「黄昏に架かる虹」ジュディ 虹の彼方に 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
黄昏に架かる虹
今年のオスカーは、この作品のレネー・ゼルウィガーと「ジョーカー」のホアキン・フェニックスが主演賞を制したわけだけれど、私はこの「ジュディ」を観ながらふと、彼女もまたもうひとりの「ジョーカー」なのかもしれないと思った。
ホアキン・フェニックスが演じた「ジョーカー」は日の当たらない所でしか生きられない孤独な人間だったけれど、ジュディ・ガーランドは逆に、光の中でしか生きられない孤独な人間だったのではないかと思う。類稀な歌の才能を持ってしまったばかりに、そして舞台裏でどんな醜態をさらしてもステージに立つと否応なく光り輝いてしまうスタアの星を掴んでしまったばかりに、ステージから降りては生きられなくなってしまった悲しい人間。ショービジネスは汚い業界だと身をもって知っているのに、それ以外の場所で生きる術がないのである。
光と影とでまったく正反対の場所に立つ二人なのに同じように不器用にしか生きられない様子が、まるで背中合わせのジョーカーに思えてなんだか興味深かった。
著名アーティストの伝記映画と言えば、『夢を抱く幼少期→脚光を浴びスター街道を駆け上がる→酒・ドラッグ・セックス(これらのいずれかあるいはすべて)に溺れ凋落→再起を賭け奮起→復活』というのが最早テンプレ化している中、この「ジュディ」は子役時代の回想を挟んではいるものの彼女の最後のツアーとなったロンドン公演の日々に注目しながら、彼女の為人やその人生に思いを馳せるものとして仕上がっており個人的に好感を抱いた。ウィキペディア情報を脚本にまとめたような伝記映画とは違うようだ。
先ほど「光の中でしか生きられない者の孤独」ということを書いたが、私はこの映画を見ながら「黄昏」という言葉も同時に連想した。真昼の強い日差しは弱まり、いずれ訪れる夜に向けて空が薄暗く変わって来るような時制。それは当時のガーランドの人気とも重なるよう。
本来は誤用であるが「黄昏れる」という動詞を私たちが使う時、なんとなく物思いに耽ったようなニュアンスを感じたりするが、そう言えばこの映画のガーランドは感情的になりつつ、いつもどこか「黄昏れて」いるようでもあった。まるでもうすぐその先に「夜」が来るのを覚るかのように。
最後の"Over the Rainbow"はまさに黄昏に架かる虹だった。夜はもうすぐ目の前。「光の中でしか生きられない」ガーランドが最後に浴びた夕暮れのような朱く神々しい光。しかし空は夕暮れが一番美しい。ガーランドが歩んだ人生における「黄昏時」の美しさと切なさをしみじみと感じた。
レネー・ゼルウィガーが歌える女優なのは勿論分かっていたけれど、今回はガーランドの白人離れしたソウルフルな歌声をしっかり掴んで、魂を込めて歌唱しているのに驚いた。「シカゴ」の時とは歌唱法が全く違う。かと言って決して物真似になることなく演じているのが見事だった。