「21世紀のトラウマ映画になりそうだ」サスペリア りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
21世紀のトラウマ映画になりそうだ
1977年、東ドイツ・ベルリン。
米国オハイオ州出身のスージー(ダコタ・ジョンソン)は、世界的に著名な舞踊団「マルコス・ダンス・カンパニー」のオーディションを受けるにやって来た。
舞踊団ではメインダンサーのパトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)が失踪をするという事件が起きており、巷ではバーダー=マインホフ率いるドイツ赤軍によるハイジャック事件が進行していた・・・
というところから始まる物語で、舞台はベルリンに移されているが、時代は1977年でオリジナル版『サスペリア』が製作・公開された時期と重なることから、1971年生まれのルカ・グァダニーノ監督にとっては、よっぽどトラウマ映画だったに違いない。
映画はその後、カリスマ振付師マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)に認められたスージーは入団を許され、その実力からパトリシアの後釜に据えられ、その一方で、パトリシアの失踪を不可解に感じた主治医の老精神分析医クレンペラー博士(ルッツ・エバースドルフ名義=ティルダ・スウィントン)が失踪事件を独自に調査を進めていく・・・と展開する。
スージーが舞踏団の主要演目である「民族」の踊りをするのに合わせて、退団しようとするダンサーの身体がねじれ破壊されるというショッキング描写が前半にあるもの、総じて、いわゆるショッカー描写は少なく、女性たちばかりの舞踏団での不穏さや、クレンペラー博士が第二次世界大戦中に妻と行き別れたという事実などが、これもまた不穏な緊張感を伴って描かれていきます。
既存のホラー映画とは一味も二味も違うテイストですが、この映画の根底にあるのは、二項対立的世界の不気味さと不安定さで、その混沌感が観る者を幻惑・困惑させます。
二項対立の図式は、
物語の背景にあるドイツ赤軍によるハイジャック事件(東西冷戦、資本主義と共産主義)、
物語の根幹にある魔女の物語(男性社会と女性社会)
のふたつがわかりやすいのですが、途中では恐ろしい台詞が出てきます。
「キリスト教もナチズムも、どちらも十字架と儀式によって成り立っている」というキリスト教とナチズムを同じ次元で捉えている台詞です。
異教徒を認めない(ので改宗させる)キリスト教、アーリア人種以外認めない(ので彼らが認めなかったユダヤ人ほかのマイノリティを虐殺した)ナチス。
物語を根幹をなす魔女(三人の魔女がいるが、この物語では嘆きの母マザー・サスペリウム)はキリスト教の出現により、母の地位を引きずり落されて魔女になったといい、クレンペラー博士はナチスドイツによる大量虐殺の生き残りということになっている。
この二項対立がどこへ帰着するのか、それとも帰着しないのか・・・・
映画は、最終的に、スージーが嘆きの母となるのであるが、その前には、嘆きの母を崇拝していた舞踏団内部での大量虐殺が描かれます。
その様子は、深紅、深紅、深紅。
ナチスによる大量虐殺を思わせる地獄絵図。
そして、それを目の当たりにするクレンペラー博士・・・
観ている方としては、混沌ぶりに、幻惑・困惑・混乱するしかありません。
しかし、その混沌ぶりには、どこか歴史の既視感のようなものも感じるのです。
最後、嘆きの母となったスージーは、床についたクレンペラー博士のもとを訪れ、博士の額に手をあて、魔術のような言葉を投げかけます。
「忘れなさい」と。
この言葉、「呪」の言葉なのか・・・
それとも、平穏に生きていくための言葉なのか・・・
エンドクレジット直前に映し出されるのは、クレンペラー博士と愛妻が石の門柱にかつて刻んだふたりのイニシャル。
いまは、忘れ去られたように、蔦に覆われている。
そして、エンドクレジットの後、スージーが現れて、カメラの方に向かって、博士にしたように手を差し伸べる・・・
忘れていいのか、忘れていいのか・・・やはり、忘れてはいけないのか。
21世紀のトラウマ映画になりそうです。