バーニング 劇場版のレビュー・感想・評価
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やんなっちゃうなぁ。
勿論、楽しい面白い作品ではない。この監督の傑作で、韓国、映画、やんなっちゃうなぁこういうの作っちゃうんだから。ストーリーもそこまで分かりにくくはないし。監督の自己満足、というほどでもない。
ベースが鳴るのが自己燃焼じゃない悲しさ。他人が燃えていくのを見て沸き立つなんて、ネットの書き込みなんかを連想させて現代は現代なりに空虚なんだなとまた悲しい。生活様式とか、財産だけでなく、所有に底無しの曖昧さしか持ちえないで、故に曖昧な嫉妬。
ベンも退屈であくびだし、ヘミは旅行行っても大した発見もなく、グレートハンガーどうのと、表面的な情報程度。ググれば一発です。本当は生きる意味に出会いたかったろうに。ジョンスもヘミが好きなんだけど、曖昧さから抜けられない。その内に消されちゃう。消えるまでベースが鳴らないなんて、人間ってホント悲しいけど、そんなものかも。
燃やしてくれっていう若い女性は日本にも多いよね。決定権をとるつもりもない。雨が降りすぎたら洪水、脱いじゃうし、写っちゃうし、写しちゃう。インスタ万歳だわ。wベンも燃やしてくれってあくびをするんだな。笑顔を見せるんだな。それで預けちゃうんだよ。どうするか。自分で構築しないんだな。自分でやってみようともしないんだ。
なんでしょう。解決策はない?現代病?そんなことは無い。モラトリアムをきちんと過ごす事を誰も教えてくれないからか、ジョンスの父と母はどう?みんな教わってないんだな。
ベンの犯罪は無関心に埋没していたのに、見つけてくれたのは、ジョンス。ヘミはどうなった?って聞く人もいないかったんだな。ある、ないと思うんじゃなくて、みかんを食べるだけ。探せば、答えが見つかるんだけどな。話のテンポ、展開と相関しないこの濃密さを映画にしてしまう素晴らしさ。
実体や実存を、有るものにする力は誰にでも与えられている。隠すよりも、ごまかすよりも、全部脱いで燃やしちゃった方が早いわな。確かに。生きる人を応援したいんだろうな。この監督は。日本としては、なんかやんなっちゃうけどね。ww
バーニング 劇場版
サスペンスなのにこれしか語らぬリアルな新味。
語りの不足を不穏で美しい画の強さが隙間無く埋める濃厚な逸品。市川崑の炎上の雷蔵仲代を想う。
やはり、イ・チャンドンは劇場で観ねばだった。
同年私的テン上位。
スティーブン・ユアンだけは村上作品に合っていた
個人評価:3.3
全体的な静かな雰囲気や、独特なリズムの旋律などは、村上春樹の世界観は出ていると感じる。
しかしながら、原作を独自の解釈で実写化との事だが、その独自さは村上作品とは相反するようなテイストであり、原作の暗さがより暗く、よくない方向にいっている。井戸という村上作品には欠かせないキーワードも使っているが、活かしきれておらず、宙ぶらりんだ。ただ、スティーブン・ユアンの静かな眼差しは、原作の空気感には合っている。
匂わせる妙
物語の派手な部分
アクションの核心部分の
一切を省く
そこから匂い立つものは
まさに
存在があることを意識するのでなく
存在がないことで意識されることで
現実に立ち現れる存在
ヘミの言葉に皮肉にもリンクする
そして
三者三様のグレートハンガーは
どこか空虚で
各々の行動が
果たして満たされうるものを求めているかどうかすら
解らない
つまり
すべてが不安で不穏で地に足がついていない
燃やし
消失した事実だけが
明確な事実
しかし
その事実を持ってしても
彼らの満たされぬ渇望を埋めるものではないようだ
懐刀のような
韓国と言えば、かねてから整形大国との定見だが、たしかに、やったひとは多いが、逆に素で端正な顔立ちのひとも多い。
韓国の映画やドラマを見ていると、それが分かる。
その裏付け──というか、漠然とした雑感に過ぎないが、韓国の映画/ドラマでは、子役がしっかりかわいい。選っている感がある。そこに事業としての裾野の拡がりを感じたりする。
子役がかわいいのは、素で整形を必要としていない──ことでもある。ドラマなどでチラッと映るだけの端役女優が、妙に綺麗だったりする。綺麗なひとが多いというのも、案外分かる。
女優には分化がある──と思う。
ひとえのナチュラル顔と、くっきりしたオルチャン顔で、たいてい後者だが、パクソダムやキムゴウンやハンイェリらも、大きな需要を担っている。
ひとえは民族と反整形の象徴であろうと思われる。パラサイトのパクソダムや、ユヨルの音楽アルバムのキムゴウンは魅力的だった。
かえりみると韓国女優に惹かれることがけっこうある。
思えば、ここ20年のあいだに見方が変わっている。
冬のソナタが猖獗をきわめていたころ、ヨン様人気で韓国ツアーをする女性らを、嘲弄的に見ていた。
国家間が混濁するのをよそに、いまやけっこうな若者が、韓国のアイドルやドラマの主人公たちに魂を持っていかれている。そしてその事態を、もはや嘲弄的に見ることなどできはしない。大人たちも韓国映画を認めざるをえないからだ。認めざるをえないどころか、パラサイトやスウィングキッズに、魂を持っていかれている。
かんがみれば、冬のソナタのころから、韓国は、国をあげてアイドルを養成し、映画学校を設え、配信事業を磨いてきたわけである。
おそらくあの当時にパルムドールという事業目標を掲げたのだ──と思う。
それとは対照的にわが国の映画のクオリティは・・・(以下割愛)
この前置きをしたのは、バーニングが2018年のパルムドールと目されていたからである。批評家で構成される仏機関誌がこぞって星を付けていた。くつがえしたのは審査委員長のケイトブランシェットである。万引き家族は対抗馬だったが、映画は素晴らしく、受賞に異存はない。ブランシェットの目にくるいはなかった。
が、おそらく韓国は煮湯を飲まされた、と思う。
映画には、モデルを兼業するユアインと、ハリウッドの成功者スティーヴンユアン。のほかにチョンジョンソという女優が出てくる。
とても印象に残っている。バニシングのサスキアのように、前半であらわれて、それから出てこなくなる。からでもある。
自棄的な感じもあり、淫奔な感じもある。切れ長で、ギラッとする。惹かれた。
冒頭。日本ではほとんど見たことがないが、店舗前でおへそをだしたキャンペーンガールが、くねくね踊って街宣をしている。その場末感の高いキャンペーンガールがチョンジョンソである。
主人公ジョンス(ユアイン)は鈍色の労働者。荷を諦観のように背負った疲弊した若者である。貧困と不充足の表現がうまい。
ヘミ(チョンジョンソ)はキャンペーンガールの仕事中、偶然会った同郷のジョンスに「整形したの。かわいいでしょ」と、あっけらかんと告白し、誘ってくる。二人で一服。紙コップを灰皿にしているので、そこに唾液をたらす。底辺な庶民感。原作を知らないので、どこまで再現なのかわからないが、冒頭からぐいぐい引かれた。
後からチョンジョンソが初出演だと知って驚きをおぼえた。どこにも出た経験がないらしい。が、堂々としている。カラーも出している。なにをしても牛刀を隠していそうなギラつきがある。
そして、切開し過ぎ(みたい)な超切れ長のひとえがギラりとする。怖い。彼女のそこはかとない怖さが、ミステリアスなバーニングを一層ミステリアスにしていた。と思う。
チョンジョンソの個人的な買いは、花嫁はギャングスターのシンウンギョンにとても似ているところ。
少し前パクシネと共演でスリラーを撮ったとプレビューされていたんだが。観たい。
よく、わからない
村上春樹の原作を大幅にアレンジして、、、どの辺りが原作なのだろうか。
ヘミはジョンスが好きなのか、ベンが好きなのか、2人とも特別ではないのか、まず、ヘミがわからない。言動も理解し難い。ベンも結局何者なのか、本当に放火しているのかわからないし、家にある女性のアクセサリーは忘れ物なのか、戦利品(殺している?)なのかわからない。観る人が想像してくださいってことなんだろうか?
1番わからないのが、やっぱりヘミはどうなったの?て事だけど、旅行に行く時も部屋は散らかったままでも平気なんだから雲隠れするのに片付けていくことないだろう。私の想像はベンが殺して猫は連れ帰った。綺麗好きなベンがとっ散らかった部屋を見かねて片付けた。ハズレ?当たり?
この映画も韓国の貧富の差が描かれているんだ、て印象で、他はどう捉えたらいいのか、よくわからない😓
同じこころを抱える3人の物語
この映画は、存在の不確かさがテーマとなっている。
このため、曖昧な表現が多く、
普通のミステリー以上にミステリアスな作品になっている。
だから、本当は何が起こったのか分かりにくい。
分かりにくいまま楽しむのが、この映画の楽しみ方の王道なのだろうけれど、
あまりに分からないと楽しめないので、解釈してみたい。
結局のところ、
この映画はヘミの失踪ではなく、殺人の物語である。
古い汚れたビニールハウスは、中身が空っぽで、役に立たない。
ベンがそれを燃やす、というのは女性を殺すことのメタファーになっている。
ジョンスはその事実に気付き、最後にベンを殺し復讐をはたす。
なぜベンの殺人に気付いたのか。
ベンのマンションから逃げ出したネコが、ボイルと呼ぶと近寄ってきたこと。
ベンのマンションのトイレに、ヘミの腕時計がしまってあったこと。
そこにあった女性の品々は、ベンが殺した女性からの戦利品だ。
死んだ女性たちは、恐らく小さなダム湖の底なのだろうか。
それをにおわせる描写をしておきながら、ジョンスが悪い眠りから覚める場面につなげる。
事実とは何なのか。夢とうつつの境界はどこにあるのか。
存在も、事実も、曖昧な世界こそが現実なのだ、と監督のつぶやきが聞こえてくるようだ。
ジョンスは殺人の事実に気付く前は、何を信じればよいのか混乱していた。
ヘミの失踪。ヘミが井戸に落ちたという話と、井戸などなかったというヘミの家族や近所の人たちの証言のずれ。ベンは燃やしたというけれど、そうしたビニールハウスは見当たらないこと。
だから、ベンにどんな小説を書いているか、と聞かれた時
世の中が謎みたいで、何を書いたらいいか分からない、と答える。
でも、それからしばらく後、ヘミのアパートで小説を書き始める。
つまり、その時には、ジョンスは、ヘミが殺されたことを確信していた、ということだ。
この映画の分かりにくさは、メタファーの多用からも生まれている。
と同時に、それがこの映画の味わいを生み出している。
例えば、ヘミが井戸に落ちた話。
本当に落ちたのかもしれないし、そうではなく、狭く深い穴に落ちたような苦しい経験の象徴かもしれない。
重要なのは、ひとり泣いている自分を見つけ出してくれたのがジョンスであった、ということ。
北向きの窓しかないヘミのアパート。
1日に1回だけ、塔の窓ガラスに反射した光が部屋に差し込む。
それは、ヘミの人生のメタファーだ。ジョンスとの営みの、まさしくその最中に光が差し込んだ。
夕暮れ時の、ヘミの浮遊的な踊り。
この映画の核となる、存在の不確かさ、不安定さ。不安と孤独を象徴している。
ジョンス、ヘミ、ベン3人が並んで、沈みゆく夕日を見ながら酒を飲みグラス(大麻)を吸う。
同じ方向に向かってたたずむ姿は、
実はこの3人が同類の若者であることのメタファーになっている。
ジョンス、ヘミは、不幸な生い立ちをもち、現在も貧しい生活。
ベンは全く違うようで、実は、存在の不確かさ、不安定さ、不安と孤独を抱える若者である点において、同類といえる。
だから、ベンはジョンスに引かれ、ジョンスを自分の近くに呼び入れようとする。
ジョンスが好きなフォークナーの小説を読み始めたりするのも、シンパシーを感じているからだ。
そして、最期、ジョンスに殺される場面では、ジョンスを抱きしめる。
精神的な同性愛をにおわせる描写に、夏目漱石の「こころ」に通じるものを感じた。
「ミカンが“ない“ことを忘れたらいい」ヘミは象徴的にそう言うが、忘れた人にはなりきれない。
グレートハンガーとして、
人生に飢え、なぜ生きるのか、人生の意味は何なのか、を求めてさまよい続ける。
この映画は、3人のグレートハンガーの物語だ。
俺には向いてない
「よこがお」と続けて見ましたがこの手のタイプの映画向いてない事がよくわかりました。考察をみて謎だった部分が解明されて
おー!なるほど!言われてみれば!
となりましたがだから何?それが解ったからこの映画が面白い!とはなりませんでした。
もうこの手の映画に手を出すのはやめようと思います。ただ話の展開になるほど!と感心はしたので三点
自分がバカでした。
コロナ禍で新作映画が滞っており、見逃していたこの映画が安い値段で再上映された。映画を見終わり、「ヘミは行方不明だし、ビニールハウスは燃えないし」と( ゚д゚)ポカーンの状態だったが、ビニールハウス放火が殺人のメタファーではと家内に指摘され、やっと理解。映画評を読むと、ベンを殺すのも主人公の妄想ではの意見あり。家内は殺される瞬間にベンが嬉しそうな顔をしたので、実は主人公に殺されたかったのではとのこと。
傑作…なのかな?
1度見ただけでは上手く消化しきれない。
複雑な感情が渦巻いています。
結局、序盤で話をしていたパントマイムの話なんだとは思うけど、それが現代社会の姿と合わさって、社会風刺の効いた作品に仕上がっている。
という、設定やら構成の面白さは分かる。深い意味の暗示なんかも見える。
でも、なぁ〜んか間延び感があって退屈だった。
良いシーンもいっぱいあって(中盤のビッグハンガーのシーンとか)、全体的には楽しめたのだけど…
私にはちょっとレベルが高い作品だったようです。
ビニールから納屋に宛てて
評判は聞いていたが見逃していた作品。鑑賞後も凄く引きずられた作品でした。
まあ、久々のイ・チャンドン監督作品でしたが、元々私のお気に入りの監督であり、恐らく個人的にはポン・ジュノ監督よりも自分との相性が良く好きな監督なので劇場で見逃したことを少し後悔しました。
鑑賞後今までの作品よりもテーマが分かり難い作品だったので、たまたま家にあった村上春樹原作「納屋を焼く」を直ぐに読んでなんとなくテーマは理解する事が出来ました。とは言っても原作とはストーリー以外のテイストはかなり違い、その違いから本作のテーマが浮き出た感じで映画は完全に今を描いたイ・チャンドンの思いの詰まった作品になっていました。
まず原作が書かれたのは1983年の日本はバブルの時代であり、登場人物3人の年齢や設定も大きく違い、ミステリーでもサスペンスでもありませんでした。映画は現在の韓国が描かれ、根底に格差社会の問題が見え隠れして、原作にも映画にもあるセリフ「まるでギャツビィだね」という意味さえ、その違いだけで全く変わってきます。
当時の日本は一億総中流社会と呼ばれ、自分を貧困層だと感じる意識もなく、このセリフの持つ意味が羨望でも卑下でも軽蔑でもなく、金の有る無し関係なく一つの生き方としての有様であり、原作版は登場人物(僕と彼女と彼)3人がそれぞれに違う生き方を認めた上での言い回しになっていたが、映画版にはそれは全く感じらずラストを完全に変えてしまっていた。その違いこそがこの映画のメッセージなんだろうと思いましたね。
しかし、原作でも映画でも彼女とヘミだけは共通して“女性”であり、時代の変化に影響なく“女性”であり続けていたような気がする。ヘミのマジックアワーでのダンスのシーンの美しさは映画特有の表現だったけど、イ・チャンドン監督の“女性”性のイメージを見事に表していたように感じられた。結末の変更もイ・チャンドン監督の“男性”性のイメージを表していたと思います。この違いから、私は村上春樹よりイ・チャンドンに近い人間であり、この人の作品に惹きつけらる理由も少し解明出来ました。
人間やこの世界のわからなさ
見終わって呆然とした。
何が起こったのかわからず、ただ呆然とするしかなかった。
とにかく凄まじいものを見たということはわかるが、
それが一体何だったのか上手くつかめない。
ひょっとしたら、主人公もこの世界に対してそんな感覚を味わっていたのかもしれない。
人は特定の理由で不安になるのではなく、
混沌としたものの積み重なりや、わからなさから来る寄る辺なさによって追い詰められるのかもしれない。
世界はあまりに複雑すぎるので、適当なところで手を打って、まぁこんなもんだろうと安心しておけば狂わなくて済むのだが、よりにもよって、ひょっとしたらこの世界は自分が思っているよりおそろしくて無慈悲な場所なのかもしれない、という深遠を覗き見たような、
そんな映画だった。
だからこの映画はおそろしいし、
怖いぐらいに美しかった。
虚実
現代の韓国社会を背景に未来への焦燥感と今への絶望感の狭間で生きる若者像を描く。
主人公が目覚めるシーンが多く、何が虚で何が実なのかわからぬ。底がない構成で、若者の心の闇に引き込まれる。父親の存在が錨のように重たかったのか。対比的に実家的な錨から放たれて、ただ社会を漂流するような淋しさを帯びるヒロイン。いずれの演技・演出とも素晴らしい。
3人の配役が絶妙。 ベンの胡散臭さは異常。笑 映像が本当に美しくて...
3人の配役が絶妙。
ベンの胡散臭さは異常。笑
映像が本当に美しくて引き込まれた。
まさかあんな結末になると思ってなくて、わけわからなかったけど、いろんな考察を見てもう一回か鑑賞した。
個人的にはヘミが消えたのはベンは無関係じゃないかなーと思う。
唯一の理解者だと思ってたジョンスに娼婦呼ばわれされ、その数日後にベンに捨てられ、自ら消えたのではないかなーと。
ラストの長回しはあっぱれでした。
ただ、どうしても意味不明なシーンが多いんだよねー。
最後、ヘミの部屋でなにか書いてたり、
ベンが女に化粧してたり、、、
なにか意味があるのだろうか。
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