「可能性を感じる興業の形」バーニング 劇場版 いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
可能性を感じる興業の形
先行してテレビ版を放映し、その後劇場上映するというモデルは過去にも例はあるとは思う。しかし、今回のようにそのテーマ性やプロット、それを物語るラストの違い(物語の途中でエンディング、劇場版はその続きがある)の印象で訴えたいものがこうも違うのかという作品であり、かなり強く影響を受けてしまった。作品中に出典されているキーワードをwikiで色々調べてみてもそれぞれが関連性を持っている事は当然とはいえ驚く。『グレート・ギャツビー』における信頼できない語り手→その代表作が『響きと怒り』、そして作家はウィリアム・フォークナーであり、そして短編集に収められている『納屋を焼く』、そして同名作品を書いた村上春樹は、F・スコット・フィッツジェラルドが好きだということ。それは監督を含めた制作陣の細かいストーリー設定を背景も含めて拵えている事を意味し、その真摯な制作に敬意を表する限りである。
家族や社会、貧富や都市地方、そして恋愛といった普遍的なテーマをサスペンス&ミステリーとして落とし込んだ解釈も大変興味深い。大事なキーワードである『みえないモノを忘れる』というフックも又展開に深く彩りを及ぼしていて不気味さを一層際立たせている。
そして本作はその対比やメタファーをかなり丁寧且つ親切に描いている点も注目したい。そして、テレビ版では目立たないようにしている伏線(物置小屋の金庫内に保管してある父親のナイフ等)を映画版でははっきりと示すように映し出しているところからも、編集の妙を存分に発揮している組立なのである。
テレビ版では謎の儘で終わる失踪も、映画版では壮絶な結末を迎える。その印象は、ミスリードというより、二通りの作品なのではないかという結論を得る。失踪した彼女の部屋で一心不乱にキーボードを打ち込む内容は、小説なのかそれとも殺害の計画書なのか、それとも遺書なのか・・・ そんな豊かな想像を抱かせてくれる大変良質な作品であった。数々の状況証拠を観客に披露したとて、それは直ぐに覆される乏しいカット。正に“信頼できない語り手”としての監督が、主人公に与えたのは心の鬱屈からの爆発。それは悲しく、寂しく、そしてそれでも抗えない“血”なのだろうか・・・
テレビ版にはないカットのお陰で想像を担保させてくれる喜びも発見であり魅力でもある。
PS.監督の記者会見での発言を書き足しておく
「最近の映画は段々シンプルになっていくような感じがあって“観やすい映画”、“決まったストーリーを追っていく”ことに観客が慣れてきている気がしますしまた観客がそれを望んでいるように思うんです。そんな流れに逆行したいという思いがありました。観客の皆さんには映画を通して生きること、世界とは何か、人生とは何かを自分なりに省察して欲しいのです。皆さんには映画を通して“新しい経験をして欲しい、新しいことを感じて欲しい、新しい問いかけをして欲しい、そして世界のミステリーを感じて欲しい”と思います。しかしそれは難しい作業ですし慣れないことなので、皆さんがどんな風に受け止めてくれるか気になってます。日本の皆さんにも“新しい経験”を是非楽しんで欲しいと期待しています」
このサイトのレビューでも、視るに堪えない罵詈雑言を平気で書き連ねる輩が散見する。本当に作品を観たのか疑わしい内容もあるし、それは論外だとしても、まるでケチをつけるために決して安くはない鑑賞料をはたく、非常識な人間もいるが、そんな輩にこそ、今発言を読んで欲しいと願うばかりだ。「一体、お前は何を観ているんだ?」と・・・