「LAを舞台にしたお姫様を救うRPG」アンダー・ザ・シルバーレイク しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
LAを舞台にしたお姫様を救うRPG
主人公サムは隣のアパートに住むサラに恋をするが、彼女との距離を縮めたと思った矢先、サラは忽然といなくなる。部屋の壁に書いた謎のサインだけを残して…。サムはサラを探し始めるが、舞台となっている街シルバーレイクでは、セレブの失踪や、犬殺しなど不気味な事件が起きていた…
本作にはテレビゲーム「ゼルダの伝説」が登場する。そう、この映画はまるでLAを舞台にしたファンタジーRPGのようだ。ひとつの謎が解けると次の謎が表れる。だからサムはお姫様救出の旅に出かけるゲームの主人公だ。
出てくる謎は陰謀やカルトを思わせる不気味なものばかりである。ここから、かつてこの地で起きたシャロン・テート事件(カルト教団が女優シャロン・テートを惨殺した事件)を思い出させるし、また序盤に上半身と下半身が引き裂かれた死体が登場するが、これはLA で女優の卵がそのような殺され方をした「ブラック・ダリア事件」からの引用だ。
この不気味さはジェイムズ・エルロイの小説LA四部作のようだし(「ブラック・ダリア」という小説もある)、謎を追うプロセスは村上春樹の小説のようでもある(「羊をめぐる冒険」、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」など)。
物語の冒頭、夜道を歩くサムの目の前に、リスが上から落ちてきて死ぬ場面がある。高い木に登っていたと思ったら、あっという間に落ちて、死ぬ…これはまるで、浮き沈みの激しいショービジネスの世界を象徴しているかのようだ。
そう、舞台となっている街シルバーレイクはハリウッドに近い。
それゆえ、サムが迷い込むのは、ショービズの迷宮だ。本作は以下のような新旧の映画からの引用を重ね、観る者をショービズの迷宮に誘う。
・サムは自宅のバルコニーから双眼鏡で向かいの家やプールの女性を覗くが、これはヒッチコックの「裏窓」から。中盤、墓場のシーンではヒッチコックの墓が登場する
・映画「百万長者と結婚する方法(マリリン・モンローら主演)」が流れるが、この映画の男1人に女3人という構成は、謎のカギとなる音楽バンド「イエスとドラキュラの花嫁たち」や、ラスト近くに登場するカルトの人たちと同じ
・サムを演じるアンドリュー・ガーフィールドは「アメイジング」のほうの「スパイダーマン」の主演。子供のいたずらで手に接着剤を付けてしまったサムは、自宅にあったアメコミ誌が手に貼り付いてしまうが、これはスパイダーマンのオマージュ
そしてサムは、このショービズRPGのラスボスとして、あらゆるポピュラー音楽を作ってきたという“ソングライター”に出会うのだ。
ショービジネスは人気商売。売れればいいが、売れなければ残酷に見捨てられる。
そうしたモノの見方は「ラ・ラ・ランド」によく似ているし、本作には「ラ・ラ・ランド」にも登場するグリフィス天文台が出てくる。
そう、この街には成功を夢見る人たちが集まってくるが、実際に売れるのはほんの一握りだ。映画だけでは食べていけないからとデリヘル嬢をする若い女優が登場するし、サムが出会ったシルバーレイクの謎を追う研究家は「この街には売れなかった俳優の呪いがかかっている」と言う。
そう思えば、(湖の)シルバーレイクには、売れずに消えていった者たちの無念が沈んでいるように思えてくる。
そのシルバーレイク湖の周辺は小高い丘に囲まれており、丘の上には成功者たちの住む邸宅が並ぶ。成功者たちは上から、常にその湖を見下ろしているのだ。
この構図をそっくりそのまま写してあるのがサムがサラを初めて見るアパートのプール。低層の瀟洒な建物にプールが囲まれている感じはシルバーレイク湖そっくりである。
サムが初めてオナニーしたという雑誌「プレイボーイ」が登場する。プールの中の美女が表紙になっている。
サムはサラとのプールでのセックスに憧れる。終盤、違う女性とだが同じようなシチュエーションがシルバーレイク湖で訪れる。ところが相手の女性は死んでしまうのだ。彼女は、その「プレイボーイ」の表紙と同じイメージで湖の底に沈んでいく。
そしてラスト、ついにサムはサラを見つけ出すことが出来たのだが、“お姫様”を救うことはできなかった。そう、テレビゲームと同様、モニターの向こうにいるお姫様を“本当に”救うことは出来ないのだ。
映画の最後で、サムはあれほど追いかけたサラを諦め、別の女性を選ぶ。この街の闇を知ったから安全な現実を選んだのか、そしてそれは敗北か妥協か。その判断は観る者に委ねられる。
さて。
上記のごとく、この映画について書きたく(語りたく)なることはたくさんある。
でも、このことと面白いと感じたかどうかは、また別のことだ。
もちろん、面白い映画を観たとき、人は誰かに語りたくなるもの。
しかし、本作について語りたくなるのは、作中にこれでもかと映画や音楽、ゲームなどの引用がペダンチックに詰め込まれているからだ。
本作では、それらの“詰め物”が、モノで溢れかえった現代カルチャーの爛熟と頽廃を表しており、そこへの愛と食傷がないまぜになったメッセージは悪くはないと思う。
ただ、これとて目新しいものではないし、この映画がおこなった表現が、そのメッセージと噛み合っているとも感じられなかった。
例えば、ソングライター。映画が、神のごときメロディメイカーを批判的に描くならば、それは自分殺しではないのか?そして、彼を殺してしまったのは神殺しにほかならない。明日からサムは、どんな音楽を聴くのだろうか。
そう思えばラスト、サムは自分の部屋を出て、向かいの女の部屋に移る。いままで、どんな冒険をしたって、必ず帰った部屋を離れて。
つまり、ゲームオーバーになったわけではなく、RPGの主人公は自ら冒険をやめてしまったのだ。
結局のところ、僕はそういう冒険譚を好まない、ということだろう。ルーカスやスピルバーグの見せてくれる冒険を、僕は愛するから。