「狂おしいまでの情念が燃え上がる」バーニング 劇場版 カミツレさんの映画レビュー(感想・評価)
狂おしいまでの情念が燃え上がる
1「燻る」:“持たざる者”としての主人公ジョンス
映画のポスターには「究極のミステリー」という惹句がありますが、村上春樹の短編小説が原作である本作に、ミステリーやサスペンスのように明確な真相や答えを期待すると、肩透かしを食うことになると思います。また、映画化にあたって原作の『納屋を焼く』をかなり大胆に再解釈しており、大幅なアレンジが加えられているため、元の原作小説の雰囲気を期待して観に行くといささか面食らうことになるかもしれません。しかし、楽しみ方さえ間違えなければ、本作は非常に複雑で多面的な解釈のできる傑作であると断言できますし、村上春樹の小説の映画化としても、(これが全てだとは言いませんが)理想的と言っていい形になっていると思います。
原作小説との一番の違いは、主人公の設定にあると思います。原作の主人公「僕」は、三十一歳で一応結婚もしていて、職業は小説家のようですが、あまり忙しくない様子で、作中に「毎日が休みみたいなものだし」という台詞も出てきます。「彼女」(映画では「ヘミ」)とは月に一、二回食事に行ったり、バーに行って酒を飲んだりする仲で、主人公は完全に遊びで「彼女」と付き合っています。つまり、原作では主人公も、「彼」(映画では「ベン」)ほどではないにしても、かなりの“高等遊民”として描かれているのです。
ところが、映画『バーニング』の主人公「ジョンス」は、これとは全く異なり、典型的な“持たざる者”として描かれています。ジョンスは小説家“志望”であり、実家の牛の世話をしているだけの実質無職で貧乏な若者です。映画では、彼とギャツビー(謎多き裕福な若者)であるベンをあらゆる面で容赦なく対比させて描いていきます。車、服装、家、料理、友人……そして、その極めつけがヘミの存在です。
ヘミとの性行為の場面でのぎこちない様子を見るに、おそらくあれがジョンスにとって唯一の経験だったのではないでしょうか。原作の主人公は「彼女」にあまり執着していない様子でしたが、ジョンスはヘミに狂おしいほどの恋心を抱き、彼女の部屋で自慰行為をくり返します。ジョンスにとってヘミは、唯一の友人であり、初めてできた恋人(?)であり、そして自分を“どん詰まり”の現状から連れ出してくれるかもしれない希望の象徴だったのだと思います。しかし、突然現れたベンがそんな彼女を事もなげに奪い去ってしまうのです。
原作小説にはなかった、主人公のベンに対するコンプレックスと、ヘミに対する狂おしいまでの恋心と執着は、映画オリジナルとなる終盤の展開にとって重要な伏線となっています。
2「熾る」:消えてしまったヘミと、燃えないビニールハウス
映画の中盤、ベンとヘミがジョンスの家を訪れることになり、そこでベンが「時々、古いビニールハウスを焼いている」ことをジョンスに話します。そして、その日以降ヘミが消息を絶ち、ジョンスの前から消えてしまう──ここまでは原作小説とほぼ同じ展開です。そして、ジョンスが近くのビニールハウスが燃えていないか毎日確認してまわるようになるのも原作通りなのですが、原作の主人公が毎朝の日課であるジョギングのついでに、あくまで興味本位で近くの納屋を見てまわっているのに比べると、ジョンスは何かに縋るように死にもの狂いで、燃え落ちたビニールハウスを探し求めているように見えます。
また、それと並行してジョンスはあらゆる手がかりをたどって、ヘミの行方を追います。ヘミのアパート、キャンペーンガールのアルバイト先、パントマイム教室、ヘミの実家があった土地……そして、彼女の恋人であったベン。ジョンスがベンのビニールハウスの話にこだわるのも、それがヘミにつながる重要な手がかりになるかもしれないと考えたからだと思います。
ヘミは原作の「彼女」と比べるといくつかのディテールが付け加えられているのですが、そのどれもが曖昧で定かでない情報のため、かえって実在感が薄くなっているように感じます。アパートで飼っているという猫の「ボイル」は一度もジョンスの前に姿を現しませんし、ヘミが言う「中学生の時にジョンスに“ブス”と言われた」話や「子どもの頃に井戸に落ちてしまい、ジョンスに助けられた」話もジョンスの記憶にはなく、事実なのかどうか分かりません。考えれば考えるほど、彼女が本当に存在していたのかどうかさえ分からなくなってきます。
自分にとって大切な人が突然目の前からいなくなってしまい、手がかりをたどるほどに、その実体にたどり着くどころか、その人のことがどんどん分からなくなっていき、果ては本当に存在していたのかどうかさえ分からなくなる……。
原作にも「そこに蜜柑がないことを忘れればいい」という「蜜柑むき」のパントマイムの話や、「同時存在」の話など“存在”をめぐる議論がテーマとして出てきましたが、映画ではそれを哲学的で高尚な問いかけとしてではなく、今を生きる私たちにとって非常に卑近で切実な問題として描いているように思います。身近だった人と連絡が取れなくなり、だんだんその人のことがよく分からなくなったり、本当にいたのかどうかも信じられなくなったり……という経験は、大なり小なり誰にでも思い当たるふしがあるのではないでしょうか。
ベンの車を追いかけ、半ば強引にカフェで彼と再会したジョンスは、彼から「ビニールハウスは、もうすでに焼いた」という話や「ヘミはけむりのように消えてしまった」といった話を聞かされます。
焼け落ちていても誰も気が付かない古いビニールハウスと、頼れる友人が誰もいなかったヘミ……。ジョンスの携帯電話にヘミからの不審な着信があったタイミングも、ベンが「ジョンスの家を訪れた一日か二日後にビニールハウスを焼いた」という話と符合します。
おそらく「ビニールハウスを焼く」というのは言葉通りの意味ではなく、何かのメタファなのでしょう。そして、ここでの「ビニールハウス」とは「ヘミ」のことを指すのでしょう。少なくともこの時ジョンスはそう確信したはずです。なぜなら、これ以降ジョンスはビニールハウスが燃えていないか見てまわることを一切やめて、ベンを徹底的につけまわすようになるからです。
「焼く」というのが何を指しているかははっきりしなくとも、ベンがヘミの失踪に何らかの形で関わっていることは間違いない──彼はそう考えたのでしょう。彼女につながる唯一の手がかりとしてベンを執拗につけまわすジョンスからは、鬼気迫るような情念が伝わってきます。
3「燃え上がる」:疑惑が確信に変わる時
ベンをいくらつけまわしても、ヘミにつながるような手がかりを何もつかめず、完全に煮詰まっていたジョンスの元に突然電話がかかってきます。これまでもたびたびかかってきた無言電話かと思いきや、なんとそれは16年間消息を絶っていた母親からの電話でした。母親と再会した折に、ジョンスはヘミが落ちたという井戸のことを訊ねます。すると彼女は「水のない井戸があった」と言います。近所の人やヘミの家族に聞いても「そんなものはなかった」と言われた井戸が、あったと言うのです。
ひょっとしたら井戸は本当にあったのかもしれない。ヘミが言っていたことは本当なのかもしれない。暗い井戸の底からヘミを助け出したのは自分だったのかもしれない。ギリギリまで追い詰められていたところに、やっとヘミの存在を証明するような話を聞くことができたジョンスは、そう考えた(信じたかった)のではないでしょうか。
冷静に考えれば、井戸があったからと言って、それがヘミの存在を証明することにはならないですし、ヘミが言っていたことは、ベンが「ビニールハウスを焼く」と言うのと同様に、何かのメタファであり、それが事実であるかどうかは本当はどうでもいいことだったのかもしれません。ヘミはジョンスに「暗い闇の底にひとりでいた自分を救い出してくれたのは、あなただった」と伝えたかっただけなのかもしれません。
とまれ、ヘミの存在をギリギリのところでもう一度信じたいと願ったジョンスは、ベンの家で“決定的な2つの証拠”を目にします。それが猫と腕時計です。
ベンは「捨て猫を拾った」と言っていて、猫にはまだ名前はないそうですが、部屋から飛び出して行き、駐車場でジョンスの前に現れたその猫は、ジョンスが「ボイル」と呼びかける声に反応して彼の元に寄ってきます。また、ジョンスは以前ベンの家を訪れた時に、トイレの引き出しに複数の女性もののアクセサリーが入っているのを見つけますが、今回はそこにピンクの腕時計が加わっていることに気が付きます。
ジョンスは、これらの2つの証拠から「ベンがヘミを手にかけたのだ」と確信したのでしょう。ベンが拾ったと言っているこの猫は、(自分は一度も見たことがないが)ヘミが飼っていたというボイルで、だから自分が名前を呼んだのに反応して寄ってきたのだ。引き出しに入っていたのは、自分がヘミにあげたはずの腕時計に違いない。彼女が飼っていた猫がここにいて、腕時計がここにあるということは、ベンはヘミを……!
しかし、ここでも冷静に考えれば、ベンがヘミを手にかけたという確かな証拠は何一つありません。「ボイル」と呼びかけたのに反応したからと言って、その猫がボイルである確証はありませんし、ピンクの腕時計は元々くじ引きの景品にもなっていたぐらいありふれたデザインの品です。ヘミのアルバイト先の女の子も、ジョンスがヘミの行方について訊ねた時に、似たようなピンクの腕時計をしていました。ひょっとしたら、それはヘミが彼女にあげた物かもしれません。引き出しにあった腕時計がヘミの物であるという確証もまたないのです。
そして当然ですが、たとえ猫と腕時計がヘミのものであったとしても、それが“ベンがヘミを殺した証拠”になるわけではありません。ベンがヘミの失踪に関与していた疑いは濃くなりますが、まだいくつかの他の可能性が考えられます。例えば、ヘミが誰にも気付かれない方法で自殺をするのに手を貸したとか、身元を隠してどこかに逃亡するのを手伝ったとか……。
しかし、ジョンスにとってそれはどうでもいいことだったのかもしれません。自分にとっての希望の象徴であったヘミを事もなげに奪い去り、あまつさえ自分には全く理解できないような理由で彼女の存在を “消して”しまったのであれば、それはいずれにせよ殺してしまいたいぐらいに憎く、許せないことだったのでしょう。ここにきて父親のエピソードが、ジョンスの中にある確かな怒りを象徴していることに思い当たり、鳥肌が立ちました。
“衝撃のラスト”には素直に驚きました。まさか村上春樹の小説を原作とした映画が、これほどまで情念に満ち満ちた結末を迎えるとは予想だにしていませんでした。どうしようもなく救いのない結末ではありますし、結局のところ、ヘミのこともベンのこともはっきりと分かることはほとんどありません。しかし、一つだけ確かなのはジョンスの狂おしいまでの情念です。ヘミの存在を信じられるか否かの狭間で揺さぶられ続け、最終的にはベンに対して明確な殺意を抱くまでに至った、ジョンスの苦悩と怒りは痛いほど伝わってきます。ラストカット──まさにジョンスの情念が燃え上がる光景には、不思議なカタルシスさえ感じました。
な、る、ほ、ど
今さら、カミツレさんのレビューを見つけて読んで、ただ一言。
そして、やっぱり俺にはわからないわけだ、と変な納得。
カミツレさん、数年前、琥珀さんとの「メッセージ」に対する深い洞察で、俺に大いなる影響を与えてくらたのを忘れもしません。
ここでカミツレさんと会話しているみなさんを含めて、す、ご、い
【注意:コメント内にネタバレ含みます】
カミツレさん、
お忙しい中でのコメント返信、感謝感謝です!
ヘミの部屋でタイプするシーンは自分も首をかしげたんですが、実はこの物語そのものがジョンスの空想もしくは現実と空想のミックスという解釈は、かなりしっくり来ますね。
同時に、ますます霞がかってしまった気分。カミツレさんの書かれた湖を臨む丘のシーンや、井戸の存在を肯定する母親、そして時計も猫も、いよいよ曖昧なものに思えてしまいます。
その解釈だと、ジョンスの暗い感情もより際立つ気がします。脇目もふらずヘミを探しているように見えた彼が、実は都合良く物語を書き換えていたのだとしたら……それは物語の真相が彼の望まない結果に成り得ることを、彼も認識していたことになります。
彼にとっては、動機も私怨もあるベンがヘスを"消した"犯人であることが、最も望ましい真相のはず。それならヘミ失踪は自分のせいでは無い。良心の呵責に苦しむ事も無い。
ラストが現実か空想かは僕ももはや確信できないのですが、普通ならヘミの行方をベンへ尋ねるべきあの場面で、ジョンスはいきなり彼を刺し殺してしまいますよね。
ジョンスはもう、ヘミやヘミを“消した”犯人を探すこと以上に、「ヘミを“消した”のは自分ではない」と証明することに執着していたのかも。だとすると、なんとも身勝手で、滑稽で、悲しい。
せめてあれが現実ではなく、ジョンスが心を整理するための文章内表現だったと思いたいです。
非常にワクワクする解釈でした!
さて、『JOKER』100票は僕も
Σ(;゜д゜)ホァッ!?な感じで。
書き始めた頃は1,2票でメチャクチャ舞い上がってたもんですが、それが100票……ありがたい……。けどまあ、自分の正直な感想を他人様にキチンと伝わるよう書くのが第一なので、初心忘れず奢らず頑張ります。
それに最近! 映画情報収集/発信用にTwitter始めたら! そっちにウツツ抜かしてレビュー怠けまくってますからね! ダメダメレビュアーですよあたしゃ! すみません! 書きます!
随分と寒い時節になってきました。
カミツレさんも相当にお忙しいようですが、体と心の調子にはくれぐれもお気を付けて。ハチミツ生姜湯飲みまくってください。だいたい何でも効きますからハチミツ生姜湯。
字数ギリギリ!
頑張り過ぎずに頑張ってくださいね。では!!
【※このコメントには終盤のネタバレが含まれています。未見の方はご注意ください。】
さて、きびなごさんの『ジョーカー』のレビューの方にも書かせていただいた、「虚構と現実の問題」に関して思いついたことを述べたいと思います。
物語中盤以降、ジョンスが失踪したヘミの行方を追う中で、現実なのか虚構なのか判然としない場面がいくつか出てきます。例えば、ジョンスがベンの車を追って山道に入っていき、最後にダムの見える丘にたどり着くシークエンスは、不自然な点も多く、これはジョンスの夢か妄想ではないかと私は解釈しています。
また、ジョンスは小説家志望であることを何度か口にしていますが、作中で彼が小説を執筆している場面は全くといっていいほど出てきません──ある一場面を除いては。
ラストシーンにつながる、ベンが自宅で女性に化粧をしている場面の直前、ジョンスはアパートのヘミの部屋でパソコンに向かって何やら文章を打っているように見えます。パソコンの画面は見えませんが、これは小説を書いているのではないでしょうか。
『ジョーカー』のアーサーが「ジョークを思いついた」と言って、どこまでが現実でどこからがジョーク(=虚構)なのかがはっきりとしないように、本作もどこまでが現実でどこからがジョンスの妄想なのかがはっきりとしない造りになっています。
だから、「ラストシーンはジョンスの小説(=妄想)の内容」という解釈も成り立つのではないでしょうか。
ただし、この場合、ジョンスは自身の妄想を小説という形に昇華できたのですから、彼にとってラストシーンの出来事は単なる妄想ではなく、“心的現実”と言えると思います。そう考えると、どうしようもなく救いがないと感じられた結末も、少し違った見方ができるのではないでしょうか。
浮遊きびなごさん、コメントいただきありがとうございます。
そして、返信が大変遅くなってしまい、本当にごめんなさい!(>_<)
この『バーニング』のレビューは、これまで書いたレビューの中でも一番の難産でした。
公開初日とその翌日に二回観たものの、書く内容がまとまらず、「ああでもないこうでもない」と書いたり消したりしながらもがいているうちに、投稿まで二週間もかかってしまったことを憶えています。
一番苦しい執筆作業だったこともあってか、映画そのものもレビューも非常に思い入れのある一本になりました。
「歯ぎしりしたくなるほど綺麗」だなんて最大限の賛辞までいただき、本当にうれしい限りです!
まぁ、私もきびなごさんのレビューの巧さと美しさには歯ぎしりが止まりませんが(笑)
【注意:コメント内にネタバレ含みます】
カミツレさん、浮遊きびなごです。
やっと『バーニング』鑑賞しました。カミツレさんが書かれた通り、複雑ですが様々な見方ができる作品で非常に面白かったです!
レビューに一言一句共感……という以上に、この怪奇な物語を論理的且つエモーショナルに綴った上で原作比較までしっかり織り込む筆力に唸ります。燻る/熾る/燃え上がるの三段構成も歯ぎしりしたくなるほど綺麗です。
僕もやはりベンがヘミの失踪に直接関係があるとは思えなかったのですが(最後の発言など特に)、それでもジョンスが彼に疑念と殺意を抱くのは当然と思いました。『古く汚く目障り』だと勝手に存在価値を判断し、それを燃やすことを自然の摂理のように語るベンの高慢さには唖然。母の服を燃やされた記憶と焼かれたビニールハウスがダブる夢は、自分の大切なもの(ヘミ)を“無価値だ”と焼かれる恐怖と怒りからだったんでしょうか。
ヘミも哀れで。
ジョンスとの昔話が事実かは分からないけれど、見えない蜜柑のようにそれらを事実だと自分の中に落とし込み、ジョンスを通して自分が世界に存在する価値を確かめたかったのかも。だけど、自分を暗い井戸から掬い出してくれるはずの人からの酷い言葉に傷付いて、いよいよ“最初からいなかったように”消えることを選んだのかも。寂しい話、何かを都合良く信じることも、自分の存在を保つ上で時には必要なことなのかもしれませんね。
脳ミソかき回される上質なミステリドラマだったと思います。良い映画を紹介してくださって感謝です。
毎度長々とすみません……。コメント返すのも大変と思いますので、返信お気になさらず! それでは!
kossykossyさん、コメントいただきありがとうございます。
私たち観客は基本的にジョンスの視点で物語を追っているので、知らず知らずのうちにジョンスの主観に引っ張られているんですよね。
だから、ベンの家で猫を見た時点で「この猫ってボイルなんじゃないの?」とどうしても考えてしまいますし、半ばその可能性を信じてしまっています。
でも冷静に客観的に見ると、そうでない可能性も十分に考えられるんですよね。腕時計も同様の仕掛けになっていると思います。
こちらにもお邪魔します。
「ボイル」とベンの猫に呼び掛けるシーンは気になってました。
ヘミの家では全然反応しなかったのだから、反応するというのは違う猫だと言ってるような気もするし…
やはり深いですよね~
狂おしいまでの情念の帰結としてのあのラスト、また、本作がミステリーとしての明確な解を必要としないという点、大いに共感致します。
理不尽な状況での大切な人の喪失、現実世界とは別の、しかし現実世界に大きな影響を与え得る別の世界の入り口である井戸、個人を抑圧する機器としての社会的なシステム(この映画ではポルシェに象徴される経済格差がメインなのだと個人的には考えてます)等々、村上春樹さんがしばしばテーマとするものが確りと描かれていると思います。
「いや、でもあなたのことは信頼してましたよ。お世辞じゃなくてね」
原作のこの言葉とジョンスのヘミへの情念が〝狂おしい〟までにリンクして頭を離れません。