを料理する、井戸、電話、どうやって暮らしているかわからない金持ちなど、映画に表現するのが(実は)難しそうな村上春樹的小道具がうまく使われていて、ファンには楽しみが多い(牛ではなく羊を飼っていてほしかったところではある)。
だから本作は、村上春樹的な世界をなかなかうまく映画にしているとは思う。
だが、それが「映画として優れているか」というと、そうは思えない。村上春樹的な世界は、小説で楽しむほうがいいように思う。
ジョンス、ヘミ、ベンが夕陽を見ながら食事するところなど、良いシーンもあるけどね。
どうも観ていて、「アンダー・ザ・シルバー・レイク」が思い出されてならなかった(あの映画も村上春樹的ではある)。
真っ二つ
好みが完全に分かれる映画。
私はどっちつかず、好き、とも嫌いとも。
ただ、ユアンの顔が好き。
予告にとても惹かれてしまってかなり期待してしまっていたので、この感情かもしれない。
観たのは数日前だけど、3日ほど引きずった。
なぜあんなに自慰シーンが多いのか。
あれは必要ですか?
そこが理解不能。
たまに洋画でも邦画でもそんなシーンあるけど、
あれは何の意味が?
カップルのラブシーンは、喜怒哀楽や愛情、色んな意味が受け取れるけど、
1人のシーンにはなんの意味を持たせているの?
誰か教えて!!
こればっか考えて3日。笑
時間無駄遣いだったかな、、
リトルハンガー、グレイトハンガーは
興味深く感じました。
ヘミもベンもグレイトハンガーだったのだろう。
あと主人公はリトルハンガーかな。
あと、ヘミは消えてしまいたい的な事を話していたけど、ヘミからの最後のTELの際に、男性靴の様な足音が聞こえたりしていたけども、
本当は死にたくない。なんて思ったから主人公に電話してきたんだろうか。
だけど、話すことが出来ずに、犯人に電話を切られてしまったの?
理解が難しい映画。
観客が選べる真実
観客は2種類の真実を想像することができます。
A.ベンは金持ちのサイコパスで定期的に殺人を犯している。ヘミは裸踊りの後でベンに殺された。
B.ヘミは信頼するジョンスから娼婦呼ばわりされたので、ショックで姿を消してしまった。人のいい金持ちベンは、勘違いした貧乏人のストーカーに殺されてしまう。
AでもBでも、どちらでも成り立つように話を組み立てているため、何度見ても結論は出ないでしょう。
私はこのギミックを面白いと感じました。わかりやすいサスペンス話にしていたら映画はひどく陳腐なものになったでしょう。わからないという仕掛けがこの映画の魅力のひとつです。
私はBを選びました。ベンはサイコパスではなく誤解されて殺されたのです。ギャツビーの悲劇の物語なのです。
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