「ドッペルゲンガー」告白小説、その結末 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ドッペルゲンガー
最近の発表によると、サイコパスというのは人口の1%~4%もいるそうである。サイコパスについてはいろいろ説があると思うが、私の理解では、日常的に怒鳴ったり喚き散らしたり平気で嘘をついたりと、とにかく他人に対して高圧的で強制的な人格障害である。会社の社長にはこういう人が多い気がする。日本の社長の人数は人口の2%ほどらしく、サイコパスの割合に似ている。そういえばモリカケで責められると喚き散らしたり平気で嘘をついたりする日本のトップもいる。
さて、作家というものは多かれ少なかれ、身を削りながら小説を書く。私小説であれば尚更である。発表すると周囲の人間から自分のことを悪く書いたと罵詈讒謗を浴びせられることもある。それでも作家は小説を書く。書くことが生きることだからである。
本作品は、デビュー作の私小説が大ヒットしたという設定の女流作家の話である。スランプに陥ってなかなか新作が書けない。自分のことを書くのが嫌だからフィクションを書こうとするのは私小説作家が一度は通る道である。
スランプに陥った主人公デルフィーヌの前に救世主のようにElleという女が現れて、彼女を批判し、または叱咤激励する。しかし小説の方は一向に進まない。そうしていくつか事件が起きる中で、Elleは徐々にサイコパスのような女に変身していく。こんな感じのプロットだが、途中からいくつも疑問が沸き起こってくる。それが解けるのは最後の最後の場面だが、必ずしも私の理解が正解とは限らないことを予め断りつつ、以下は私の推測である。
全部見終わってからよく考えてみると、Elleを見たのはデルフィーヌと観客だけだ。行きつけのカフェの店員はまるでElleがいないみたいな振る舞いだったし、下階の住人が主人公と関わるのはElleがいないときに限られる。デルフィーヌの夫フランソワはたしかにElleと電話で話したはずなのに、話していないと言う。彼が嘘を言っているとは思えないし、その必要もない。そして最後のサイン会のデルフィーヌの表情である。自分が書いていないと一度は主張した本に平気でサインをするのは、サイコパスか、本当は自分で書いた本だからのいずれかだ。
賢明な映画ファンはすでに分かっていると思うが、主人公デルフィーヌはドッペルゲンガーなのである。大人しそうなデルフィーヌの様子からは考えられないサイコパスみたいなElleは、彼女の中のもう一つの人格なのだ。小説が書けない産みの苦しみが、もう一つの人格を創造して、その人格に苦しめられつつも、ついに新作をものにする。
デルフィーヌの恐怖体験は、そのまま作家としての苦しみに一致していたのだ。この一連のプロットはなかなか見事である。映画のキャッチコピーで「どんでん返しに驚愕する」と書かれている映画ほど、それほど大したどんでん返しではないのが通例だが、この映画は主人公が追い込まれるだけに、ネタ晴らしは観客を驚かせる。鑑賞中の疑問を最後の場面で一気に解き明かす手法がこれほどうまくいった映画は初めて観た。見事である。