バーニング 劇場版のレビュー・感想・評価
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初 イ・チャンドン
なんていえば良いのか。
感想に悩む。
ジョンスは偶然幼馴染のヘミとばったり会うところから話が始まり。
ヘミがアフリカの旅行に行くことで。
ギャッツビーのベンと会う。
なんとなく始まった二人。
ベンとヘミも曰くありげ。
ベンはジョンスにも興味を持つが面白いそうだから。
ベンは定期的に女の子を殺してる。
面白いけど退屈もしてる。
それがビニールハウスを役につながるメタファ。
最後なぜジョンスはベンを殺したのか。
殺さないで終わっても良いんじゃないかと思った。
何故全裸になるのかも不明。
全体的に何故あれ程に自慰を描く必要があったのか。
突然の踊り。
逢魔時の踊りは綺麗だった。
でもヘミの情緒不安定ぶりには、共感不能。
ノスタルジックな風景。
一見綺麗そうだけど。
みんな問題ありすぎ。
お父さん。
お母さん。
ヘミ。
諸々。。。
奥の深い作品
残酷な真実
小説家志望の青年ジョンスは、ある日、幼馴染のヘミと再会する。
かつてジョンスに「ブス」と言われたヘミだが、彼女は整形をして美しくなっていた。
ちょうどアフリカ旅行に行こうとしていたヘミは飼い猫のエサやりをジョンスに頼む。旅行に発つ前に彼女のアパートを訪ねたジョンスは、そこでヘミと関係を持つ。
アフリカから帰ったヘミと一緒に空港に現れたのはベン。ベンは働かず、高級車を乗り回し、瀟洒なマンションに住む金持ちだった。
ある日、ジョンスはベンから、「僕はときどき、ビニールハウスを燃やすのだ」と打ち明けられる。その日を境に、ジョンスはヘミと連絡が取れなくなる。
ジョンスはヘミを必死に探し始める。何度もケータイを鳴らし、彼女の母親の営む食堂に行き、彼女のバイト先を訪ね、ベンにつきまとう。しかし、ベンは「ヘミは突然姿を消した」と言う。
だが、突き詰めればジョンスの彼女への執着はセックスでしかない。
ジョンスは彼女のアパートのベッドでマスターベーションをし、彼女の性夢を見る。
丘の上にそそり立つ展望台は男根の象徴である。北向きの彼女のアパートには、日が差さない。僅かに展望台の窓に反射した光だけが彼女のアパートを照らす。そう、自分の男根だけが、彼女に光を与える、それこそが彼の願いなのである。
彼女の身体に執着するジョンスはだから、ドラッグでハイになり屋外で服を脱いだヘミを強く非難する。
友達のいなかったヘミは、旅行中の猫の世話をジョンスに頼むしかなかった。だから彼女は彼と寝た。ベッドの近くにコンドームを常備しているヘミに取って、1回身体を重ねることはなんでもない。
「1回セックスしたからと言って、勝手に恋人ヅラしないでよね」という、男にとっては辛いシチュエーションではある。
ヘミを追うジョンスはしかし、“ほんとうに”彼女を見ているのか?身体ではなく、彼女の存在を見ているのか。
ここで映画は、そもそも彼女は存在しているのか?という謎を散りばめていく。
ジョンスの幼い頃に「ヘミ」という女性がいたのは確かだ。劇中、ヘミの家族に会っているし、ジョンスの母の記憶の中にも存在する。
しかし、この「ヘミ」が、あの「ヘミ」かは彼には確かではない。
微妙に食い違う過去の記憶。ジョンスは彼女に「ブス」と言ったことを憶えていない。幼い頃に彼女が落ちたという井戸も、あったかどうかはっきりしない。そもそも彼は、整形したという今のヘミに昔の面影も見つけられていないのだ。
映画はやがて残酷な真実を暴き出す。ジョンスは“いま生きているヘミ”を見てはいないのだ。
再会した日、ヘミはジョンスにパントマイムを見せる。そのとき、彼女は「ないことを忘れるのよ」と言った。
ベンの家には、ヘミが飼っていた猫がいて、彼女がしていた腕時計があった。ベンがヘミを殺したのか?
「ないことを忘れ」られず、「いたと思いたい」ジョンスは、ベンを殺す。
しかし、ベンがヘミを殺したのか?
そもそも、ジョンスはどれだけヘミと向き合ったのだろう?
どれだけ、身体ではなく言葉を重ねたのだろう?
ジョンスはヘミに、「ベンが君と逢う理由を考えてみろ」と言う。同じセリフはジョンスにも向けられて良い。
ベンがヘミを殺すまでもなく、ジョンスにとっての彼女もまた、「生きて」はいないのである。
原作は村上春樹。
謎の金持ちベンを、ジョンスは「ギャツビーみたいだ」という。こんなところにも村上春樹的モチーフが散りばめられている。
※ギャツビーは村上春樹の好きなフィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」の主人公
パスタを料理する、井戸、電話、どうやって暮らしているかわからない金持ちなど、映画に表現するのが(実は)難しそうな村上春樹的小道具がうまく使われていて、ファンには楽しみが多い(牛ではなく羊を飼っていてほしかったところではある)。
だから本作は、村上春樹的な世界をなかなかうまく映画にしているとは思う。
だが、それが「映画として優れているか」というと、そうは思えない。村上春樹的な世界は、小説で楽しむほうがいいように思う。
ジョンス、ヘミ、ベンが夕陽を見ながら食事するところなど、良いシーンもあるけどね。
どうも観ていて、「アンダー・ザ・シルバー・レイク」が思い出されてならなかった(あの映画も村上春樹的ではある)。
映像美にやられる。
鬱屈と退屈と葛藤と
良い映画
素敵な恋愛物語でも始まるのかなと思って観てたら、第3の男が現れて話が少々ややこしくなって来る…。次に、"一発"決めたと思ったら、今度はシュールな展開へ…「あっ、これはついて行けそうもないかも…」とやや睡魔が…(笑)で、そこからの、まさかの猟奇ミステリー展開で、再び覚醒…(笑)
個人的には、彼女がアフリカへ旅立つまでの話が良かったかな(笑)…蜜柑を食べるパントマイムとか、本当に猫が家に住んでるんだろうかとか…。
ポルシェに乗った男が登場してからのくだりは、なんか俗っぽくなってしまって、今ひとつな展開でした…最後のミステリーへの着地は面白かったですけど…。
でも、結局なんかひとつ物足りない感が、鑑賞後の印象です…(笑)
*原作は未読です。
自由で平等ならば悪を選ぶこともまた
イチャンドン新作、村上春樹原作、カンヌで万引き家族とパルムを争って、バラクオバマ2018のお気に入り.
148分あっという間だったなー。
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映画序盤でパントマイムの話をする.
全てはパントマイムだったのか、小説の中の出来事にすぎないのか、現実の出来事なのか、考えれば考えるほど深淵にはまっていく感覚.
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バーニング以来ずっと現実と虚構、善と悪について考えさせられる日々..
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1番好きなのはベン、
"たまにビニールハウスを燃やしている。他人のものを、当然犯罪行為である"
と。そして、
"雨は洪水を起こし、人々を流す。雨は別に人々を狙っているわけではない"自然はそういうもんだからwwみたいな話をする.
めちゃくちゃ共感できちゃったんだよねこれ。なぜかめっちゃわかる!!と、思って.
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それから善と悪がわからなくなっています。そして全てはパントマイムではないのかと、映画冒頭に戻ってしまうわけです.
なんとかこの虚構から抜け出すことを模索しています。
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#映画 #明日は #愛と銃弾
むしろ主人公は中上健次のように見えた
状況に流されて、地元と血縁に囚われ、作家志望ながら何を書けばいいのかわからない、持たざる主人公。
同じく持たざる立場ながら、嘘をついて金を集め整形し、肌を出し踊って世間や金持ちに取り入り、のちに失踪?/殺害?されることになっても「グレート・ハンター」たらんとするヘミ。
焼かれる運命のビニールハウスを定期的に焼く、たまたま金を持っていることで善悪を超越してるかのように振る舞えるベン。
何もしなくても観客としてそこにいることを許されるベンとその友人たち、そこにいられるように芸をするヘミ。
やりきれなくそれを見る主人公とアクビと愛想笑いのベン。
パントマイムのコツとは無いことを忘れること。
陽の当たらないヘミの部屋には、1日1度だけ展望台から反射した光が射す。
その光を眺めながらヘミとセックスをする主人公。
ヘミの不在時のその部屋で、主人公は姿の見えない猫に餌をやり、光を求めるように自慰行為をする。
ヘミの失踪?/殺害?後、主人公は怒りと焦燥を原動力に、ベンの実態と犯罪を明らかにしようとし、やがてヘミの部屋で、光を捉えるように何かを書き始める。
フラットな洗練された原作を、貧富の差という現在性で改変することで、表現行為の根本に怒りと焦燥を据えた傑作。
真っ二つ
好みが完全に分かれる映画。
私はどっちつかず、好き、とも嫌いとも。
ただ、ユアンの顔が好き。
予告にとても惹かれてしまってかなり期待してしまっていたので、この感情かもしれない。
観たのは数日前だけど、3日ほど引きずった。
なぜあんなに自慰シーンが多いのか。
あれは必要ですか?
そこが理解不能。
たまに洋画でも邦画でもそんなシーンあるけど、
あれは何の意味が?
カップルのラブシーンは、喜怒哀楽や愛情、色んな意味が受け取れるけど、
1人のシーンにはなんの意味を持たせているの?
誰か教えて!!
こればっか考えて3日。笑
時間無駄遣いだったかな、、
リトルハンガー、グレイトハンガーは
興味深く感じました。
ヘミもベンもグレイトハンガーだったのだろう。
あと主人公はリトルハンガーかな。
あと、ヘミは消えてしまいたい的な事を話していたけど、ヘミからの最後のTELの際に、男性靴の様な足音が聞こえたりしていたけども、
本当は死にたくない。なんて思ったから主人公に電話してきたんだろうか。
だけど、話すことが出来ずに、犯人に電話を切られてしまったの?
理解が難しい映画。
観客が選べる真実
観客は2種類の真実を想像することができます。
A.ベンは金持ちのサイコパスで定期的に殺人を犯している。ヘミは裸踊りの後でベンに殺された。
B.ヘミは信頼するジョンスから娼婦呼ばわりされたので、ショックで姿を消してしまった。人のいい金持ちベンは、勘違いした貧乏人のストーカーに殺されてしまう。
AでもBでも、どちらでも成り立つように話を組み立てているため、何度見ても結論は出ないでしょう。
私はこのギミックを面白いと感じました。わかりやすいサスペンス話にしていたら映画はひどく陳腐なものになったでしょう。わからないという仕掛けがこの映画の魅力のひとつです。
私はBを選びました。ベンはサイコパスではなく誤解されて殺されたのです。ギャツビーの悲劇の物語なのです。
難解。
答えを見つけに
ビニールハウスは人間の隠喩?ジョンスの空想劇?
村上春樹 の短編小説「納屋を焼く」を映画化。
ジョンスがビニールハウスに火をつけるシーン。そもそもベンは犯人でなく、ジョンスによる虚像なのでは?
または、「ビニールハウス」は人間の隠喩で、女性が標的だったために、ヘミが失踪?その趣味に退屈し欠伸するベンを見て、ジョンスが始末したのでは?
作品の捉え方に正解がない気がする。全て、小説家志望の主人公の空想とも捉えられるし、作品全体にモヤがかかっている。
井戸が実在した・実在してない等と、事実が歪められているのは、「バニーレークは行方不明」の子供失踪の件にも似ている。
堪能
思わず吐きそうになる、一刻も早く逃げ出したくなる。
原作はもちろん読んでいたけど、それにも増して、気色悪い映画だった。途中までは長くてまどろっこしく、早く終われば良いのにと思い、途中からは連続殺人の暗示と実際の殺人。普段は見るエンドロールも見ず、映画館から一刻も早く出たかった。自分が刺し殺した様に、手に血糊の跡が生々しく感じれた。私はタクシーに飛び乗り、駅に向かう道中、運転手さんと何気ない会話をした。誰かと話さないと心が落ち着かない。話す事で心の平静を取り戻して行けた感覚。ベンにとっては親切心から行っていたであろうペースを保った行為は見てるものには思わず吐きそうになる、それは確定した訳ではない犯罪性の危うさも加わり、見てるものに私の様な衝動性を催させる。
ベンの行為も、ジョンスの殺人も、シンヘミの失踪も、社会全体にとっては動的平衡を保つものなんだろうが、一人一人の個人の側から見ると理不尽としか言えない、それを示唆する様な映画でした。
狂おしいまでの情念が燃え上がる
1「燻る」:“持たざる者”としての主人公ジョンス
映画のポスターには「究極のミステリー」という惹句がありますが、村上春樹の短編小説が原作である本作に、ミステリーやサスペンスのように明確な真相や答えを期待すると、肩透かしを食うことになると思います。また、映画化にあたって原作の『納屋を焼く』をかなり大胆に再解釈しており、大幅なアレンジが加えられているため、元の原作小説の雰囲気を期待して観に行くといささか面食らうことになるかもしれません。しかし、楽しみ方さえ間違えなければ、本作は非常に複雑で多面的な解釈のできる傑作であると断言できますし、村上春樹の小説の映画化としても、(これが全てだとは言いませんが)理想的と言っていい形になっていると思います。
原作小説との一番の違いは、主人公の設定にあると思います。原作の主人公「僕」は、三十一歳で一応結婚もしていて、職業は小説家のようですが、あまり忙しくない様子で、作中に「毎日が休みみたいなものだし」という台詞も出てきます。「彼女」(映画では「ヘミ」)とは月に一、二回食事に行ったり、バーに行って酒を飲んだりする仲で、主人公は完全に遊びで「彼女」と付き合っています。つまり、原作では主人公も、「彼」(映画では「ベン」)ほどではないにしても、かなりの“高等遊民”として描かれているのです。
ところが、映画『バーニング』の主人公「ジョンス」は、これとは全く異なり、典型的な“持たざる者”として描かれています。ジョンスは小説家“志望”であり、実家の牛の世話をしているだけの実質無職で貧乏な若者です。映画では、彼とギャツビー(謎多き裕福な若者)であるベンをあらゆる面で容赦なく対比させて描いていきます。車、服装、家、料理、友人……そして、その極めつけがヘミの存在です。
ヘミとの性行為の場面でのぎこちない様子を見るに、おそらくあれがジョンスにとって唯一の経験だったのではないでしょうか。原作の主人公は「彼女」にあまり執着していない様子でしたが、ジョンスはヘミに狂おしいほどの恋心を抱き、彼女の部屋で自慰行為をくり返します。ジョンスにとってヘミは、唯一の友人であり、初めてできた恋人(?)であり、そして自分を“どん詰まり”の現状から連れ出してくれるかもしれない希望の象徴だったのだと思います。しかし、突然現れたベンがそんな彼女を事もなげに奪い去ってしまうのです。
原作小説にはなかった、主人公のベンに対するコンプレックスと、ヘミに対する狂おしいまでの恋心と執着は、映画オリジナルとなる終盤の展開にとって重要な伏線となっています。
2「熾る」:消えてしまったヘミと、燃えないビニールハウス
映画の中盤、ベンとヘミがジョンスの家を訪れることになり、そこでベンが「時々、古いビニールハウスを焼いている」ことをジョンスに話します。そして、その日以降ヘミが消息を絶ち、ジョンスの前から消えてしまう──ここまでは原作小説とほぼ同じ展開です。そして、ジョンスが近くのビニールハウスが燃えていないか毎日確認してまわるようになるのも原作通りなのですが、原作の主人公が毎朝の日課であるジョギングのついでに、あくまで興味本位で近くの納屋を見てまわっているのに比べると、ジョンスは何かに縋るように死にもの狂いで、燃え落ちたビニールハウスを探し求めているように見えます。
また、それと並行してジョンスはあらゆる手がかりをたどって、ヘミの行方を追います。ヘミのアパート、キャンペーンガールのアルバイト先、パントマイム教室、ヘミの実家があった土地……そして、彼女の恋人であったベン。ジョンスがベンのビニールハウスの話にこだわるのも、それがヘミにつながる重要な手がかりになるかもしれないと考えたからだと思います。
ヘミは原作の「彼女」と比べるといくつかのディテールが付け加えられているのですが、そのどれもが曖昧で定かでない情報のため、かえって実在感が薄くなっているように感じます。アパートで飼っているという猫の「ボイル」は一度もジョンスの前に姿を現しませんし、ヘミが言う「中学生の時にジョンスに“ブス”と言われた」話や「子どもの頃に井戸に落ちてしまい、ジョンスに助けられた」話もジョンスの記憶にはなく、事実なのかどうか分かりません。考えれば考えるほど、彼女が本当に存在していたのかどうかさえ分からなくなってきます。
自分にとって大切な人が突然目の前からいなくなってしまい、手がかりをたどるほどに、その実体にたどり着くどころか、その人のことがどんどん分からなくなっていき、果ては本当に存在していたのかどうかさえ分からなくなる……。
原作にも「そこに蜜柑がないことを忘れればいい」という「蜜柑むき」のパントマイムの話や、「同時存在」の話など“存在”をめぐる議論がテーマとして出てきましたが、映画ではそれを哲学的で高尚な問いかけとしてではなく、今を生きる私たちにとって非常に卑近で切実な問題として描いているように思います。身近だった人と連絡が取れなくなり、だんだんその人のことがよく分からなくなったり、本当にいたのかどうかも信じられなくなったり……という経験は、大なり小なり誰にでも思い当たるふしがあるのではないでしょうか。
ベンの車を追いかけ、半ば強引にカフェで彼と再会したジョンスは、彼から「ビニールハウスは、もうすでに焼いた」という話や「ヘミはけむりのように消えてしまった」といった話を聞かされます。
焼け落ちていても誰も気が付かない古いビニールハウスと、頼れる友人が誰もいなかったヘミ……。ジョンスの携帯電話にヘミからの不審な着信があったタイミングも、ベンが「ジョンスの家を訪れた一日か二日後にビニールハウスを焼いた」という話と符合します。
おそらく「ビニールハウスを焼く」というのは言葉通りの意味ではなく、何かのメタファなのでしょう。そして、ここでの「ビニールハウス」とは「ヘミ」のことを指すのでしょう。少なくともこの時ジョンスはそう確信したはずです。なぜなら、これ以降ジョンスはビニールハウスが燃えていないか見てまわることを一切やめて、ベンを徹底的につけまわすようになるからです。
「焼く」というのが何を指しているかははっきりしなくとも、ベンがヘミの失踪に何らかの形で関わっていることは間違いない──彼はそう考えたのでしょう。彼女につながる唯一の手がかりとしてベンを執拗につけまわすジョンスからは、鬼気迫るような情念が伝わってきます。
3「燃え上がる」:疑惑が確信に変わる時
ベンをいくらつけまわしても、ヘミにつながるような手がかりを何もつかめず、完全に煮詰まっていたジョンスの元に突然電話がかかってきます。これまでもたびたびかかってきた無言電話かと思いきや、なんとそれは16年間消息を絶っていた母親からの電話でした。母親と再会した折に、ジョンスはヘミが落ちたという井戸のことを訊ねます。すると彼女は「水のない井戸があった」と言います。近所の人やヘミの家族に聞いても「そんなものはなかった」と言われた井戸が、あったと言うのです。
ひょっとしたら井戸は本当にあったのかもしれない。ヘミが言っていたことは本当なのかもしれない。暗い井戸の底からヘミを助け出したのは自分だったのかもしれない。ギリギリまで追い詰められていたところに、やっとヘミの存在を証明するような話を聞くことができたジョンスは、そう考えた(信じたかった)のではないでしょうか。
冷静に考えれば、井戸があったからと言って、それがヘミの存在を証明することにはならないですし、ヘミが言っていたことは、ベンが「ビニールハウスを焼く」と言うのと同様に、何かのメタファであり、それが事実であるかどうかは本当はどうでもいいことだったのかもしれません。ヘミはジョンスに「暗い闇の底にひとりでいた自分を救い出してくれたのは、あなただった」と伝えたかっただけなのかもしれません。
とまれ、ヘミの存在をギリギリのところでもう一度信じたいと願ったジョンスは、ベンの家で“決定的な2つの証拠”を目にします。それが猫と腕時計です。
ベンは「捨て猫を拾った」と言っていて、猫にはまだ名前はないそうですが、部屋から飛び出して行き、駐車場でジョンスの前に現れたその猫は、ジョンスが「ボイル」と呼びかける声に反応して彼の元に寄ってきます。また、ジョンスは以前ベンの家を訪れた時に、トイレの引き出しに複数の女性もののアクセサリーが入っているのを見つけますが、今回はそこにピンクの腕時計が加わっていることに気が付きます。
ジョンスは、これらの2つの証拠から「ベンがヘミを手にかけたのだ」と確信したのでしょう。ベンが拾ったと言っているこの猫は、(自分は一度も見たことがないが)ヘミが飼っていたというボイルで、だから自分が名前を呼んだのに反応して寄ってきたのだ。引き出しに入っていたのは、自分がヘミにあげたはずの腕時計に違いない。彼女が飼っていた猫がここにいて、腕時計がここにあるということは、ベンはヘミを……!
しかし、ここでも冷静に考えれば、ベンがヘミを手にかけたという確かな証拠は何一つありません。「ボイル」と呼びかけたのに反応したからと言って、その猫がボイルである確証はありませんし、ピンクの腕時計は元々くじ引きの景品にもなっていたぐらいありふれたデザインの品です。ヘミのアルバイト先の女の子も、ジョンスがヘミの行方について訊ねた時に、似たようなピンクの腕時計をしていました。ひょっとしたら、それはヘミが彼女にあげた物かもしれません。引き出しにあった腕時計がヘミの物であるという確証もまたないのです。
そして当然ですが、たとえ猫と腕時計がヘミのものであったとしても、それが“ベンがヘミを殺した証拠”になるわけではありません。ベンがヘミの失踪に関与していた疑いは濃くなりますが、まだいくつかの他の可能性が考えられます。例えば、ヘミが誰にも気付かれない方法で自殺をするのに手を貸したとか、身元を隠してどこかに逃亡するのを手伝ったとか……。
しかし、ジョンスにとってそれはどうでもいいことだったのかもしれません。自分にとっての希望の象徴であったヘミを事もなげに奪い去り、あまつさえ自分には全く理解できないような理由で彼女の存在を “消して”しまったのであれば、それはいずれにせよ殺してしまいたいぐらいに憎く、許せないことだったのでしょう。ここにきて父親のエピソードが、ジョンスの中にある確かな怒りを象徴していることに思い当たり、鳥肌が立ちました。
“衝撃のラスト”には素直に驚きました。まさか村上春樹の小説を原作とした映画が、これほどまで情念に満ち満ちた結末を迎えるとは予想だにしていませんでした。どうしようもなく救いのない結末ではありますし、結局のところ、ヘミのこともベンのこともはっきりと分かることはほとんどありません。しかし、一つだけ確かなのはジョンスの狂おしいまでの情念です。ヘミの存在を信じられるか否かの狭間で揺さぶられ続け、最終的にはベンに対して明確な殺意を抱くまでに至った、ジョンスの苦悩と怒りは痛いほど伝わってきます。ラストカット──まさにジョンスの情念が燃え上がる光景には、不思議なカタルシスさえ感じました。
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