バーニング 劇場版のレビュー・感想・評価
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パントマイムスルメ映画
非常に難解な作品でした。
村上春樹の短編小説が原作で、だいぶ脚色してあるとのこと。
村上春樹はまだあまり読んだことがありませんが、確かに物語の雰囲気がまさにそんな感じでした。
物語終盤までイマイチパッとせず、何か心に残るモヤモヤとした違和感。
ヘミは本当にヘミなのか?ベンは一体何者なのか?そしてジョンスも決して普通の人ではない。
それぞれの登場人物の表情が意味ありげに見えて、退屈ではないけれど、なんか気持ち悪い感じが残っていました。
でも、それが目的なんでしょう。
自分もジョンスと同様に鈍感な方なので、何かに気づき始めたのはヘミの腕時計を見つけるあたりからだし、役に立たないビニールハウスのメタファーには、最後まで全く気づけませんでした。
この映画は色々な解釈ができると思います。
なんせ、一般的に考えられる真相だったとしても証拠がないのです。
一つの考え方、捉え方に縛られては、この作品の本当の面白さには辿り着けないと感じました。
謎は残るばかりです。
正直、結末以外はほとんど全てが謎でした。
パントマイム、猫、グレートハンガー、アフリカ旅行、同時性、夢、井戸、グラス、ビニールハウス、あくび、腕時計、ボイル…etc
振り返っていたら、また観たくなってきました。
他作品との比較はあまりよくないかもしれませんが、パラサイトっぽさを至るところで感じました。
高級住宅街に住むギャツビーと貧乏人という構図や韓国の陰陽入り乱れる街並み、衝撃の結末なんかも似ています。
日本の小説を韓国の格差社会に落とし込んだのも良かったのかもしれません。
そしてこの映画で最初に感じたこと。
チョン・ジョンソかわええ〜。
それはさておき、観れば観るほど、考えれば考えるほど深みの出る作品だと思いました。
『納屋を焼く』
日頃あまり韓国映画は観ないのだけれどミナリ鑑賞記念にバーニングをみた。
本作は激しいアクション等はなくてゆる〜りとしているのにぐんぐん惹きこまれたミステリー作品。
最後まで目が離せなかった。
もちろんイ・チャンドン監督作は初めて。
後で知ったけれど村上春樹氏が1983年に発表した短編小説「納屋を焼く」を原作をアレンジした映画なのですね。
そう観ると色々深い意味がありそう。原作読んでないなぁ。
アフリカのリトルハンガーとグレートハンガーの話や古いビニールハウスを焼く話はなんだか哲学的にも感じた。
小説家志望の青年ジョンスと幼なじみの女性ヘミ。
彼女がアフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれるジョンス。
ヘミはアフリカで知り合ったという男を連れて帰って来る。
その男ベンはギャツビー族で何でも手に入る大金持ち。
貧しいけどヘミに信頼されるジョンス。
彼らはどちらがグレートハンガーなのだろう?
もう一度みたくなる。
ヘミが忽然と消えてしまう終盤。
必死に探すジョンスを通して想像力を掻き立てられた。
真実ははっきりとは語られず、夕焼けのように曖昧。
何日も経ってから、あれはジョンスの書いた小説なのかーと気づいてにんまりした。
もやもやとした映画なのに、何故かまた観たいと思わせる不思議な作品。
カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で国際批評家連盟賞を受賞した作品だそうです。
告知ポスターがパラサイトの色合いと一緒だなぁ
映画を見て思いついたことをダラダラと書く。
村上春樹は以前小説を読んで合わずに途中で脱落。
どうせ、見ても意味わからない感じで終わるんだろうなぁ〜という、マイナス感情からの視聴。
映画はウォーキングデッドのスティーブンユアンが見たかったので見ることにした。淡々と流れていくストーリー、嫌いじゃない。むしろ見終わった後に不思議な余韻に浸っていたくなるような、不思議な感覚。結構好き。いや、かなり。好きだこの感じ。ヤダヤダ、わたしハルキストじゃないし!村上春樹なんか読んでも意味わかんない凡人で行く予定なのに!
で、感想。
ヘミが会いたかったグレートハンガーとはベンのことだったのかな。いや、3人のことかな。
ベンはサイコパスなんだろうか?すごく人当たりがよくて、魅力的、でもどこかで壁のようなものも感じる。主人公ジョンスやヘミに向ける笑顔や、ジョンスだけにした秘密の吐露。ただただ親切心があるようにも見えるし、奥底には持たざるもののジョンスに憐れみを感じているのを隠しているのかのようにも見える。これ知ってるなぁ、見たことあるな、上流階級のひとは見下しててもそれを上手に隠すよね、でも上手に隠せておくびにも出さなければそれはないってことと一緒なのかなぁ?見ながら、そんなことを考えた。それか、シンプルにそのまま、作家志望のジョンスには自分の高度で繊細な意識を共有できると思っていたのかな。
「犯罪だけれど警察もボロいビニールハウスが燃えてなくなっても気にしない」
燃やされることは必然だったことで、自分はその必然に組み込まれているだけ(セリフは違うけどそんなような話だったかな)
ベンはヘミを殺したのだとしたら、いてもいなくて誰も困らない存在であり、「最初からなかったみたいに消えてしまいたい」ヘミを、ベンが出会い、最初からいなかったかのように消える手伝いをしただけなのかもしれない。
ベンが殺人をしたかったという主体的な動機ではなく、もっと大きな運命の流れを感じる。
殺人鬼の戯言なのかもしれないが、「雨が降り洪水が起き人々が流される、そこに水の意思(ジャッジ)はない、ただ流れただけ。」自分も焼かれるのを待っているのを受け入れているだけという。
うーーーん、よくわかんないけど、わかる気がするーーー不思議体験!
ヘミの「最初からなかったみたいに消えてしまいたい」この感覚わかる!何もなかったかのように、消えてしまう悲しみも辛さもいろんなわづらわしさも、最初から何もなかったら何もないんだもんね。
でも、大麻も犯罪ですしってクギ打つ所、大麻の共犯にさせといて放火の告白をチクらせないようにしてたかと考えると、策士!
途中で猫の安否がとっても気になってしまい、余韻が中断した。ベンよ、女には容赦ないようだが、猫チャンには優しい人みたいでヨカッタ!
ベンがとても魅力的でどんな奴なんだろう、もっと彼の場面を見たい!と思うと同時に、ジョンスもヘミも、本当にとるに足らない魅力のみの字もない平凡なキャラクターで最後まで興味が湧かないように描いてたのかもしれないけど、逆にそれが新鮮だった。とてもリアリティがある。ヘミの平凡なんだけどアフリカ行ったりパントマイムとか踊りとかして精一杯平凡からの脱却試みてる感じもリアルでそれが側からすると苦笑いされてるみたいのも痛々しくてよかった…
あとは、
濡れ場シーンを初め、結構エロ描写があってPG12ってあったけど低すぎないか?と思った。
思ってたのとちがった
シークレットサンシャインが好きだったので、イ・チャンドン作品期待。
途中まで良かったけど、
ミステリー要素に引っ張られすぎたか?
楽しみかたがわからなくなってしまった
ラスト近くのヘミの部屋からのカメラが引いて待ちの風景、
のところで終わっても充分成立したような。。。
もしくは新しい彼女にメイクしてるところで終わる。。
ラストの展開はカタルシスはあるかもしれないが、ちょっと好みではなかったなー
フレンチのコース食べてたはずが、メインディッシュで味の濃いステーキ出てきた感じ(笑
やんなっちゃうなぁ。
勿論、楽しい面白い作品ではない。この監督の傑作で、韓国、映画、やんなっちゃうなぁこういうの作っちゃうんだから。ストーリーもそこまで分かりにくくはないし。監督の自己満足、というほどでもない。
ベースが鳴るのが自己燃焼じゃない悲しさ。他人が燃えていくのを見て沸き立つなんて、ネットの書き込みなんかを連想させて現代は現代なりに空虚なんだなとまた悲しい。生活様式とか、財産だけでなく、所有に底無しの曖昧さしか持ちえないで、故に曖昧な嫉妬。
ベンも退屈であくびだし、ヘミは旅行行っても大した発見もなく、グレートハンガーどうのと、表面的な情報程度。ググれば一発です。本当は生きる意味に出会いたかったろうに。ジョンスもヘミが好きなんだけど、曖昧さから抜けられない。その内に消されちゃう。消えるまでベースが鳴らないなんて、人間ってホント悲しいけど、そんなものかも。
燃やしてくれっていう若い女性は日本にも多いよね。決定権をとるつもりもない。雨が降りすぎたら洪水、脱いじゃうし、写っちゃうし、写しちゃう。インスタ万歳だわ。wベンも燃やしてくれってあくびをするんだな。笑顔を見せるんだな。それで預けちゃうんだよ。どうするか。自分で構築しないんだな。自分でやってみようともしないんだ。
なんでしょう。解決策はない?現代病?そんなことは無い。モラトリアムをきちんと過ごす事を誰も教えてくれないからか、ジョンスの父と母はどう?みんな教わってないんだな。
ベンの犯罪は無関心に埋没していたのに、見つけてくれたのは、ジョンス。ヘミはどうなった?って聞く人もいないかったんだな。ある、ないと思うんじゃなくて、みかんを食べるだけ。探せば、答えが見つかるんだけどな。話のテンポ、展開と相関しないこの濃密さを映画にしてしまう素晴らしさ。
実体や実存を、有るものにする力は誰にでも与えられている。隠すよりも、ごまかすよりも、全部脱いで燃やしちゃった方が早いわな。確かに。生きる人を応援したいんだろうな。この監督は。日本としては、なんかやんなっちゃうけどね。ww
スティーブン・ユアンだけは村上作品に合っていた
匂わせる妙
懐刀のような
韓国と言えば、かねてから整形大国との定見だが、たしかに、やったひとは多いが、逆に素で端正な顔立ちのひとも多い。
韓国の映画やドラマを見ていると、それが分かる。
その裏付け──というか、漠然とした雑感に過ぎないが、韓国の映画/ドラマでは、子役がしっかりかわいい。選っている感がある。そこに事業としての裾野の拡がりを感じたりする。
子役がかわいいのは、素で整形を必要としていない──ことでもある。ドラマなどでチラッと映るだけの端役女優が、妙に綺麗だったりする。綺麗なひとが多いというのも、案外分かる。
女優には分化がある──と思う。
ひとえのナチュラル顔と、くっきりしたオルチャン顔で、たいてい後者だが、パクソダムやキムゴウンやハンイェリらも、大きな需要を担っている。
ひとえは民族と反整形の象徴であろうと思われる。パラサイトのパクソダムや、ユヨルの音楽アルバムのキムゴウンは魅力的だった。
かえりみると韓国女優に惹かれることがけっこうある。
思えば、ここ20年のあいだに見方が変わっている。
冬のソナタが猖獗をきわめていたころ、ヨン様人気で韓国ツアーをする女性らを、嘲弄的に見ていた。
国家間が混濁するのをよそに、いまやけっこうな若者が、韓国のアイドルやドラマの主人公たちに魂を持っていかれている。そしてその事態を、もはや嘲弄的に見ることなどできはしない。大人たちも韓国映画を認めざるをえないからだ。認めざるをえないどころか、パラサイトやスウィングキッズに、魂を持っていかれている。
かんがみれば、冬のソナタのころから、韓国は、国をあげてアイドルを養成し、映画学校を設え、配信事業を磨いてきたわけである。
おそらくあの当時にパルムドールという事業目標を掲げたのだ──と思う。
それとは対照的にわが国の映画のクオリティは・・・(以下割愛)
この前置きをしたのは、バーニングが2018年のパルムドールと目されていたからである。批評家で構成される仏機関誌がこぞって星を付けていた。くつがえしたのは審査委員長のケイトブランシェットである。万引き家族は対抗馬だったが、映画は素晴らしく、受賞に異存はない。ブランシェットの目にくるいはなかった。
が、おそらく韓国は煮湯を飲まされた、と思う。
映画には、モデルを兼業するユアインと、ハリウッドの成功者スティーヴンユアン。のほかにチョンジョンソという女優が出てくる。
とても印象に残っている。バニシングのサスキアのように、前半であらわれて、それから出てこなくなる。からでもある。
自棄的な感じもあり、淫奔な感じもある。切れ長で、ギラッとする。惹かれた。
冒頭。日本ではほとんど見たことがないが、店舗前でおへそをだしたキャンペーンガールが、くねくね踊って街宣をしている。その場末感の高いキャンペーンガールがチョンジョンソである。
主人公ジョンス(ユアイン)は鈍色の労働者。荷を諦観のように背負った疲弊した若者である。貧困と不充足の表現がうまい。
ヘミ(チョンジョンソ)はキャンペーンガールの仕事中、偶然会った同郷のジョンスに「整形したの。かわいいでしょ」と、あっけらかんと告白し、誘ってくる。二人で一服。紙コップを灰皿にしているので、そこに唾液をたらす。底辺な庶民感。原作を知らないので、どこまで再現なのかわからないが、冒頭からぐいぐい引かれた。
後からチョンジョンソが初出演だと知って驚きをおぼえた。どこにも出た経験がないらしい。が、堂々としている。カラーも出している。なにをしても牛刀を隠していそうなギラつきがある。
そして、切開し過ぎ(みたい)な超切れ長のひとえがギラりとする。怖い。彼女のそこはかとない怖さが、ミステリアスなバーニングを一層ミステリアスにしていた。と思う。
チョンジョンソの個人的な買いは、花嫁はギャングスターのシンウンギョンにとても似ているところ。
少し前パクシネと共演でスリラーを撮ったとプレビューされていたんだが。観たい。
よく、わからない
村上春樹の原作を大幅にアレンジして、、、どの辺りが原作なのだろうか。
ヘミはジョンスが好きなのか、ベンが好きなのか、2人とも特別ではないのか、まず、ヘミがわからない。言動も理解し難い。ベンも結局何者なのか、本当に放火しているのかわからないし、家にある女性のアクセサリーは忘れ物なのか、戦利品(殺している?)なのかわからない。観る人が想像してくださいってことなんだろうか?
1番わからないのが、やっぱりヘミはどうなったの?て事だけど、旅行に行く時も部屋は散らかったままでも平気なんだから雲隠れするのに片付けていくことないだろう。私の想像はベンが殺して猫は連れ帰った。綺麗好きなベンがとっ散らかった部屋を見かねて片付けた。ハズレ?当たり?
この映画も韓国の貧富の差が描かれているんだ、て印象で、他はどう捉えたらいいのか、よくわからない😓
同じこころを抱える3人の物語
この映画は、存在の不確かさがテーマとなっている。
このため、曖昧な表現が多く、
普通のミステリー以上にミステリアスな作品になっている。
だから、本当は何が起こったのか分かりにくい。
分かりにくいまま楽しむのが、この映画の楽しみ方の王道なのだろうけれど、
あまりに分からないと楽しめないので、解釈してみたい。
結局のところ、
この映画はヘミの失踪ではなく、殺人の物語である。
古い汚れたビニールハウスは、中身が空っぽで、役に立たない。
ベンがそれを燃やす、というのは女性を殺すことのメタファーになっている。
ジョンスはその事実に気付き、最後にベンを殺し復讐をはたす。
なぜベンの殺人に気付いたのか。
ベンのマンションから逃げ出したネコが、ボイルと呼ぶと近寄ってきたこと。
ベンのマンションのトイレに、ヘミの腕時計がしまってあったこと。
そこにあった女性の品々は、ベンが殺した女性からの戦利品だ。
死んだ女性たちは、恐らく小さなダム湖の底なのだろうか。
それをにおわせる描写をしておきながら、ジョンスが悪い眠りから覚める場面につなげる。
事実とは何なのか。夢とうつつの境界はどこにあるのか。
存在も、事実も、曖昧な世界こそが現実なのだ、と監督のつぶやきが聞こえてくるようだ。
ジョンスは殺人の事実に気付く前は、何を信じればよいのか混乱していた。
ヘミの失踪。ヘミが井戸に落ちたという話と、井戸などなかったというヘミの家族や近所の人たちの証言のずれ。ベンは燃やしたというけれど、そうしたビニールハウスは見当たらないこと。
だから、ベンにどんな小説を書いているか、と聞かれた時
世の中が謎みたいで、何を書いたらいいか分からない、と答える。
でも、それからしばらく後、ヘミのアパートで小説を書き始める。
つまり、その時には、ジョンスは、ヘミが殺されたことを確信していた、ということだ。
この映画の分かりにくさは、メタファーの多用からも生まれている。
と同時に、それがこの映画の味わいを生み出している。
例えば、ヘミが井戸に落ちた話。
本当に落ちたのかもしれないし、そうではなく、狭く深い穴に落ちたような苦しい経験の象徴かもしれない。
重要なのは、ひとり泣いている自分を見つけ出してくれたのがジョンスであった、ということ。
北向きの窓しかないヘミのアパート。
1日に1回だけ、塔の窓ガラスに反射した光が部屋に差し込む。
それは、ヘミの人生のメタファーだ。ジョンスとの営みの、まさしくその最中に光が差し込んだ。
夕暮れ時の、ヘミの浮遊的な踊り。
この映画の核となる、存在の不確かさ、不安定さ。不安と孤独を象徴している。
ジョンス、ヘミ、ベン3人が並んで、沈みゆく夕日を見ながら酒を飲みグラス(大麻)を吸う。
同じ方向に向かってたたずむ姿は、
実はこの3人が同類の若者であることのメタファーになっている。
ジョンス、ヘミは、不幸な生い立ちをもち、現在も貧しい生活。
ベンは全く違うようで、実は、存在の不確かさ、不安定さ、不安と孤独を抱える若者である点において、同類といえる。
だから、ベンはジョンスに引かれ、ジョンスを自分の近くに呼び入れようとする。
ジョンスが好きなフォークナーの小説を読み始めたりするのも、シンパシーを感じているからだ。
そして、最期、ジョンスに殺される場面では、ジョンスを抱きしめる。
精神的な同性愛をにおわせる描写に、夏目漱石の「こころ」に通じるものを感じた。
「ミカンが“ない“ことを忘れたらいい」ヘミは象徴的にそう言うが、忘れた人にはなりきれない。
グレートハンガーとして、
人生に飢え、なぜ生きるのか、人生の意味は何なのか、を求めてさまよい続ける。
この映画は、3人のグレートハンガーの物語だ。
俺には向いてない
自分がバカでした。
コロナ禍で新作映画が滞っており、見逃していたこの映画が安い値段で再上映された。映画を見終わり、「ヘミは行方不明だし、ビニールハウスは燃えないし」と( ゚д゚)ポカーンの状態だったが、ビニールハウス放火が殺人のメタファーではと家内に指摘され、やっと理解。映画評を読むと、ベンを殺すのも主人公の妄想ではの意見あり。家内は殺される瞬間にベンが嬉しそうな顔をしたので、実は主人公に殺されたかったのではとのこと。
傑作…なのかな?
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