「同じこころを抱える3人の物語」バーニング 劇場版 マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)
同じこころを抱える3人の物語
この映画は、存在の不確かさがテーマとなっている。
このため、曖昧な表現が多く、
普通のミステリー以上にミステリアスな作品になっている。
だから、本当は何が起こったのか分かりにくい。
分かりにくいまま楽しむのが、この映画の楽しみ方の王道なのだろうけれど、
あまりに分からないと楽しめないので、解釈してみたい。
結局のところ、
この映画はヘミの失踪ではなく、殺人の物語である。
古い汚れたビニールハウスは、中身が空っぽで、役に立たない。
ベンがそれを燃やす、というのは女性を殺すことのメタファーになっている。
ジョンスはその事実に気付き、最後にベンを殺し復讐をはたす。
なぜベンの殺人に気付いたのか。
ベンのマンションから逃げ出したネコが、ボイルと呼ぶと近寄ってきたこと。
ベンのマンションのトイレに、ヘミの腕時計がしまってあったこと。
そこにあった女性の品々は、ベンが殺した女性からの戦利品だ。
死んだ女性たちは、恐らく小さなダム湖の底なのだろうか。
それをにおわせる描写をしておきながら、ジョンスが悪い眠りから覚める場面につなげる。
事実とは何なのか。夢とうつつの境界はどこにあるのか。
存在も、事実も、曖昧な世界こそが現実なのだ、と監督のつぶやきが聞こえてくるようだ。
ジョンスは殺人の事実に気付く前は、何を信じればよいのか混乱していた。
ヘミの失踪。ヘミが井戸に落ちたという話と、井戸などなかったというヘミの家族や近所の人たちの証言のずれ。ベンは燃やしたというけれど、そうしたビニールハウスは見当たらないこと。
だから、ベンにどんな小説を書いているか、と聞かれた時
世の中が謎みたいで、何を書いたらいいか分からない、と答える。
でも、それからしばらく後、ヘミのアパートで小説を書き始める。
つまり、その時には、ジョンスは、ヘミが殺されたことを確信していた、ということだ。
この映画の分かりにくさは、メタファーの多用からも生まれている。
と同時に、それがこの映画の味わいを生み出している。
例えば、ヘミが井戸に落ちた話。
本当に落ちたのかもしれないし、そうではなく、狭く深い穴に落ちたような苦しい経験の象徴かもしれない。
重要なのは、ひとり泣いている自分を見つけ出してくれたのがジョンスであった、ということ。
北向きの窓しかないヘミのアパート。
1日に1回だけ、塔の窓ガラスに反射した光が部屋に差し込む。
それは、ヘミの人生のメタファーだ。ジョンスとの営みの、まさしくその最中に光が差し込んだ。
夕暮れ時の、ヘミの浮遊的な踊り。
この映画の核となる、存在の不確かさ、不安定さ。不安と孤独を象徴している。
ジョンス、ヘミ、ベン3人が並んで、沈みゆく夕日を見ながら酒を飲みグラス(大麻)を吸う。
同じ方向に向かってたたずむ姿は、
実はこの3人が同類の若者であることのメタファーになっている。
ジョンス、ヘミは、不幸な生い立ちをもち、現在も貧しい生活。
ベンは全く違うようで、実は、存在の不確かさ、不安定さ、不安と孤独を抱える若者である点において、同類といえる。
だから、ベンはジョンスに引かれ、ジョンスを自分の近くに呼び入れようとする。
ジョンスが好きなフォークナーの小説を読み始めたりするのも、シンパシーを感じているからだ。
そして、最期、ジョンスに殺される場面では、ジョンスを抱きしめる。
精神的な同性愛をにおわせる描写に、夏目漱石の「こころ」に通じるものを感じた。
「ミカンが“ない“ことを忘れたらいい」ヘミは象徴的にそう言うが、忘れた人にはなりきれない。
グレートハンガーとして、
人生に飢え、なぜ生きるのか、人生の意味は何なのか、を求めてさまよい続ける。
この映画は、3人のグレートハンガーの物語だ。