教誨師のレビュー・感想・評価
全22件中、1~20件目を表示
見やすいけどね
................................................................................................
教誨師の大杉が、色んな受刑者と話をする。
ワガママで嘘つきの婆、知的なテロリスト、見栄張りのヤクザ・・・
で結局テロリストが死刑執行となり、それに立ち会う。
................................................................................................
大変な仕事なんだろうなとは思ったな。
おれはシーンが個室固定の作品ってやたらと好きなんよな。
その意味でこの映画は見やすかった。でも深い意味は読み取れず・・・。
面白い!
ほとんど部屋の一室から動かないのに、6人との対話が1周、2周と周回を重ねる毎に微妙に変化が積み重ねられ、飽きさせない。
会話も特に高宮パートにおいて、スリリングでハラハラさせる。
後半でも、いったい誰が執行されるのかが直前まで分からず、最後まで引きつけられた。
ストーカー問題や執行引き延ばし、累犯障害者、自白偏重や障害者殺人などの現実の問題をモチーフとしている。本作では結論は出さないが、死刑制度自体の問題性が浮かび上がってくる。
かなり重いテーマで、表現が憚られるが、とにかく最後まで面白かった。
大杉漣を見たかった。
実は、原作も読んでたんです。
大杉漣が、製作も兼ねてるんで観たかった作品。
牧師さんが、死刑囚に悔改める仕事。6人達との
舞台劇だね。牧師さん自身も過去があり
お話しを積み重ね罪を悔改めて神の元へ
烏丸せつこがいいね。若い子は妖艶だったね。
今はおばちゃんだね。大杉漣の最後の主演映画である。
植松聖のような…
2020年3月16日
相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で起きた大量殺傷事件の裁判員裁判で死刑判決が出された日
録画済だったこの映画を観る。
高宮死刑囚は植松聖がモデルなのだろう。
植松聖がこの先反省することがあるのか?
死刑にすることで分からないままになってしまうことがあるのではないか?
多くの宿題が残されている気がしてならない。
明らかに、あの事件について触れている
と思われるシーンや、その犯人が出てくる。
(よく知らないが、あの事件がこの作品を作るきっかけだったのかな?)
漣さんの作品。しかも数少ない主演作品だけにあまり悪くは言いたくないのだが、
他の指摘にもある通り、前半の構成はよくない。つまらない。同じことの繰り返しで飽きてくる
途中で少しだけ展開があるけれど、驚くほどのものではない。
漣さんは、この映画から観客に対して何を学びとってほしかったのかなぁ~。
亡くなってしまってるから、今ではわからない。
しかし、あのおばちゃんが、かつてのセックスシンボル、烏丸せつこだったとは...
時の流れは、残酷すぎる。
最後の対話
死後に公開された大杉漣最後の主演作。
全編ほとんど密室での会話劇。
派手な展開は皆無で、地味で淡々とした小品。
大杉漣が企画を気に入り、プロデュースまで兼ねてくれなければ、完成はもっと困難だっただろう。
しかし大杉漣の名演としっかりとした内容で、上質の人間ドラマとなっている。
死刑囚と対話し、彼らの心に寄り添い、救済と改心へと導く牧師、“教誨師”。
教誨師である佐伯は、拘置所にある“教誨室”にて、月に2度、6人の死刑囚と対話する。
6人の死刑囚は性格も性別も年齢も何もかもそれぞれ。
心を開かない無口な男。
気前のいいヤクザ。
お喋りな関西中年女。
老ホームレス。
家族思いの父親。
自己中心的な若者。
各々癖があり、対話する側も大変。
無口な男と父親は静か過ぎて対話がなかなか進まない。
ヤクザは逆に馴れ馴れしい。
関西女もそのタイプかと思いきや、突然情緒不安定に。
最も面倒なのは、自己チュー若者。博識ある事を盾にして、世の中全てを見下すような物言い。
見てると、本当に死刑囚なのか?…と思えてくる人物も。
全く反省の色ナシの自己チュー若者は例外として、家族思いの父親もさることながら、老ホームレス。
子供のような性格で、読み書き出来ず、佐伯に読み書きを習う。キリスト教信者へなりたいと申し出る。
彼らがどんな人間で、どんな罪を犯したのか、回想形式で語られたりはしない。
その必要は無いからだ。
見る側も佐伯と一緒になり、彼らがどんな人間でどんな罪を犯したのかより、今の彼らと向き合う。
その対話を通して、彼ら一人一人の人間性や背景、内面を浮かび上がらせる。
それどころか、本心まで考察させられる。
普段はどんと構えていたり、卑屈なのに、いざとなると、やはりそうであった。
次は自分の番じゃないかと恐怖し、遂にある一人の死刑が執行される事になり、これまでの強気な性格が嘘かのように激しく動揺する。
そこに、ザマアミロ、という感情は無い。初めて、本当は弱く脆い内面を見た。
その一方…。
まともに思えたある人物の本心。
罪を悔いてるように見えて、実は自分が罰せられる事に疑問を呈している。
一筋縄ではいかない人間各々の姿。玉置玲央、烏丸せつこ、五頭岳夫、小川登、古舘寛治、光石研、個性的な彼らの賜物。
対話する事で相手の心を開く事が出来たと思えた。
が、対話だけでは全てを分かりかねない。
では、何故対話を…?
対話を通して人を救済する事が出来るのか…?
それはただの自己満足なのか…?
佐伯にはある過去が。
ズバリ言うと、罪を背負っている。
自分が犯した訳ではないが、自分のせいで…。
そしてその時、大事な人を救えなかった。
人を救うなんて口では容易く言えるが、実際は難しい。
罪滅ぼしなんかでもない。
もし、人が人を必要としている時、対話を通じ、傍に居て、寄り添ってやる事が出来れば…。
相手を救うなんて大層な事は言わない。
微力ながら、せめてもの何らかの、助けになる事が出来るかもしれない。
映画を観るという事は、その作品や携わった人々、登場人物や演者と対話していると言っても過言ではない。
最後の主演作でこんなにも、大杉漣さんと対話出来た事を光栄に思う。
いろいろな見方ができる
気になっていた作品。
1つのシチュエーションで会話だけで成り立っている。舞台のような作り方。
面接室での時系列はカレンダーとスーツやネクタイでのみ分かる。同じものであれば同日の話である。
6人のうち4人はある程度罪状が話の中で分かってくる。
教戒をホントに望んでいるのだろうか。話し相手が欲しいだけなのか。そういう人もいれば、教戒によって洗礼受けるまでに(宗教的)回心する人もいれば、食って掛かる挑戦的な人もいる。
教戒にはこれという正解はないのがよく分かる。
自分より弱い立場の17人を殺していた青年は教戒という立場を諦めた時点から変化していく。執行日には立ち上がれないほどの恐怖におののいているのを見ると、強がっているのをまとった弱い人間であるのが露わになる。プロセスはいろいろあるにせよ、露わになってそれを自覚していくのが教戒であろう。
文盲の人は冤罪の可能性も秘めて終わった。文字を学習ことで何かを訴えかけたかったのだろう。
父親が教誨師しているが、普段は守秘義務がある内容だけに詳細は聞かないが、こういうことをやっているのか、と垣間見たような気分である。
罪は何によって償うことができるのか
重かった。それは予想通りでしたが、「安直に死刑制度に対する疑問を投げかける映画」じゃ無かった。もう、ホントに真面目に考え始めると気が滅入ってしまう内容。登場人物が自分の口で語ってくれるのでリアルに訴えかけるものがあり、映像化する意義はあると思う。
宗教の役割と意味。現実の契約社会における罰と赦し。その狭間に自ら望んで身を置く教誨師。重い話だろうなとは思っていたけど、ここまでフェアに問題提起している映画だとは思っていませんでした。
殺人の法定刑は死刑ですが、実際には、おそらく二人以上の人命を奪わない限り裁判により死刑を宣告されることはありません。よって、ここに登場する人物は、複数人の命を奪うか、複数回に亘り奪おうとした事実があり、極刑を言い渡された、社会的に観れば極悪人である訳です。
犯した罪がうかがい知れるのは、6人中4人。
*家族三人を撲殺した小川
*17人を殺害した高宮
*リンチ殺人を首謀した野口
*ストーカー殺人で女性とその家族を殺害した鈴木
「罪と向きあい自分が奪ってしまった命に対する贖罪」と言う点において、教誨師の佐伯の目には、この6人はどう映っていたのか。
小川は死刑を、おそらく受け容れていますが、それは単に「家族の前から姿を消してしまいたい。いっそ死んでしまいたい」と言う気持ちからだと思われ。他の4人は極刑を宣告されるカギとなる「矯正不能と判断される」のも致し方無しな人格です。鈴木に至っては、身の毛がよだつ。
文盲の進藤は、「刑法上の赦し」と「宗教上の魂の赦し」を混同している様にも見えますが、これが主題につながります。
佐伯は、少なくとも死刑を否定していません。疑問も持っていないでしょう。神父ではなく、牧師という立場の設定は、それをうかがわせるものなのでしょう。ただ、死刑の執行の前に「神の赦し」を得て「魂を救いたい」と言う一心。ここに、「自分の代わりに殺人を犯した優しかった兄」の姿が被り、物語をより一層複雑に、かつ深く重いものにしています。
立場と状況次第では、誰もが罪を犯す可能性がある。だが犯した罪は償わなければならない。洗礼を受けることになった進藤のメモに、佐伯は絶望します。「あなたがたの罪のために、わたしはいのちを捨てます。だからあなたがたも救いという主のゆずりの地を受け継ぎなさい。」と言うキリストの言葉は、現代の契約社会における「殺人」と言う罪の贖罪になりうるのか?と言う問いかけ。
宗教から一旦身を引いて高宮と向き合った佐伯は、高宮が心の底から後悔をし始めたことを察しますが、彼は死刑台に上ることになります。「矯正不可能の判断」が誤りだったことをうかがわせる件なのですが、ここで観る者が何を思うのか。
死刑制度への疑問・否定、と言う立場に立たず、宗教と非宗教の両側面から「何によって罪を償わなければならないのか」を問う、すっごく深い、正解など無いテーマを投げかける、ある意味、どえらく迷惑な秀作でした。問題提起のカギになっているのは、高宮と進藤の二人です。
2019年の2本目。もたれてます、かなり。ちょっと、明日、口直しに行って来る。。。。。
「心が楽んなるのはあんただろ?」
俳優大杉漣のプロデュースとして遺作となった本作、本人の並々ならぬ力は充分、スクリーンに表現されていた。
拘置所内でのシーンがそのストーリーの殆どで、これをスタンダードの画角で撮影されている。そしてラストのシーンで初めてビスタサイズに変わるところも、閉鎖と開放のメタファーなのかもしれない。
経験が浅い教誨師と、6人もの一筋縄ではいかない死刑囚達との或る意味“攻防戦”が戦い毎にシーンが切り替わるように進んでいく。わざと死刑を遅らせるようにでっち上げの殺人事件を話たり、自分でもホントか嘘か分らないまま幻を話す女、これ又ストーカー殺人を思い違いしている男や、屁理屈ばかりの大量殺人魔、そして、人の良い男と、無学故に人につけ込まれた老人・・・
ある人間は自身の正統性を、又ある人間はその犯罪に対する無自覚等々、確かにまともでは自分の置かれている立場を受け止められない程の重大な事実を引き起こしたその罪と罰をまったくもって昇華できぬまま最期の時を待つ“モラトリアム”をこの新米教誨師にぶつけ続ける。その日々の中で、教誨師もまた、幼い頃の兄への罪悪感故の迷いが影を落とす。
映画作品なのである程度のオチが必要であり、着地点を設けようと考えたのだろうが、良く言えば他の作品のオマージュ的要素、又、唐突なホラー的要素や、霊的表現等々、盛り込みすぎたことが悩ましい。なるべく一人の死刑囚のケースに固執しないように散らすことで、人間が人間を殺すというその原罪に広く一般的なテーマを持たせたいと思ったのだろう。しかし、やはり、その老人のもしかしたら神の生まれ変わり?的想像力の持たせ方とか、どうしても表現過多が否めないのである。
6人の中ではやはり屁理屈をこね回す青年との対峙が一番迫真を得ていると思うので、ここを掘り下げる作りでもよかったのではないだろうか。
いずれにせよ、ラストシーンの意味合い、これは、自分では正直不勉強故、理解困難であった。鑑賞後にネットでのネタバレ記事で理解出来た位、今作品、非常に鑑賞するのに疲れる。過剰なドラマティックさはなく、複雑な心理描写が次々と小波レベルで襲ってくるので、整理できぬまま、時間が過ぎていくのだ。あのホームレスの老人は、教誨師に渡したグラビアページに書いた平仮名『あなたがたのうち、だれがわたしにつみがあるとせめうるのか』をどう解釈させようと思ったのか、その究極の問題に対しての答えは一生掛かっても出ないのであろうが、もう少し整理された構成ならば腑に落ちたかも知れない。大変難解で哲学性たっぷりの作品である。
故人のご冥福お祈り申し上げます。
大杉漣さんの辞世の句…のような映画
まず,“教誨師”という言葉を初めて知った。
『おくりびと』を観た時に,“納棺師”という言葉を知ったのに似ている。
死刑囚が,悔い改めて,心穏やかに,死刑執行の日を迎えられるように面談を行うのが,その役割だが,囚人の経緯も様々であれば,現在の心境も色々,宗教だって,一般の日本人だとすれば,仏教,あるいは神道,キリスト教位で,無宗教だというものもいるだろう。
主人公の教誨師はプロテスタントの牧師であり,ミスマッチも多いと考えられる。
“死”,“死刑”を前にした人に,聖職者であれ,向き合うことは,とても難しいことだと思う。
犯罪を犯し,死刑を前にして,いかに死に向き合うかというのは,簡単に答えの出るものではない。
そのように促すことは,自分自身の罪悪感(原罪)の記憶を呼び覚ます。
有限の存在としての人間,死刑制度,人間の業,深く考える間もなく映画は終わったが,答えは見つからない。
ところで,映像の中でよく倒れる卓上カレンダー,ここ数年,自宅で使っているものとそっくりでびっくりした。Quo Vadis製かと思ったが,自宅のものと比べると少し横長だったので,違うものだったかもしれない。
でも,大杉さん,良い役者だ。
ご冥福をお祈りいたします🙏
6人との会話から問う、死刑制度の是非
教誨師。"きょうかいし"と読む。今年2月に急逝した大杉漣さんの"最後の主演作品"にして、初めてエグゼクティブ・プロデューサーも務めている。まさに思い入れある作品が遺作となってしまった。
"教誨師(きょうかいし)"とは、受刑者に対して、徳を教え諭し、心の救済へと導く宗教家のこと。国内では、刑事収容施設法に基づいて法的に規定されているが、ボランディアである。宗教もさまざまで1,000人以上の教誨師がいる。
大杉漣が演じる佐伯は、半年前から死刑囚の教誨師を務めているキリスト教の牧師。佐伯が出会う6人の死刑囚との対話が、拘置所内の同じ接見室を舞台に展開される。
原案・脚本も務める佐向大(さこう だい)監督の綿密に作られた設定が秀逸だ。6人それぞれの死刑囚の人生と、佐伯牧師自身の不幸な過去が浮き彫りにされていく。ひとりの牧師をホストとした、接見室を舞台にした群像劇のようだ。
創作なのであたりまえだが、登場する6人の死刑囚は年齢・性別や性格が異なるばかりでなく、各々の罪状もダイナミックに異なる。具体的な罪名や犯罪経緯には一切言及せず、死刑囚と代わる代わる対峙する佐伯が、6人と交わす会話の中から徐々にそれらを読み解く面白さがある。
佐伯は死刑囚と、"また2週間後に"と話したり、"神父様じゃなくて牧師です"と正したりしているので、プロテスタント系の牧師で、隔週で拘置所に通っていることがわかる。
本作には6人の死刑囚のほかに、佐向監督の面白い仕掛けがいくつかある。
まずは、映画がスタンダードサイズ(4対3=1.33:1)で作られていることだ。横幅の狭い画面は、外界から隔たれた拘置所内の閉塞感や息苦しさを感じさせ、それがエンディングで佐伯牧師が拘置所を出ると、ビスタサイズ(1.85:1)に一気に拡大される。
漫然と観ていると画面の変化は気づかないかもしれないが、なんとなくエンディングでホッとする。これは潜在的に心を開放する効果をもたらしている。
また、時間の経過を細かく演出している。殺風景な接見室のシーンが延々と続く本作で、時間の経過を表現するのは難しい。安易にテロップで、"〇〇日目"や"〇月〇日"と表示してしまう手法もあるが、それでは芸がない。
そのひとつが卓上カレンダーだ。死刑囚との面談中、霊的な現象のごとく、ときどきパタンと倒れる。そのとき、"ハテ?"と月表示を見てしまうことになる。また、佐伯は一貫して黒系のスーツだが、ネクタイが変わる。同じネクタイの日が同じ接見日であることがわかる。
本作は、強烈に死刑制度を問うテーマを抱えている。会話の中から死刑廃止論について考えさせられるエピソードがいくつも提示されている。
また、初めて知るトリビアが多く紹介されていて、知識欲も満足させる。不謹慎だが、死刑あるある話にもなっている。
最後にひらがなを教えた、文盲だった死刑囚が残したメモが、佐伯に問う。
"あなたがたのうち、"
"だれがわたしに"
"つみがあると"
"きめうるのか"
(2018/10/18/スバル座/スタンダード(一部ビスタ)
☆☆☆★★ 神に仕え、教誨師として死刑囚に寄り添って行こうとするも...
☆☆☆★★
神に仕え、教誨師として死刑囚に寄り添って行こうとするも。なかなか自分の理想と現実との狭間に苦しみ、1人心の中で葛藤する教誨師の姿。
上映終了後にイベント有り
1つだけ!
元々演じる事を念頭に書かれただけに。大杉漣演じる教誨師が、そのまま彼の人生そのものとなっている。
但し、観客にこの主人公の人生背景を詳しく伝える為に入れられたと思えた回想場面。そしてそれに繋がるのが卓上カレンダー。
ここは寧ろ、回想場面を無くし。カレンダーが勝手に…と描いた方が、神に仕える者としての普遍性が増したのでは…と、思ったのだが。
6人の死刑囚の中では、烏丸せつこが絶品だった!
あ?2つになっちゃった(^_^;)
2018年11月1日 スバル座
罪人の意味とは
忘備録として印象的だった台詞を。
人を知るというのは理解することではなく側にいること。
同じ言葉で言い表わしても自分と相手の中で思い描くものが同じであるとどうして言えるか。
今見るべき。ネタバレ含みます。
人の命を奪った死刑囚、死刑囚の命を奪う政府。矛盾した現実をストレートにぶつけられ苦悩する教誨師。フィクションだが今も現実に起きている事象であり、色々と考えさせられる。若者と教誨師のシーンは特に見所で禅問答を思わせるような言葉のぶつけ合い。屁理屈にも取れるが妙な説得力もある。実際に起き日本中が衝撃を受けたあの事件を連想させる人物も出てくるので見るなら絶対今だろう。
眠れなくなりました
人の生死を人が決める死刑制度。私は死刑肯定派です。だって「日本では」被害者は武器を持てないまま弱い立場で殺されてしまうのだから。
そんな有利な状況で2人以上を殺す人は、やっぱり死刑という罪を受け入れるべきと思う。
ただ、この映画で宗教的な意味で神に罪を許された死刑囚について、人は許さないことはいいのだろうかと考えてしまうとよくわからなくなりました。
色々難しい。
現存する世界宗教の限界を感じた
死刑囚の改心の一助となることもなく、
ただ話を聞くことしかできない主人公。
キリスト教の牧師さんという設定なのだが、
キリストの言葉も聖書の引用も、賛美歌も
何一つ死刑囚たちの心に響いていない。
「魂のぶつかり合い」などのキーワードが広告に踊るが
まったくそうとは思えない。
単なる自己顕示欲と自我我欲。死にたくないと言う執着。
キリスト教に改宗した人には、ふさわしい言葉を伝えられたのか。
「キリスト教でよかった」と思わせる、魂に刻まれる言葉を。
そういうシーンはひとつも出てこない。
人間の悲哀を伝えるという意味だけに置いて存在価値があるかもしれない。
でもただそれだけ。
キリスト教も、仏教も、イスラム教も、
既存の宗教の形骸化が悲しく実証された映画。
全ての宗教を包括するような、新しい教えこそが必要と
強く強く感じさせてくれたことだけがよかった。
穴をのぞいたその先は…。
・生きるとは?死刑制度とは?裁判員制度って?等々…。非常に難しいテーマで、いくら考えても明確な答えは見つからないと思う。
・高宮とのやり取りが一番印象的だった。終盤 佐伯が本音を熱く語ったことによって、高宮も想いに答え出したシーンは感動した。
・佐伯と会話を繰り返していくうちに、囚人達それぞれに何かしら生まれているように感じた。
・世界的には死刑制度は反対という流れが主流だが、被害者遺族の方々の気持ちや様々な状況もあるので、やはり完全に死刑制度を無くすことは出来ないのではと思う。
・大杉さんの意欲作であり遺作となったこの作品は、非常にインパクトが残る作品だった。
死刑囚の六人の心を、すべて受け入れ、対峙しようとする佐伯が、だんだ...
死刑囚の六人の心を、すべて受け入れ、対峙しようとする佐伯が、だんだんと心を擦り減らし、見透かされ、お互いが暴かれていく様に、
「死刑囚」だけの映画ではないのだなぁ、と痛感しました。
あれはきっと、佐伯も六人それぞれも、どこにでもいるひとなのだと思う。
自分を強く見せようとしたり、寂しがりで喋り続けたり、愛されたいが暴走して錯覚したり、弱さゆえに手段がわからなかったり、お人好しで逃げ方を知らなかったり。
高宮、不愉快極まりないキャラクターで、彼の正義を実行してしまったことが大きな過ちではありますが、
不純物の一切ない考え方や、(正義ではないけど)実行力は正直魅力的に感じました。
あんな風に、素直に疑問を口にできない。
その高宮に触れて、佐伯も自分を暴かれていくから、佐伯も罪を懺悔をしているように錯覚して、
わたしには「死刑囚六人」の映画ではなくて、「人間七人」の映画だった。
劇中に出てきた、「穴を穴として見つめる」というセリフが私には救いで、あれがなかったら、もっと映画の世界に呑み込まれてしまったと思うし、六人が、死刑に相当する罪を犯したことも忘れて庇ってしまいそうになった。
それほど人間味のある内容だった。
演技力・・。
俳優の力量こそが、この映画の核にある。
こんなにも生理的嫌悪感を感じざるを得ないのか、という高宮を演じる玉置玲央
虚言癖のみすぼらしい中年女性野口。こんな烏丸せつこに吐き気を催す。
進藤・・ホームレスの役なら、この役者、五頭岳夫。しかし、邪気のなさゆえ、自らの罪に気づかない。
普通の平凡な夫・小川が、一瞬に狂気に変わる。しかし、その後枕カバーの交換を心配するという日常性と突発的な暴力性を演技した小川登。
ストーカー男性のデフォルトそのものかと思わせてしまう鈴木こと古舘寛治。
光石研は、人に対しては器量を大きく見せる、しかしながらその実は極めて器の小さい組長吉田を演じていた。
もちろん、牧師佐伯の大杉漣はそれをストーリーの中で束ねてかなければならないわけだが。
この映画は、それぞれの俳優の力量こそが命なのだとつくづく感じる。
ところで、
先日NHKの某ラジオ番組で、ネタバレしないように気をつかいながら、この映画のラストシーンこそ見ものであると言っていた。
個人的な意見では、残念ながら、その点はそうでもない。
展開からだいたい、予想がつく「言葉」である。
少年時代の回想シーンとラストの場面、確かに映画の中では重要な意味付けを与えることになるのだろうが、いささか安易な流れに走ったような気がしてならない。
言うなれば、佐伯の過去は必要なかったし、ラストの「教誨」の言葉をも必要なかった。
生きているから生きる
教誨師と死刑囚の会話劇。一室からシーンが変わることはほとんどなく、殺人犯たちとはいえ過激な描写があるわけでもない。それでも飽きさせず世界に入りこませる映画でした。それぞれの死刑囚の起こした事件や裁判についての詳しい言及はなく、ただ対話を進めていくことだけで死を前にした死刑囚の葛藤が生々しく伝わってきた。死ぬのなんて怖くない、そんな風な口ぶりだった死刑囚達も執行日を目の前にして平常でいられなくなっていた。とにかく演技が生々しくいい意味で気持ちが悪かった。高宮は最後に先生の耳元でなにを言ったんだろう。
全22件中、1~20件目を表示