バーニング 劇場版のレビュー・感想・評価
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物語を超えた映画
何だろう、何かが破壊的に起こるわけでもなく...謎は謎のまま...それでいて常に不穏な緊張感に包まれる。人を食ったようなメタファーに満ち溢れた会話、シーン。何が本当で何が嘘なのか分からない展開。持つ者と持たざる者の圧倒的な差。
長いし、若干途中ぼけっとしてしまったが、徐々にその「日常の不穏さ」に圧倒され。
原作は手元にあるがまだ読んでいない。他の作品は比較的読んでいるので、村上春樹的...と思いつつラスト(読んでないので想像だけど)に村上春樹的なものを超えてしまった激しさを感じた。
ジョンス、ヘミ、ベン、それぞれの表情と緊張感がすごくいい。そして3人のあまりに不穏な関係性。3人揃った瞬間からすでに緊張感が高い。
あらすじを並べ立てるだけでは全く意味不明になってしまいそうな物語を、小説という形とは別に、映画という形で仕上げたという意味では完璧なものを感じた。
「納屋を焼く」の別バージョンとして観よう
村上春樹の「納屋を焼く」が原作となっているが、短編を肉付けして膨らませたというよりは、モチーフを借りて1つの可能性を作り出したという感じである。
小説は映画を観る前に読んでおき、差異を探しながら観たほうが楽しめると思います。
(以下よりネタバレ含みます)
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私は原作を読まずに映画を観たが、序盤からわかりやすい伏線が出すぎで、先の展開が早い段階で見えてしまった。
先が見えているのに、各シーンが間延びしているため、テンポが悪い印象だった。
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その後、原作を読んでみたら違う発見があった。
小説では「納屋を焼く」が何を指すのかがかなりぼやかされている。
そして、小説の主人公は都会暮らしで孤独ではないし文化的素養も十分。
ジョンスからは、村上春樹の作品にありがちな主人公の要素(アーバンセンスがあり、醒めていて執着しない)が見事に消されていた。
一方でヘミの天真爛漫、超越的で適度な闇を抱える感じは小説以上に村上春樹のヒロインっぽかった笑
小説では「僕」と「彼女」は浅いつながりで、だから消えても騒がれない存在だった。
しかし、映画ではジョンスとヘミには特別なつながりが存在し、ジョンスも孤独で不器用だった。ヘミは消えてもプツンとはならない存在だった。
それであのラストに繋がっていった。
監督は登場人物が変わり、彼(ベン)が「観察」を誤る、現代韓国バージョンの「納屋を焼く」を映画では描いてみたかったのかなあと思ったら、腑に落ちた。
すぐ近くのビニールハウス
原作未読
久々に偶然再会した幼馴染みの女性と意気投合し惹かれていく主人公と、その彼女と、彼女がアフリカ旅行で知り合ったという男との話。
彼女を介して交流する様になった男に2ヵ月に一度ぐらいの頻度で他人のビニールハウスに火をつけると話をされ、その後彼女は失踪する。
燃えたビニールハウスはみつからず、彼女も見つからずという展開ながら、トイレの引き出しの件とか、メタファーがどうのとかの件から想像はつく訳で、ある意味何も意外性はないストレートな展開に。
はっきりとは描かないのが美徳なのかも知れないけれど、ミステリーというには不穏さも衝撃もなく、その部分に関しては単純で物足りない。
メインストーリーは嫌いじゃないけど、余計な描写をたっぷり織り込みだらだらと長過ぎた。
信頼する人は井戸の底から見上げる丸い空に現れる
重要なセリフや会話、物語の時系列などかなり原作に沿っているのに加え、村上春樹さんの小説でよく出てくる『井戸』も現実と非現実の曖昧さ(人間の脳が生み出す幻想も本人にとっては現実という解釈を許していただけるのなら)の象徴として出てくる。しかも、無限のはずの空も落ちた井戸の中から見上げると丸く切り取られた限定的な世界になる、という哲学的な問いかけまで織り込まれて。
ビニールハウス(原作では納屋)はどこにでもあり、いつ焼け落ちても、たぶん誰も(一部の所有者を除いて)気にも止めない存在。それをいつ世間から消え去っても誰にも気にされない人間の存在として捉えるか。或いは、いつ焼かれるのか、いつ消えていくのか気にしていたとしても、誰かが(言い換えれば、社会の中の何かのシステムが)気が付かない間に、自分の身近な人や大事な何かを、必要性の判断などもなく、どうでもいいもののように消し去っているのかもしれない、と捉えるのか。
そのどちらでもあるような気もするし、全く違うことかもしれないし、いまだに自分の中では答えが出せないでいます。
消失したヘミの存在が曖昧になればなるほど、この世界で唯一、自分を信頼してくれた彼女への喪失感が大きくなる。信頼できる人が身近にいることもとても大切なことですが、自分を信頼してくれる人がいることが、いかに生きる力になるのか、痛切に考えさせられる作品だと思います。
意図が不明…
観終わってこんな話だっけと、あらためて原作を数年ぶりに、おそらく数百回目に再読。
主人公と彼女の距離をこれほどまで近く改変する意図はなんなんだ、イ・チャンドン?
そこを変えたらそりゃああいう結末をつけたくもなるだろうが、それは「納屋を焼く」ではないよね。そういう物語ではない。
だとするなら、「納屋を焼く」からわざわざ創作する意図が分からない…
想像を超えた出来!
主要登場人物の女性が何の説明もなく途中で消えてしまうことから、アントニオーニの「情事」のようなある種の不条理作品なのかと、思って観ていたら、さにあらず、とんでもない結果になります。ある意味、純文学的ではない解決方法です。関心のある方は是非、観てください。星を半分、減らしたのは、主人公の性描写がしつこかったことと、大麻を吸った女性が上半身裸で踊る場面が意味不明だったからです。この二つの場面さえカットされていれば、作品はもっと締まったものとなっていたはずです。ちょっと上映時間が長過ぎたことを除けば、満足のいく作品でした。
希望を云えば、上映館をもっと増やして欲しかったですね。
完璧
待望のイ・チャンドン監督作品ということで早速観賞。
ストーリー、キャスト、映像、音楽すべてが完璧でした。
ただ、この面白さを言語化するのは難しいです。
これまでのイ・チャンドン作品はストーリーが結末に向かって緻密に前に進んでいきますが、今作は主人公の「この世界は謎めいている」というセリフを体現するように、ストーリーがどこに進んでいっているのかわからず混沌としています。(すべてが謎めいているという意味で雰囲気がコクソンに似ているとも感じました)
ともあれ、これまでの作品とは趣が異なり、イ・チャンドン監督の新境地といっていいと思います。
個人的には今年ナンバーワン確定です
これ以上ない映画化
「納屋を焼くんです」
「井戸に落ちたことがあるの」
もちろんこれはメタファー。作中でわざわさ「メタファー」って言葉にスポットライトを当ててましたが。
失踪、猫、孤独、隠された暴力、そして退屈。
村上作品ではおなじみのこれらの要素。小説だと現実と幻想の境をたゆたうところで終わりますが、映画はこれでもかというくらいしっかりと若者の生活の実在感を演出した後で、「納屋を焼くんです……」という話になだれ込んでいきます。
何も難しいことはありません。言いたいことは明らかです。
空想と現実の狭間
長尺で左程高揚の無い物語が終盤近く迄続きます、ですが構成巧く映像も良かった、眠くもならずに最後まで集中して観られました。
解釈は視聴者に委ねる風の結末はちょっとモヤるが、チョン・ジョンソの艶体を拝めた事で相殺します。
この作品はミステリーでも何でもない
青年は幼なじみの女性と偶然再会し、彼女がアフリカ旅行から戻った際に、アフリカで知り合ったという謎めいた金持ちの男を紹介してから物語がスタートする。
しかしこの映画無駄に長い。NHKでが90分程度の短編が放送されたそうだが、内容的にはその尺で十分の内容だと思います。
サスペンス感も無く、だらだらと話は延々続いていき、誰もが考え付くラストシーンでエンドロール。超失敗作だと感じました。
この映画が「米ニューヨーク・タイムズ紙ベスト映画ランキング」の2位とはどんな方が評価してるのかも疑問です!
意味不明。全てが中途半端
久々に、観て後悔した映画。
サイコパスの片鱗があまりにも見えなさ過ぎな犯人と、根暗な主人公と、ぶっ飛んだ女の子の物語。
ヘミ役の子はオーディションで選ばれただけあって、魅力的な子でしたが・・・
観終わって、とにかく頭の中が「???」だらけ。
これが狙いなのか?笑
消えること。ミカンと、ハウスと、ヘミと
この物語自体が実は、パントマイムだ。
もともと存在しないものが、存在に対する逆説的なメタファーとなり、そして、巧妙に仕掛けられたトリックがミステリアスさを増し、頭の中で複雑に絡み合いながら、存在や消失について考察することになる。
友達はいないが、ジョンスのことだけは頼りにしていたヘミが、突然消えた。
どこかミステリアスな結末に、何か解を与えるとすると…というより、小説の非現実感に、映画では現実感を持たせるために、また、物語が実は、壮大なパントマイムであったことを示唆するために、このようなストーリーに仕立てたのか、なるほどと…。特に、整形に違和感のない韓国では、この物語仕立てはマッチするのかもしれない。
人が忽然と消え去ってしまうには、現実では、やはり何か理由が必要なのだ。
「パントマイムで重要なのは、そこにミカンがあると思うことではなくて、そこにミカンがないことを忘れること」、ヘミの言葉だ。
ベンが言う、「ハウスを焼く」、「誰も気にも留めないハウスだ」と。
しかし、ハウスが焼かれた形跡はない。
焼いたと言うベン。
焼かれてしまったハウスはない。
そして、消えるヘミ。
焼かれて消えたはずのハウスと、確かに存在したはずのヘミを探し求めるジョンス。
ベンはパントマイマーで、ジョンスは観客なのか。
「ミカンがあると思うことではなくて、ミカンがないことを忘れること」。
小説でも映画でも冒頭に描かれるこの言葉の場面が、物語の展開を通して、何か哲学的な問いのように頭の中をよぎる。
だが、消えることは、無いことと同義ではない。だから、僕たちには喪失感がある。
焼かれてなくなるハウスは、きっと、消えてしまうヘミのことだ。
誰も気にも留めないハウスは、きっと、友達のいないヘミだ。
誰も気にも留めないないのだから、いなくなっても、存在した痕跡すら残さないのか。
だが、確かに存在していたものは、もともとないはずのミカンではない。
消えてしまったものを忘れることで、元どおりになるわけではない。
パントマイムの中のミカンの話しは、「存在」を考えさせるために逆説的に使われたメタファーなのだ。
そう、パントマイムは現実ではないのだ。
そして、この巧妙に仕組まれた物語も逆説的に僕たちの生きる世界に問いかけているのだ。
誰も気に留めなくても、存在した事実は消えず、消えてしまった事実は残るのだ。
だが、また、よく考えると、この「物語自体」が実は、「パントマイム」だというところに立ち戻ってしまう。
ヘミが初めてジョンスの前に現れた時、昔、学校で一緒だった、整形したんだと言っていた。
ジョンスは、何も覚えてないし、確認も出来なかったじゃないか。
もしかしたら、最初から、ヘミは本当に存在していないんじゃないか。
いろいろ思案を巡らせて、結局は、そこに立ち戻り、意外な結末を思い返しても、ふと笑ってしまう。
映画の結末は意外だ。
だが、喪失感とどう向き合うのか、喪失感とどう生きるのか、これも僕たちに対する問いなのだと考えてしまう。
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