「ドラえもんのいない世界」ドッグマン いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
ドラえもんのいない世界
初めてやってしまった・・・(泣 あるある話だが、日にちを間違えて予約してしまい、結局二重払いに・・・ダメージが大きすぎて、ヘナヘナ(泣 二食分断食しないといけないなこりゃ。
主人公であるイタリア人が、滝藤賢一にしかみえなくなり、多分邦画ならば演じるのだろうと思ったのが第一印象。
冒頭でいきなり大型犬の凶暴さを先制パンチのように観客に攻撃してくる。それが恐いの何のって、観ていてビクつきながら、顔を背けながらの心持ちであった。とにかく今作品は、ストーリー自体は複雑さは余り無いのだが、始終その怖さや苛立ち、そして共感性羞恥を誘発されて、その居たたまれなさ、情けなさに何度も途中退席したくなる程の引き込み力である。と同時に、その主人公を追い詰める“ジャイアン”であるシモーネの迫力と理不尽、そして幼稚さがの際立ちが凄い。勿論フィクションであるが、元々実際の殺人事件をモチーフにしているらしい題材である。そしてずっと疑問が湧き続けているのが、何故一人で生きていこうと思わないのか?という点。しかしネット情報によると、イタリア人における家族との連帯感というのは非常に強い事で有名だが、同時に近所付き合いや地域の仲間との結びつきも強く、村八分にされることを非常に怖れるという基本情報が重要なファクターであるらしく、今作品の解釈の中でど真ん中の知識ということである。本来ならば人間社会に於いて対等での付き合いの仲が求められるが、現実は様々な要素の中で残念ながら上下関係という歪な関係に強いられる事が多い。理性があってもやはり人間も動物ということだ。その中で今作はその人の弱さを余すところ無く極限まで表現されている。それはクライム映画というよりはもうホラーそのものなのではないだろうか。主人公が付き従う理由は娘とのダイビング費用という尤もらしさを前面に押し出しているのも皮肉的演出である。何度も出てくる海中散歩シーンと遊泳後の船上での娘との微睡みのシーンの平和演出を施しながらも、実は主人公自体が“犬”化してしまっている事を観客は気付く筈である。シモーネのペット、地域の仲間のペット、そして娘のペット。だからこそ関係性が切れず、益々奈落へと堕ちてゆく。本人にその自覚がないから、幾ら周りが忠言しても耳に響かない。身代わりで刑務所へ入るなぞ、普通の人間ならば決して判断しないことを躊躇いもせずに受容れる。だが、前述の通りの無自覚さ故、自分が犬を支配してる人間側だと思い込んでいるから、慣れない復讐らしきことをして恨みを晴らすというより、手なずけようとしてしまう過ちをしでかす。今作のシーンのクライマックスである、シモーネのネックハンギングのシーンは、明らかに冒頭の凶暴な犬をトリミングしようとするシーンのそれとの対比演出であり、そのアイデアは凝っている。そしてラストの長回しは、まるで猟犬が獲物を飼主の元へ運び、喜んで貰えることを期待するかの如く、中心部の遊戯場にシモーネを持ってくるその哀しさと情けなさに、最後まで心の落ち着きどころのない不快感を醸し出す効果として充分の訴え方ができた作りであった。一貫してブレないそのテーマ性にどす黒い闇を叩き込んでくる制作陣に称賛を贈りたい。