「史実の改変ぶりが受け入れられなかった」メアリーの総て ノセールさんの映画レビュー(感想・評価)
史実の改変ぶりが受け入れられなかった
映画が史実通りやれるわけがないということは、勿論理解している。
メアリーの種違いの姉がいないことになっていたり、第三子のクララが第一子にされていたり、ガルヴァーニ電流のショーを実際にみたことにしているが、これは尺や演出の都合であると納得いく。むしろガルヴァーニ電流のエピソードは史実だと地味だから、実際に見たという演出はむしろ良かったとさえ思う。
事実の改変も、物語として面白かったら受け入れられた。
だが、押さえておくべき「ディオダティ荘の怪奇談義」の改変、これがダメだった。歴史好きの人ならば「絶対対押さえておくべきエピソード」というものがあると思われる。この映画はその「絶対押さえておくべきこと」を、あろうことか一部省略・改変した。そのためこの映画の評価が一気に落ちた。
ディオダディ荘の怪奇談義と呼ばれる一夜はフランケンシュタインと、今の吸血鬼の原型ができた歴史的一夜。当然いろんな本で紹介されるしこの出来事自体も面白いから、特に海外では度々映画や劇のモチーフにされている。
その根幹たる出来事を省略・改変したのは、史実ファンからすれば受け入れ難い。
期待しすぎていたのと史実の大幅な改変ぶりがどうしても受け入れられず、低評価の原因となった。
私は吸血鬼からこの出来事を知り某所で吸血鬼解説をしていることもあって、ディオダティ荘の怪奇談義、特にポリドリの吸血鬼には思い入れがある。ポリドリが最初に書こうとしたのは別の物語なのに、ポリドリが吸血鬼を書くといってバイロンが嘲笑するという改変は到底受け入れられなかった。またパーシーがポリドリに嫉妬して突っかかるシーンもいらなかった。実際のポリドリは、バイロンと喧嘩して解雇されたあとに、バイロンへの恨みからバイロンを揶揄するために吸血鬼を書きだしたというのが本当である。またポリドリはお調子者でミーハー、そしてパーシーがいたく気に入らなかった。むしろポリドリがなにかとパーシーに突っかかるものだから、バイロンが止めたほど。それを、メアリーのストーリーに無関係なところで、改変してまで描写する必要がどこにあったのかが疑問。
映画ではメアリーの悲劇性ばかりを取り上げ、いかにもメアリーの独力で小説フランケンシュタインを作り上げたかのように描写しているのもいただけない。そのためにバイロンや夫のパーシーのろくでなしな面しか描写しなかったことに不満が残る。確かに二人は映画以上のろくでなしだが、メアリーには文学的影響も大いに与えている。実際は、フランケンシュタインの執筆を促したのはパーシーからであるし、文章の書き方から校正まで行っている。そして出版社探しもパーシーが実際行っている。断られたのも2社だけ。それをパーシーが内容にケチをつけ、それに怒ったメアリーが自分で出版社を探しにいくことになっている。また何社からも断られたかのような描写は過剰で嫌らしくさえ思った。
ポリドリもメアリーと同じく哀れな弱者に仕立て上げていたのも疑問だ。確かにポリドリの吸血鬼はバイロン作ということで出版されて、正当な報酬も貰えず盗作者と言われたもの事実。だけどポリドリが吸血鬼を作ったのはバイロンの恨みからであり、内容もバイロンの作品を明らかに剽窃している。ポリドリも「剽窃ではなく、アイデアを借用した」と弁明している。だから盗作者呼ばわりされるのも無理はない。そもそもこの映画はメアリーが主役であるのだから、ポリドリの描写はほとんど要らなかった。実際、なくてもストーリーに大きな支障はない。史実通りに描写するならいざしらず、改変したエピソードを入れる必要性がどこにあったのだろうか。それよりはメアリーがフランケンシュタインを作るためのヒントを得ていく出来事を入れていく方が先決だっただろう。
例えば映画では妹クレアが「雨続きで、バイロンの詩の筆写ばかりで退屈だ」というシーンがあったが、そこをなぜメアリーにしなかったのか。史実ではメアリーはバイロンの詩「プロメテウス」を清書していたものと考えられている。小説「フランケンシュタイン」の副題は「現代のプロメテウス」。実際、バイロンの詩「プロメテウス」のパロディという研究もある。こうしたことを描くことができたはずだ。フランケンシュタインの化け物は死体をつぎはぎして作られた存在だが、実際の小説「フランケンシュタイン」もいろんな名作からアイデアを借用している。だからこそメアリーは過小評価されていた時代もあった。バイロンやパーシーの詩、父ゴドウィンの小説や亡き母が史上初めて提唱したフェミニズム思想に関する著書など、様々な作品からヒントを得て「つぎはぎ」した作品。だというのにメアリーが独力で作り、独力で出版社にこぎつけた描写したのは非常に残念。
映画最後も盛り上がりにかけた。これは劇中のパーシーが何もしていないのが原因。ここはメアリーに迷惑かけまくったから、せめて罪滅ぼしとしてパーシーが妻の「フランケンシュタイン」を出版するように、裏から動いていたということにでもしていたほうがまだ盛り上がっていたはずだ。実際、パーシーが色々助力しているわけだし。
監督のインタビューなんかも見てみると、この映画は監督や脚本家のイデオロギーに満ちた作品だと感じた。女性(+ポリドリのような弱者)が虐げられているということを訴えたいがために、メアリー・シェリーを道具にしたようにしか思えなかった。メアリー・シェリーの功績を過剰に演出し、バイロンやパーシーの功績を演出しなかったことに大いに不満が残った。