バーニング 劇場版のレビュー・感想・評価
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思わず吐きそうになる、一刻も早く逃げ出したくなる。
原作はもちろん読んでいたけど、それにも増して、気色悪い映画だった。途中までは長くてまどろっこしく、早く終われば良いのにと思い、途中からは連続殺人の暗示と実際の殺人。普段は見るエンドロールも見ず、映画館から一刻も早く出たかった。自分が刺し殺した様に、手に血糊の跡が生々しく感じれた。私はタクシーに飛び乗り、駅に向かう道中、運転手さんと何気ない会話をした。誰かと話さないと心が落ち着かない。話す事で心の平静を取り戻して行けた感覚。ベンにとっては親切心から行っていたであろうペースを保った行為は見てるものには思わず吐きそうになる、それは確定した訳ではない犯罪性の危うさも加わり、見てるものに私の様な衝動性を催させる。
ベンの行為も、ジョンスの殺人も、シンヘミの失踪も、社会全体にとっては動的平衡を保つものなんだろうが、一人一人の個人の側から見ると理不尽としか言えない、それを示唆する様な映画でした。
狂おしいまでの情念が燃え上がる
1「燻る」:“持たざる者”としての主人公ジョンス
映画のポスターには「究極のミステリー」という惹句がありますが、村上春樹の短編小説が原作である本作に、ミステリーやサスペンスのように明確な真相や答えを期待すると、肩透かしを食うことになると思います。また、映画化にあたって原作の『納屋を焼く』をかなり大胆に再解釈しており、大幅なアレンジが加えられているため、元の原作小説の雰囲気を期待して観に行くといささか面食らうことになるかもしれません。しかし、楽しみ方さえ間違えなければ、本作は非常に複雑で多面的な解釈のできる傑作であると断言できますし、村上春樹の小説の映画化としても、(これが全てだとは言いませんが)理想的と言っていい形になっていると思います。
原作小説との一番の違いは、主人公の設定にあると思います。原作の主人公「僕」は、三十一歳で一応結婚もしていて、職業は小説家のようですが、あまり忙しくない様子で、作中に「毎日が休みみたいなものだし」という台詞も出てきます。「彼女」(映画では「ヘミ」)とは月に一、二回食事に行ったり、バーに行って酒を飲んだりする仲で、主人公は完全に遊びで「彼女」と付き合っています。つまり、原作では主人公も、「彼」(映画では「ベン」)ほどではないにしても、かなりの“高等遊民”として描かれているのです。
ところが、映画『バーニング』の主人公「ジョンス」は、これとは全く異なり、典型的な“持たざる者”として描かれています。ジョンスは小説家“志望”であり、実家の牛の世話をしているだけの実質無職で貧乏な若者です。映画では、彼とギャツビー(謎多き裕福な若者)であるベンをあらゆる面で容赦なく対比させて描いていきます。車、服装、家、料理、友人……そして、その極めつけがヘミの存在です。
ヘミとの性行為の場面でのぎこちない様子を見るに、おそらくあれがジョンスにとって唯一の経験だったのではないでしょうか。原作の主人公は「彼女」にあまり執着していない様子でしたが、ジョンスはヘミに狂おしいほどの恋心を抱き、彼女の部屋で自慰行為をくり返します。ジョンスにとってヘミは、唯一の友人であり、初めてできた恋人(?)であり、そして自分を“どん詰まり”の現状から連れ出してくれるかもしれない希望の象徴だったのだと思います。しかし、突然現れたベンがそんな彼女を事もなげに奪い去ってしまうのです。
原作小説にはなかった、主人公のベンに対するコンプレックスと、ヘミに対する狂おしいまでの恋心と執着は、映画オリジナルとなる終盤の展開にとって重要な伏線となっています。
2「熾る」:消えてしまったヘミと、燃えないビニールハウス
映画の中盤、ベンとヘミがジョンスの家を訪れることになり、そこでベンが「時々、古いビニールハウスを焼いている」ことをジョンスに話します。そして、その日以降ヘミが消息を絶ち、ジョンスの前から消えてしまう──ここまでは原作小説とほぼ同じ展開です。そして、ジョンスが近くのビニールハウスが燃えていないか毎日確認してまわるようになるのも原作通りなのですが、原作の主人公が毎朝の日課であるジョギングのついでに、あくまで興味本位で近くの納屋を見てまわっているのに比べると、ジョンスは何かに縋るように死にもの狂いで、燃え落ちたビニールハウスを探し求めているように見えます。
また、それと並行してジョンスはあらゆる手がかりをたどって、ヘミの行方を追います。ヘミのアパート、キャンペーンガールのアルバイト先、パントマイム教室、ヘミの実家があった土地……そして、彼女の恋人であったベン。ジョンスがベンのビニールハウスの話にこだわるのも、それがヘミにつながる重要な手がかりになるかもしれないと考えたからだと思います。
ヘミは原作の「彼女」と比べるといくつかのディテールが付け加えられているのですが、そのどれもが曖昧で定かでない情報のため、かえって実在感が薄くなっているように感じます。アパートで飼っているという猫の「ボイル」は一度もジョンスの前に姿を現しませんし、ヘミが言う「中学生の時にジョンスに“ブス”と言われた」話や「子どもの頃に井戸に落ちてしまい、ジョンスに助けられた」話もジョンスの記憶にはなく、事実なのかどうか分かりません。考えれば考えるほど、彼女が本当に存在していたのかどうかさえ分からなくなってきます。
自分にとって大切な人が突然目の前からいなくなってしまい、手がかりをたどるほどに、その実体にたどり着くどころか、その人のことがどんどん分からなくなっていき、果ては本当に存在していたのかどうかさえ分からなくなる……。
原作にも「そこに蜜柑がないことを忘れればいい」という「蜜柑むき」のパントマイムの話や、「同時存在」の話など“存在”をめぐる議論がテーマとして出てきましたが、映画ではそれを哲学的で高尚な問いかけとしてではなく、今を生きる私たちにとって非常に卑近で切実な問題として描いているように思います。身近だった人と連絡が取れなくなり、だんだんその人のことがよく分からなくなったり、本当にいたのかどうかも信じられなくなったり……という経験は、大なり小なり誰にでも思い当たるふしがあるのではないでしょうか。
ベンの車を追いかけ、半ば強引にカフェで彼と再会したジョンスは、彼から「ビニールハウスは、もうすでに焼いた」という話や「ヘミはけむりのように消えてしまった」といった話を聞かされます。
焼け落ちていても誰も気が付かない古いビニールハウスと、頼れる友人が誰もいなかったヘミ……。ジョンスの携帯電話にヘミからの不審な着信があったタイミングも、ベンが「ジョンスの家を訪れた一日か二日後にビニールハウスを焼いた」という話と符合します。
おそらく「ビニールハウスを焼く」というのは言葉通りの意味ではなく、何かのメタファなのでしょう。そして、ここでの「ビニールハウス」とは「ヘミ」のことを指すのでしょう。少なくともこの時ジョンスはそう確信したはずです。なぜなら、これ以降ジョンスはビニールハウスが燃えていないか見てまわることを一切やめて、ベンを徹底的につけまわすようになるからです。
「焼く」というのが何を指しているかははっきりしなくとも、ベンがヘミの失踪に何らかの形で関わっていることは間違いない──彼はそう考えたのでしょう。彼女につながる唯一の手がかりとしてベンを執拗につけまわすジョンスからは、鬼気迫るような情念が伝わってきます。
3「燃え上がる」:疑惑が確信に変わる時
ベンをいくらつけまわしても、ヘミにつながるような手がかりを何もつかめず、完全に煮詰まっていたジョンスの元に突然電話がかかってきます。これまでもたびたびかかってきた無言電話かと思いきや、なんとそれは16年間消息を絶っていた母親からの電話でした。母親と再会した折に、ジョンスはヘミが落ちたという井戸のことを訊ねます。すると彼女は「水のない井戸があった」と言います。近所の人やヘミの家族に聞いても「そんなものはなかった」と言われた井戸が、あったと言うのです。
ひょっとしたら井戸は本当にあったのかもしれない。ヘミが言っていたことは本当なのかもしれない。暗い井戸の底からヘミを助け出したのは自分だったのかもしれない。ギリギリまで追い詰められていたところに、やっとヘミの存在を証明するような話を聞くことができたジョンスは、そう考えた(信じたかった)のではないでしょうか。
冷静に考えれば、井戸があったからと言って、それがヘミの存在を証明することにはならないですし、ヘミが言っていたことは、ベンが「ビニールハウスを焼く」と言うのと同様に、何かのメタファであり、それが事実であるかどうかは本当はどうでもいいことだったのかもしれません。ヘミはジョンスに「暗い闇の底にひとりでいた自分を救い出してくれたのは、あなただった」と伝えたかっただけなのかもしれません。
とまれ、ヘミの存在をギリギリのところでもう一度信じたいと願ったジョンスは、ベンの家で“決定的な2つの証拠”を目にします。それが猫と腕時計です。
ベンは「捨て猫を拾った」と言っていて、猫にはまだ名前はないそうですが、部屋から飛び出して行き、駐車場でジョンスの前に現れたその猫は、ジョンスが「ボイル」と呼びかける声に反応して彼の元に寄ってきます。また、ジョンスは以前ベンの家を訪れた時に、トイレの引き出しに複数の女性もののアクセサリーが入っているのを見つけますが、今回はそこにピンクの腕時計が加わっていることに気が付きます。
ジョンスは、これらの2つの証拠から「ベンがヘミを手にかけたのだ」と確信したのでしょう。ベンが拾ったと言っているこの猫は、(自分は一度も見たことがないが)ヘミが飼っていたというボイルで、だから自分が名前を呼んだのに反応して寄ってきたのだ。引き出しに入っていたのは、自分がヘミにあげたはずの腕時計に違いない。彼女が飼っていた猫がここにいて、腕時計がここにあるということは、ベンはヘミを……!
しかし、ここでも冷静に考えれば、ベンがヘミを手にかけたという確かな証拠は何一つありません。「ボイル」と呼びかけたのに反応したからと言って、その猫がボイルである確証はありませんし、ピンクの腕時計は元々くじ引きの景品にもなっていたぐらいありふれたデザインの品です。ヘミのアルバイト先の女の子も、ジョンスがヘミの行方について訊ねた時に、似たようなピンクの腕時計をしていました。ひょっとしたら、それはヘミが彼女にあげた物かもしれません。引き出しにあった腕時計がヘミの物であるという確証もまたないのです。
そして当然ですが、たとえ猫と腕時計がヘミのものであったとしても、それが“ベンがヘミを殺した証拠”になるわけではありません。ベンがヘミの失踪に関与していた疑いは濃くなりますが、まだいくつかの他の可能性が考えられます。例えば、ヘミが誰にも気付かれない方法で自殺をするのに手を貸したとか、身元を隠してどこかに逃亡するのを手伝ったとか……。
しかし、ジョンスにとってそれはどうでもいいことだったのかもしれません。自分にとっての希望の象徴であったヘミを事もなげに奪い去り、あまつさえ自分には全く理解できないような理由で彼女の存在を “消して”しまったのであれば、それはいずれにせよ殺してしまいたいぐらいに憎く、許せないことだったのでしょう。ここにきて父親のエピソードが、ジョンスの中にある確かな怒りを象徴していることに思い当たり、鳥肌が立ちました。
“衝撃のラスト”には素直に驚きました。まさか村上春樹の小説を原作とした映画が、これほどまで情念に満ち満ちた結末を迎えるとは予想だにしていませんでした。どうしようもなく救いのない結末ではありますし、結局のところ、ヘミのこともベンのこともはっきりと分かることはほとんどありません。しかし、一つだけ確かなのはジョンスの狂おしいまでの情念です。ヘミの存在を信じられるか否かの狭間で揺さぶられ続け、最終的にはベンに対して明確な殺意を抱くまでに至った、ジョンスの苦悩と怒りは痛いほど伝わってきます。ラストカット──まさにジョンスの情念が燃え上がる光景には、不思議なカタルシスさえ感じました。
なんか一昔前のATGみたい。
裕福でも心が貧しいグレートハンガー
面白かったなぁ
この先どうなるの??と思いながら
ずーっとドキドキしてた
小説家志望のイ・ジョンス(ユ・アイン)は、幼なじみのヘミとソウルで再会する
その後、ジョンスはヘミから「アフリカ旅行に行っている間、猫の世話をして欲しい」と言われる
ヘミのことが好きなジョンスは、言われた通りに世話をするが、ヘミはアフリカで知り合ったというベン(スティーブン・ユアン)と共に帰国する
その後しばらくして、ヘミはベンと共にジョンスの実家へやってくる
その時、ベンはジョンスに「ビニールハウスを燃やすのが好きだ」という話をする
そして、その日以来、ヘミは失踪してしまう
この世の中には、貧しい人と、そうでない人がいる
多くの人が、毎日、生活していくために汗水流して必死になって働いている
しかし、中には「特にこれといった仕事をしなくても裕福に生活していける人」がいる
この映画のジョンスは、田舎町の農家で細々と暮らしている低所得層の人間だ
しかし、彼には「小説家になりたい」という夢がある
一方、ヘミに紹介されたベンは、働かなくても暮らしていける富裕層の人間だ
その時、ジョンスはヘミに夢中だったため、ベンに対して嫉妬するようになる
ここから、ジョンスの人間臭さが炸裂する
ジョンスは、小説家を目指しているだけに想像力がたくましい
ベンが金持ちだというだけで胡散臭い奴だと思い、あらぬ方向へ妄想が広がっていく
でも、そんなジョンスの気持ちがよくわかるのだ
どんな金で生活しているかもわからないベンは、それだけで怪しい奴だと思ってしまうし、どうも貧乏人を見下しているように見えてしまう
だからこそ、ヘミもベンの悪事に巻き込まれたに違いないと思ってしまうのだ
しかし、それはジョンスのベンに対するただの嫉妬ではないのか
それまで、お父さんのことを嫌っていたジョンスだったが
結局、お父さんの子供だったのではないのか
この世には、韓国と北朝鮮の間にあるどうしても越えられない残酷な境界のようなものが、
韓国の富裕層と貧困層の間にもあると思った
ベンが遠くに見える北朝鮮を見て「面白れー」と言って鼻で笑っているように
貧しい人たちのことも、上から目線で笑っているように見えてしまうのだ
どんなにジョンスがベンの後を追いかけても、ジョンスにはベンの生活が理解できないし、そこから何かを解決することはできない
人々の間に明確に存在する貧富の差、そこから生まれる嫉妬、どんなにもがいても越えられない壁がそこにはあるのだ
そして、善人だったジョンスの中で妄想が膨らみ、ベンに対する憎悪が育っていく
しかし、そんなベンは、裕福な暮らしをしているとはいえ、とくに目的もなく日々を過ごしている
その生き様は人間として豊かかと言えばそうではなく、
貧しい人生を送る「グレートハンガー」なのだ
失踪したヘミのことを全く気にしてもいないベンよりも、心を痛め、気にせずにはいられないジョンスの方がよっぽど心が豊かなのだ
しかし、そのことに気づかず、見た目の裕福さに気を取られてしまうのがジョンスの「若さ」なのだ
この映画は
現代社会の闇と人間の心の闇が融合し、それを主人公の心ごと炎上させるというとてもお見事な作品だった
見る人が育った環境によって、様々な解釈ができる作品
興味があったら、ぜひ、観て欲しいと思う
醜さ
辛気臭い映画。
韓国映画には一定の周期でこの手の映画に出くわす…。
醜さに対面する映画とでも言おうか、こおいうモノを提示したりすると魂のステージとか上がるのかしら?
作品の至るところに、妬みや嫉みの種がバラ撒かれてる。状況然り、台詞然り。
なにせ悔い改める材料に事欠かない。
寂れた農村で裸になって踊る姿には、羨望や挫折を感じはするものの、美しいなんて皮肉めいた言葉は出てこず、ただ哀れであった。
ミスリード
「単純過ぎてミステリーじゃないじゃないか!」という声もあるようだが、それは見事に監督に騙されている。
ベンがヘミを殺したというのはあくまでもジョンスの主観による筋立てでしかない。彼にはそう思えたから、彼の目線で進む(原作も一人称だ)この話はそう見えるように作られている。
ジョンスが最後に犯行を確信する猫のボイルのくだりについても、彼は一度もボイルを見ていないし、本当にヘミが猫を飼っていたのかもハッキリしない。あの狭い部屋で、彼は何日通ってもフンしか見つけられなかった。
トイレにあった腕時計にしても、ヘミが消えた後にジョンスが会うヘミの同僚コンパニオンが同じ腕時計を付けている。どこにでもある安物だ。
そもそも、ヘミとジョンス(および周囲の人)の記憶はことごとく一致しないし、ヘミは整形で顔も変わっている。となると果たしてヘミが、あの食堂の娘の「ヘミ」と同じ人物だったのかどうかも怪しくなってくる…あぁ、わけわからん!
なんなら全ては童貞文学青年の妄想か?ジョンスは最後の最後にしか実際に小説を書いているシーンがないわけだし…
と、そんな狐につままれたような感覚をこそ楽しむ映画だと思います。画面に映っているものをそのままではなく、蜜柑の皮を剥ぐように、そして一房づつ内容を解き明かしてこそ面白くなる。
リトルハンガーとグレートハンガー
連発される意味深な言葉の数々に注意しながら追っていたけど、かなり分かりやすい比喩と捻りなくストレートな話の展開で少し拍子抜け。
ここから面白くなるのか?というポイントがいくつも出てきては、その度にことごとく裏切られて残念な気分だった。
社会的底辺な二人と自分が少し重なり、ギャツビーなベンに向けるジョンスの微妙な目付きに共感。
ただ、ヘミの部屋でのジョンスの行動がだいぶ気持ち悪くて、それ以来彼へ寄り添う気になれず。
いやまあ分かるけどさあ…普通に気持ち悪いです。
ジョンスのキツい家庭状況やヘミの孤立加減を表す描写の居心地の悪さは好き。
特に想像を絶することのないラスト、結局は同じ穴の狢だとも思えた。
結末のその向こうを想像するしかないけど。
印象的なフレーズの多い作品だった。
無いことを忘れる、何の価値もないビニールハウスを燃やす、女のための国は無い、リトルハンガーとグレートハンガー、ベースを感じる、井戸に落ちる、など。
それぞれの意味を探ってみるけど、物語自体への興味がかなり薄れてしまうと何だかどうでもいい気分にもなってくる。
ただ、簡単に忘れることもできなさそう。
何だかんだ頭に焼きつき自分に刺さってくることも。
ヘミやベン、そもそもこの映画内で起きる事や在るもの全てがジョンスの小説なんじゃないかとか、様々な存在に疑問を感じさせる作り。
映画という創作物に日常的に触れて寄りかかっている身としてはなかなかキツかった。
お腹が空いたところから人生の意味を問い出す、というのは何となく理解できる。
鑑賞後、この映画へ向ける感情の行き場のなさとなんとも言えないポッカリ感は、やたらと「無い」や「消える」ことを強調していた作品自体の意図にハマってまんまと手の内に入ってしまったことになるのかな。
何にしろ、特に楽しめなかったのは事実。
タバコの灰皿代わりの紙コップに唾液を垂らすのが一番衝撃だったかもしれない。
あとヘミの可愛さ。ミューズ的な撮り方は苦手だけど。
白い煙が
原作は未読です。
暗喩的な台詞が多く謎があるストーリーですが、主人公の視点で、日常生活の中で不穏な疑惑が膨らんでゆく様子には引き込まれました。
明確な説明や解答は示されず、何を信じるかどう判断するか、主人公と同じように考えさせられます。
どこか途方に暮れたような風貌の主人公は、若者の漠然とした不安感や孤独感が滲み出ているような、垢抜けない雰囲気と言いますか、モッサリ感が絶妙で素晴らしい思います。
エキセントリックで奔放ながらどこか脆さもあるヒロインや、紳士的な物腰の中に不穏さを垣間見せる謎の男も、各々に見事な存在感のある演技でした。
富裕層との格差、華やかな都市と寒村との対比といった社会的背景を示す細かな描写も、説得力があります。
主人公とヒロインが男に誘われ富裕層の若者達と酒を飲むシーンがありますが、その場での主人公の居心地の悪さに、彼らとの格差、断絶感、異質感を痛感させられるような、個人的にはかなり刺さるシーンでした。
ポスターに衝撃のラストなどと書かれていますが、展開としては途中で予想は出来たので衝撃という程ではないと思います。
しかし、鬼気迫る長回しのクライマックスは印象深いものでした。
雪の中の全裸というのは、映像的に衝撃ではありましたが。
冒頭の白い煙と相対するようなラストの黒い煙が、主人公の変容を示しているのか、漠然とした不安が明確な怒りに変容したのかと感じました。
ヒロインのことだけではなく、境遇や社会など全てへの怒りなのかと。
長いしつまらん
まずミステリーじゃないな
そんで衝撃のラストでも想像を全く超えてもこない
この作品を絶賛している人は、自分を頭いいと思っていてそれに酔っているのではないか
意味深なシーンを長々と流して、何の意味も含ませない雰囲気映画の金字塔になりうる作品だ
伏線は伏線として機能しているのに、回収の仕方が下手過ぎるんじゃないかと
説明不足とは言わないが、映像だけで魅せすぎて言葉が少なすぎる
物語の解釈も人それぞれで多様性があるといえば聞こえはいいが、ミステリとしてのストーリーを思いつかなかっただけなんじゃないかと思えてくる
終始暗いシーンで一辺倒ですし、どこかに山場があればまだマシだったのかなと
あと単純に長い。
役者さんたちの演技は素晴らしかった。
時間を半分以下に編集しなおしてもっかい作りなおしてほしいとは思う
総評。つまらんかった!
こ、これが傑作?
やはりネタは、あれか。
アフリカにボランティアに行く金持ちのベン、何か動機があるはず。彼のゼイタク生活の資金はどこから出ているのか。マリファナ吸わせて裸踊りさせてジョンスから娼婦と罵られるよつに仕向け、ヘミを孤立させる目的は。そういうことだね。結局ヘミは殺されてなどいない、という監督の仕込みがわかる。面白いメタファだらけだ。
待ち受ける衝撃のラストは想像を絶する程ではないけど
テレビ版を見てから見るとおそらくなぜ彼女は消えたのか、彼らの関係はなんだったのかが分かってより面白いんだと思われる。
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映画だけ見てると、これってえーっとなんだったっけ??寂しい男の一人エッチ記録?いやいやミステリーか一応ってだれてくるんだよなぁ。
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結局、知り合ったベンの言うビニールハウスを焼くのが趣味っていうのは女を殺すのが趣味っていうことで、ベンはへミのこと殺してたんだよね。
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そのビニールハウスの話を聞いてる時、整形って英語でplastic surgeryって言うじゃん?そんでへミ(だけに限らず殆どの韓国人女性)は整形してるじゃん?だから"ビニール"ハウスである必要があったのかなと思ってた(笑).
まずはウンコの自己紹介。実は幼い頃、汲取り式便所に落ちたことがあります・・・(恥)
小説家を目指すフリーターのイ・ジョンス。父親が公務員に暴行を加えた罪で裁判にかけられ、家には誰もいなくなったために実家へと戻ることになったが、偶然にもキャンギャルをしていた幼なじみのヘミと出会い、運命が変わってゆく。「整形をしたからわからなかったでしょ?」とジョンスに問いかけるヘミ。井戸に落ちたのを助けてくれたジョンスを好きだったのに、唯一声をかけられたのが「ブス」という言葉。しかし、ジョンスは何も覚えていない。
パントマイムを演じて、ミカンがないことを忘れること。存在そのものを否定して、且つ欲っしないと伝わらない。哲学的な命題のようでもあり、箱の中の猫みたいなロジカルな会話を楽しんでる少女にも見えるヘミ。アフリカ旅行に行く間、ボイルという名の猫の世話を頼まれたジョンスは必然的とも思える展開で彼女と体を重ねる。初めての経験だったようにも思えたジョンス。毎日のように彼女の部屋へ通うが、猫の姿は見つけられない。さらには愛おしさのあまり、部屋では自慰を繰り返す。
旅行から帰ってきたヘミはアフリカで知り合った韓国人男性ベンをジョンスに紹介する。奇妙な三角関係の始まりだった。リトルハンガー(食の空腹者)、グレートハンガー(人生の空腹者)との違いを熱弁し、アフリカの部族による踊りを披露する。ポルシェを乗り回し、ギャツビーと呼ばれる謎の富裕層だったベン。一方、ジョンスもヘミも金のない貧困層の若者という構図がある。しかし、それをうらめしく思ったり、格差を打破しようとする意志も熱意もないのだ。小説家志望であるが、言葉にぶつけることもない。ただヘミに対する思いだけは熱くなっていくのだが、「ヘミに近づくな」とも言えず、「愛してるのかもしれない」とつぶやくのみだ。そして妄想だけが膨らんでしまう。
サスペンス部分としては、「ビニールハウスを燃やす」というベンの特異な趣味が、「女を殺す」のではないかと疑ってしまうところ。観客もジョンス目線で追いかけるため、燃やされたビニールハウスを探すと同時にヘミが殺されてるのではないかとストーリーを追う。ベンのマンションのトイレにあった、不自然な女性用化粧品やアクセサリー。燃えたビニールハウスが無いとわかり、やはり殺人なんだと確信に変わるジョンス。後半のカメラワークは明らかにジョンス目線に変更させるほど作為的だ。閉塞感、猜疑心、彼の思いが熱く伝わってくる・・・
ベンは実際に殺人犯だったのか?といったことは全て観客に委ねられるが、ラストにおける破壊的な暴力は明らかにジョンスが行ったもの。父のDNAを受け継いだかのように編集され、また、序盤に映し出される多数の飾られたナイフの映像が蘇ってくるのです。
魂が解き放たれるくらい虚しさが残るラスト。妄想が膨らみ過ぎたのも小説家の卵ならではだったのかもしれないし、どうにもならない格差社会から生まれた空虚感のせいかもしれない。北朝鮮の南向けプロパガンダ放送、テレビから流れるトランプの言葉、中国人の金に対する侮蔑といった話題、全てがジョンスを無気力人間にしてしまったのかもしれない。難しい内容ながら、眠気が一切来ないほど考えさせられた。ただ、最後に考えたのは、ワンカットだったためにあのポルシェは本当に燃やしているのかな?ってことだった・・・
主人公の複雑な思いがミステリーを追い越した
深い余韻に浸った。真実をすべて語らないこと、それも映画の一つの在り方だと思う。
主人公のイ・ジョンスは一人で生きている。父親は公務員に対する傷害罪で裁判中で、母親は何年か前に家を出たようだ。ジョンスの幼なじみのヘミはカード破産し、家にも帰れず、日銭を稼ぎ孤独に生きていた。そんな二人が再会し惹かれあった。
セレブで謎の多いベンの登場により物語がゆったりとうねり始めた。
ヘミの失踪〜ベンに対する嫉妬〜疑惑の増幅〜両親、社会、そして何より自身への絶望……ほとんどが一人称の展開ゆえ真実に近づけぬまま、いつのまにかジョンスと同化しクライマックスへ向かっていた。
ディテールを丹念に積み重ねてジョンスの複雑な思いを納得させていく手法。長尺には必然性があった。素晴らしいと思う。
久しぶりに鑑賞した韓国映画だったが、今年の外国映画のベストの一本だろう。
燃えているのは何
ふたり
真面目すぎる愚直なジョンスと金持ちベンの対比が格差がありすぎて残酷でした。ヘミが居なくならなかったとしても、ジョンスとベンのふたりには何かの拍子で同じ様な事が起こったと思います。ベンは要らない人間を古くなったビニールハウスに例えているのだと思いますが、高級車であっても燃やされてしまうものは燃やされてしまいます。ジョンスの怒りは持たない者達の怒りを代弁しているのでしょう。貧乏人の怒りが凝縮された様な作品だったので、格差が拡大している韓国社会や支配層への批判を感じました。
タイトルなし(ネタバレ)
☆☆☆★★★
村上春樹の原作は未読。簡単に。
【自然界の闇と裏】
作品全編で貫かれる《悪》の匂いが恐ろしい。
深く深く。ゆっくりゆっくり。ジワジワ〜っと真綿で首を締め付けて来る感覚。
前半での、ゆったりと展開される序章を楽しめるかどうかで、後半の狂気性の持続と。火薬が点火する一歩手前の状態及び、ラストでの一気の爆発を堪能出来るかと思う。
中盤でヘミが、いきなり服を脱ぎだす時に映る夕焼け空から闇の帳が迫る場面。
自然音と同時に。ゆっくりとカメラがパンをして、周辺を映し出す撮影の素晴らしさは忘れ難い。
また後半での追跡劇。都会のノイズと共に聞こえて来る不協和音の音楽的効果は、絶えずドキドキとさせられた。
確かにヘミは存在していた。間違いなくこの男が怪しい。でもそれを証明する手立てが無い!
だから彼は決断する。その焦燥感と、目と鼻の先に《北》を控える土地の寂寥感。
間違い無く傑作では有るのですが、ちょっとだけ残念なところも。
例えばビニールハウスで有り。水の無い井戸で有り。また、彼が書き始める小説で有ったり、警戒中のパトカーや猫等。
数多くの映画的な記号や伏線が。観終わってしまうと中途半端に宙ぶらりんの状態で回収されずに映画は終わってしまう。
「マクガフィンだから!」…と言われて仕舞えば
こちらも反論のしようが無い。
ただ…マクガフィンが多すぎるとかえって逆効果の気もしますね。そこのところ…どうなんでしよう?
明確な答えや意味を求めてはいけないのかも知れませんが。
2019年2月4日 TOHOシネマズ流山おおたかの森/premiere
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