「“他者”を受け入れるということ」若おかみは小学生! カミツレさんの映画レビュー(感想・評価)
“他者”を受け入れるということ
1.アニメとして純粋に面白い!
正直言って観る前は「いかにも児童向けアニメって感じの絵柄で嫌だなぁ……」と思っていました。ノーマークだった劇場版アニメが意外な傑作だったというケースは、過去に何度か経験していますが、さすがにこれはないだろうと。まぁ、要するに完全にナメていたというわけです。
実際に本作を観てびっくりしました。まず、アニメとして単純にすごく面白い。ストーリーは、「小学6年生の“おっこ”が、新人若おかみとして旅館の仕事を手伝いながら、様々なお客さんたちと出会い、成長していく」という明快なものなので、小学校中学年以上であれば、子どもでも十分に理解できる内容だと思いますし、大人であれば、そこに込められた深いテーマとメッセージを読み取ることができるはずです。
また、アニメーションとしての動きの表現が非常に豊かで、純粋に観ていて楽しいです。監督の高坂希太郎さんは、スタジオジブリの『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』、『風立ちぬ』などの数々の名作で作画監督を担当された方です。本作でも何気ない身体の動きや表情の変化一つ取っても、アニメーションとして抜群に面白く、観ていて心地好いです。先ほど「絵柄が好みじゃない」と述べましたが、しばらく観ていると、そんなことは全く気にならなくなります。
ストーリーもアニメーションも素晴らしいと思いますが、本作の凄みは何と言っても、深いテーマ性と作品が伝えてくるメッセージの素晴らしさにあると思います。以下に、本作の大きな2つのテーマである「“他者”を受け入れるということ」と、「深い悲しみを受けとめ、乗り越えるということ」について詳しく述べていきたいと思います。
2.“他者”を受け入れるということ
おっこは両親とおばあちゃんから「花の湯温泉のお湯は誰も拒まない すべてを受け入れて癒してくれる」という花の湯温泉の理念を教わり、この教えを若おかみとして実践していきます。「春の屋」には、身なりがボロボロの父子や怪しげな占い師など、数々のクセのあるお客さんたちが訪れますが、おっこはどんなお客さんであっても、心からもてなし、難しい要望にもできるだけ応えようと奮闘します。
このようなおっこの姿を観ていると、本作を観る前に自分が抱いていた偏見さえも見透かされているようで、背筋が伸びる思いです。「絵柄でアニメを判断してはいけない」ですね。
本作が真に素晴らしいと思うのは、この価値観がおっこの言動の全てにおいて貫かれているところです。おっこは、様々なお客さんだけでなく、ユーレイのウリ坊や美陽、小鬼の鈴鬼といった不思議な存在たちにも出会っていきます。ウリ坊が初めて目の前に現れた時には驚いたり、嫌がったりするそぶりを見せていましたが、その後に美陽や鈴鬼が目の前に現れた時には、すんなりと彼らの存在を受け入れています。鈴鬼に庭の草むしりをさせ、美陽に窓ふきをさせて、いっしょに掃除をする姿はなんともたくましく、微笑ましいです。
また、同級生の“ピンふり”こと真月とは、たびたびケンカをしていますが、これも思っていることをちゃんと言葉にしてぶつけ合っているという意味では、決して“拒絶”ではありません。最終的におっこは真月の「お客さんに喜んでもらいたい」という熱意を理解し、ある大事な場面で彼女に助けを求めます。これも「“他者”を受け入れる」ということの一つの形ではないでしょうか。このようにおっこの言動は、「誰も拒まない すべてを受け入れる」という作品のテーマときちんと一致しているのです。だからこそ、本作のメッセージは強く心に響くのだと思います。
3.おっこの深い悲しみの表現
私は本編の内容をほとんど知らずに観に行ったので、冒頭わずか3分ほどのところで、おっこの両親が交通事故で亡くなるという展開に、かなりの衝撃を受けました。よく見ると予告編でもナレーションで「両親を亡くしたおっこが……」とはっきり言っているのですが、予告編ではこの部分を巧妙に隠しているようにも見えます。「おっこが両親の死を受けとめ、それを乗り越えること」が、本作のもう一つの大きなテーマとなっています。
このテーマは終盤まではっきりとは見えてきません。それは、おっこがあからさまに落ち込んだり、泣き崩れたりする場面が出てこないからです。終盤の“ある時点”まで、彼女は一度たりとも涙を流しません。
しかし、彼女は決して両親の死から立ち直っているわけではありません。時折、おっこが空想や夢の中で“まるで生きているような”両親と会話をする場面が出てきて、ハッとさせられます。彼女はまだ両親の死を現実として受けとめられていないのです。
さらに、ユーレイのウリ坊や美陽の存在が、生と死の境界線を曖昧にしています。ウリ坊や美陽のように、おっこの両親もまだこの世に存在しているのかもしれない……そんな気がしてきて、おっこが空想の中の両親と会話する場面を観ていると、楽しいのか悲しいのか分からない奇妙な感覚にとらわれます。
また、最初から最後までおっこは旅館の仕事に前向きに一生懸命取り組みますが、これも彼女なりの“喪の作業”なのではないでしょうか。
「悲しいから、落ち込んだり泣いたりする」のではなく、「その悲しみが大きすぎるから、受けとめきれず、泣くこともできない」──なんと深く生々しい悲しみの表現なのだろうと気付いた時には鳥肌が立ちました。
※これ以降、物語終盤や結末部分の内容にふれています。重要なネタバレを含みますので、ご注意ください。
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4.深い悲しみを受けとめ、乗り越えるということ
これだけの深い悲しみをどうやって受けとめ、乗り越えればいいのか?──本作が提示する答えは、実に明快で感動的です。
物語の終盤、おっこはふいに両親の死と向き合わなければならない場面に直面します。しかし、この時彼女は一人ではありません。胸騒ぎを感じたグローリー水領が旅館に駆けつけ、同級生の真月も、春の屋をサポートするために駆けつけています。グローリー水領が車内で「でも、おっこ あなたは一人なんかじゃないわ」と言います。別段強調されているセリフではありませんが、これまでおっこが様々な“他者”を受け入れてきた姿を観ているだけに、この言葉は強く心に響きます。
一人で受けとめきれない悲しみは、そばで支えてくれる人たちといっしょに受けとめればいいのです。
両親の死を受け入れる覚悟を決めたおっこは、自分よりも幼い翔太を抱きしめ、ここにいていいのだと伝えます。そして木瀬一家を“若おかみのおっことして”旅館に受け入れるのです。
「深い悲しみを受けとめ、乗り越えるということ」と「“他者”を受け入れるということ」──本作の2つのテーマが重なり合うクライマックスには、感動のあまり目頭が熱くなりました。
「“他者”を受け入れる」ということは、これまでも数多くの作品でくり返し語られてきたテーマだと思います。しかし、「子ども向け」であるとか、アニメであるということを抜きにしても、これだけ明快かつ感動的にこのテーマを描ききった作品は稀なのではないでしょうか。
今年一番のダークホース。文句なしの傑作だと思います!