教誨師のレビュー・感想・評価
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教誨室の外側へ
この映画のキーワードを挙げるならば「霊性」だろう。
6人の死刑囚たちと、大杉漣演じる教誨師の佐伯との密室の会話劇。
ほぼ全編で本作の舞台となる教誨室には霊の気配が漂う。
大杉漣(エグゼクティブ・プロデューサーとしても名を連ねる)が急逝した、ということも相まって、なのは事実だけど。それを差し引いても、本作には、いまはもうこの世にいない死者の存在が強く感じられるのだ。
死刑囚ということは、全員が人を殺している(はず。厳密には死刑となる犯罪は内乱罪などもある)。
誰かを殺したから、彼らはそこにいる。
そして佐伯にも事情があった。彼もまた、その事情により牧師を職業に選び、ここに来ている。
死者たちに招かれ、出逢った死刑囚と教誨師。
そこに死者の気配が漂うのは必然であろう。
そして、この映画に登場する教誨室は不自然な形をしている。なぜか長い三角形をしているのだ。そのため、佐伯を捉えるカメラの背後には、いつも暗がりが映る。奥行きのある暗い空間が、何かの存在を思わせる演出が効いている。
そして本作は、「国家による殺人」とも言える死刑制度についても、大いに考えさせられる。
物語のスタートでは密室劇だった本作だが、やがて少しずつ「部屋の外」が映画に登場してくる。
始めは外の天気。やがて、佐伯の過去。そして死者たちが、スクリーンを侵食してくる。
それとともに、教誨師を務める佐伯の言動も、徐々に制度や枠組みの中だけでは抑えきれなくなる。
ラストに、ようやくカメラは教誨室、そして拘置所さえも出て、外の景色を捉える。
命という人間の根源と、法という国家の基盤が交差するのは、拘置所の中だけではない。私たちの日常とも繋がっていると感じさせるラストである。
大杉漣さんだったから重みがあった。
タイトルなし(ネタバレ)
☆☆☆★★
神に仕え、教誨師として死刑囚に寄り添って行こうとするも。なかなか自分の理想と現実との狭間に苦しみ、1人心の中で葛藤する教誨師の姿。
上映終了後にイベント有り
1つだけ!
元々演じる事を念頭に書かれただけに。大杉漣演じる教誨師が、そのまま彼の人生そのものとなっている。
但し、観客にこの主人公の人生背景を詳しく伝える為に入れられたと思えた回想場面。そしてそれに繋がるのが卓上カレンダー。
ここは寧ろ、回想場面を無くし。カレンダーが勝手に…と描いた方が、神に仕える者としての普遍性が増したのでは…と、思ったのだが。
6人の死刑囚の中では、烏丸せつこが絶品だった!
あ?2つになっちゃった(^_^;)
2018年11月1日 スバル座
罪人の意味とは
忘備録として印象的だった台詞を。
人を知るというのは理解することではなく側にいること。
同じ言葉で言い表わしても自分と相手の中で思い描くものが同じであるとどうして言えるか。
死刑囚と教誨師ってこういう感じなのかと
きれいごとではない世界
今見るべき。ネタバレ含みます。
人の命を奪った死刑囚、死刑囚の命を奪う政府。矛盾した現実をストレートにぶつけられ苦悩する教誨師。フィクションだが今も現実に起きている事象であり、色々と考えさせられる。若者と教誨師のシーンは特に見所で禅問答を思わせるような言葉のぶつけ合い。屁理屈にも取れるが妙な説得力もある。実際に起き日本中が衝撃を受けたあの事件を連想させる人物も出てくるので見るなら絶対今だろう。
眠れなくなりました
人の生死を人が決める死刑制度。私は死刑肯定派です。だって「日本では」被害者は武器を持てないまま弱い立場で殺されてしまうのだから。
そんな有利な状況で2人以上を殺す人は、やっぱり死刑という罪を受け入れるべきと思う。
ただ、この映画で宗教的な意味で神に罪を許された死刑囚について、人は許さないことはいいのだろうかと考えてしまうとよくわからなくなりました。
色々難しい。
重苦しさのなかに一筋の光も
希望
大杉さんの遺作に相応しく、生と死について深く考えさせられる作品!
私は、個人的に教誨師と言う職業に凄く興味が有ったので、この作品とても気に入りました!
ですが、本作を自分は好きだから、みなさんに、どうぞ観たら良いよとドンドン薦められる様な性質の作品でも当然無い訳です。
決して万人向けの作品ではないのですが、教誨師の行う仕事内容を判っていて、尚本作を観られた方々はおそらく、私同様にみなさん満足して、映画館を後にする事が出来たのではないだろうかと想像していますが、どうでしょうか?
主人公の職業上、映画の95%は教誨師と死刑囚との1対1の会話が続くわけです。
映画では、死刑囚が6人も登場するので、それぞれの受刑者に個性を持たせて描いていれば、観客は飽きずに楽しめるだろうと言う事でも決して無いです。
確かに本作では、なるべく観客が飽きない様な工夫は施されてはいましたし、多くの場面で笑いが出るように作られていました。でも所詮は塀の中の人々の言い分を描いている事なので、一般の観客である我々がそう簡単には、彼らの話に感情移入すると言う事も中々困難です。
そこで当然、観客の殆どの人達は自然と大杉さんの演じる教誨師に自己を投影する事になる。
そうするともう自然と劇中の話の総てが他人事ではなくて、自分に投げられた直球に変化して来るから不思議ですね。
作品の中で交わされた会話の総てが自分へ語られた言葉になる。
どんどん会話の世界に引き込まれていく事になるのです。
すると、カメラが固定されていて変化に乏しい筈の画面を観続けていても、決して飽きません。
更に、教誨師が対峙する様々な死刑囚との会話の中で生まれる彼の葛藤や心理的な変化、やがて明らかになる教誨師の抱える苦しみも、気が付くと観客も追体験しているような錯覚になります。
何だか、急逝された大杉さんが、初めてプロデュースしてまで、本作を撮りたかったと言う気持ちも迄も理解出来る気がしてくる。
本作は映画ではあるけれども、物語の性質上、舞台劇であっても全く不思議ではありません。
最近公開された「累」も舞台劇の様な要素が沢山有りましたが。本作には「累」の様な派手シーンは全くありません。あちらが仮に動の世界なら、本作は静の世界でしょう。
本作はあくまでも静かに会話だけが交わされていくのですが、きっと観客の心の内は静の世界から動の世界へと大きく揺さぶられる事になったと思います。
この秋じっくりと、自分の感情を見つめて過ごしてみようと考えておられる方には、本作は最高のプレゼントになるのではないでしょうか。
そしてこの作品のラストがとても効果的な終わり方で、とても気に入りました。
是非、御一人で過ごすお時間が有ったら本作観て欲しい気がします。「何だ、結局お前は本作を薦めているだけで、これはレビューでも何でもないじゃないか」と思われるでしょう。でもやはり私は本作の世界を堪能して欲しい!あなたにもこの死刑囚たちに出会って欲しい。それが本作に触れた私の正直な気持ちです。
大杉さんの早過ぎる死を悼み、ご冥福を心からお祈りします。
いやぁ,こういう趣旨での1人1人は難しいんとちゃうの⁉︎
現存する世界宗教の限界を感じた
死刑囚の改心の一助となることもなく、
ただ話を聞くことしかできない主人公。
キリスト教の牧師さんという設定なのだが、
キリストの言葉も聖書の引用も、賛美歌も
何一つ死刑囚たちの心に響いていない。
「魂のぶつかり合い」などのキーワードが広告に踊るが
まったくそうとは思えない。
単なる自己顕示欲と自我我欲。死にたくないと言う執着。
キリスト教に改宗した人には、ふさわしい言葉を伝えられたのか。
「キリスト教でよかった」と思わせる、魂に刻まれる言葉を。
そういうシーンはひとつも出てこない。
人間の悲哀を伝えるという意味だけに置いて存在価値があるかもしれない。
でもただそれだけ。
キリスト教も、仏教も、イスラム教も、
既存の宗教の形骸化が悲しく実証された映画。
全ての宗教を包括するような、新しい教えこそが必要と
強く強く感じさせてくれたことだけがよかった。
大杉漣の役者魂を感じる濃密な作品
自分の運命との向き合い方が様々な6人の死刑囚との対話劇。拘置所の一室での場面が作品の大半を占めるが、そこでの教誨師と死刑囚のやり取りは一言一言の重みをひしひしと感じる真剣勝負。来たる死を前に虚言を弄して平静を装う者もいれば、自己の正当化に懸命な者もいる。でもそれらは全て死への恐怖から逃れたい一心の身勝手な行為である事をこの作品は図らずも曝け出す。一方、教誨師の仕事は無償だと言う。では彼はなぜこの仕事を引き受けるのか?その問いから教誨師自身が負う心の蹉跌も明らかになる。人の心の深淵を炙り出すようなこの作品の主役はやはり大杉漣。いぶし銀のような彼の演技無くしてはおそらくこの作品は成り立たなかったと思う。彼がくれたこの濃密な二時間に感謝です。もっと彼の作品を観たいと思うのですが、本作が最初で最後の作品とは残念。合掌。
穴をのぞいたその先は…。
・生きるとは?死刑制度とは?裁判員制度って?等々…。非常に難しいテーマで、いくら考えても明確な答えは見つからないと思う。
・高宮とのやり取りが一番印象的だった。終盤 佐伯が本音を熱く語ったことによって、高宮も想いに答え出したシーンは感動した。
・佐伯と会話を繰り返していくうちに、囚人達それぞれに何かしら生まれているように感じた。
・世界的には死刑制度は反対という流れが主流だが、被害者遺族の方々の気持ちや様々な状況もあるので、やはり完全に死刑制度を無くすことは出来ないのではと思う。
・大杉さんの意欲作であり遺作となったこの作品は、非常にインパクトが残る作品だった。
6人に真剣に対峙すればするほど、息が苦しくなってくる
※(注意)感想を書く上でばっちりとネタバレしてますので、鑑賞前の方はご遠慮された方がよいですよ。
はじめ、「教誨師」というタイトルを聞いた時、堀川恵子の同名著作の映画化かと思ったがそうではないようで、かの本は浄土真宗の僧侶だが、こちらはキリスト教の牧師であった。それもまだ着任半年で、経験が足りないゆえの焦りや戸惑いがあった。むしろ、教誨という仕事に慣れきれず、未だどこかに新米臭さを残すには、半年と言う設定は絶妙だなあとも思った。
そんな佐伯にとって、ワンステージ、ワンステージ、どこかから何かに襲われるんじゃないかと警戒しながら身構えているような、緊張感の連続。そのせいか幻覚(と解釈していいのか)を見てしまったりなど、すでに死を約束された人間と対峙するのは半端な覚悟では務まらないのがよく伝わってきた。
そんな密室である教誨室は、三角形の間取りをしていた。僕は、佐伯の背後にある空きスペースの暗がりが気になって仕方がなかった。なぜこんな部屋なのか?と考えた。おそらく拘置所においては、所長の軽い態度に見受けられるように、「教誨」という活動が低く見られているのではないだろうか。きつい言い方をすれば、死刑になる者にたいする処遇だから空き部屋をあてがっておけばいいよと扱われているじゃないだろうか、と邪推してしまうのだ。そんな誘導さえも、この映画の演出の巧妙な罠なのだろう。
そして、ようやく佐伯が仕事を終えて所外にでると、ふだんと変らない日常がある。平和な田園風景、妻の愚痴、こちらまで伝わってくるような涼やかな風。息が詰まって仕方がなかった僕も、ようやく休息が訪れた解放感であった。そんな瞬間に、最後の「仕掛け」が待っていた。
あなたがたのうち だれがつみをせめうるのか
佐伯同様、僕もハッとして背中に冷たいものが走った。
それは、気の弱い老人進藤が覚えたての字で書いたのか?いや、そうじゃないだろう。佐伯自身が、ずっと自分自身に問いかけている悩みなのだ。それが幻覚として見えたしまったのだ。そしてこの言葉こそが監督のメッセージなのだろう。
出演者の中では特に、理路整然と佐伯に問答を挑んでくる高宮を演じた玉置玲央が存在感を出している。面談のときのふてぶてしさったらない。弱者を狙った卑劣な犯行という背景から察するに、先日の相模原で起きた障碍者殺人事件がモデルのようにも思える。高宮は殺人の動機を、イルカを引き合いに出して「知能の低いバカは殺したっていいんだよ!」(台詞は大意)とまくし立てる。でもそれは、仕返しをしてこなさそうな弱気な奴と見定めて因縁吹っ掛けるチンピラとおんなじなんだよな。だから、肝が座り切っていない彼は最後のあの時、怖気ずくんだ。そして、倒れこんだ彼は、佐伯に何か耳元で囁いたように見えた。その言葉に佐伯がたじろんだようにも見えた。それがなんて言ったのか、言ったように僕が見えただけなのか、気になって仕方がないのだが、この先、この映画を思い出すたびにその問答を僕自身にずっと問いかけてみるのも悪くないと思った。
この日、上映を終えて、初日舞台挨拶。いい映画の舞台挨拶は、鑑賞後がいい。登壇した役者の表情が生き生きとしている。
出てきたのは監督の他、6人の死刑囚。大杉連はパネルで登場してきた。思い思いに大杉との思い出を語る中、やはりドラマ「バイプレーヤーズ」で共演した光石研の言葉に注目が集まった。
去り際、烏丸せつ子がパネルの大杉の肩口あたりにそっと手を添えて優しく微笑んだのが印象的だった。
タイトルなし(ネタバレ)
死刑囚の六人の心を、すべて受け入れ、対峙しようとする佐伯が、だんだんと心を擦り減らし、見透かされ、お互いが暴かれていく様に、
「死刑囚」だけの映画ではないのだなぁ、と痛感しました。
あれはきっと、佐伯も六人それぞれも、どこにでもいるひとなのだと思う。
自分を強く見せようとしたり、寂しがりで喋り続けたり、愛されたいが暴走して錯覚したり、弱さゆえに手段がわからなかったり、お人好しで逃げ方を知らなかったり。
高宮、不愉快極まりないキャラクターで、彼の正義を実行してしまったことが大きな過ちではありますが、
不純物の一切ない考え方や、(正義ではないけど)実行力は正直魅力的に感じました。
あんな風に、素直に疑問を口にできない。
その高宮に触れて、佐伯も自分を暴かれていくから、佐伯も罪を懺悔をしているように錯覚して、
わたしには「死刑囚六人」の映画ではなくて、「人間七人」の映画だった。
劇中に出てきた、「穴を穴として見つめる」というセリフが私には救いで、あれがなかったら、もっと映画の世界に呑み込まれてしまったと思うし、六人が、死刑に相当する罪を犯したことも忘れて庇ってしまいそうになった。
それほど人間味のある内容だった。
演技力・・。
俳優の力量こそが、この映画の核にある。
こんなにも生理的嫌悪感を感じざるを得ないのか、という高宮を演じる玉置玲央
虚言癖のみすぼらしい中年女性野口。こんな烏丸せつこに吐き気を催す。
進藤・・ホームレスの役なら、この役者、五頭岳夫。しかし、邪気のなさゆえ、自らの罪に気づかない。
普通の平凡な夫・小川が、一瞬に狂気に変わる。しかし、その後枕カバーの交換を心配するという日常性と突発的な暴力性を演技した小川登。
ストーカー男性のデフォルトそのものかと思わせてしまう鈴木こと古舘寛治。
光石研は、人に対しては器量を大きく見せる、しかしながらその実は極めて器の小さい組長吉田を演じていた。
もちろん、牧師佐伯の大杉漣はそれをストーリーの中で束ねてかなければならないわけだが。
この映画は、それぞれの俳優の力量こそが命なのだとつくづく感じる。
ところで、
先日NHKの某ラジオ番組で、ネタバレしないように気をつかいながら、この映画のラストシーンこそ見ものであると言っていた。
個人的な意見では、残念ながら、その点はそうでもない。
展開からだいたい、予想がつく「言葉」である。
少年時代の回想シーンとラストの場面、確かに映画の中では重要な意味付けを与えることになるのだろうが、いささか安易な流れに走ったような気がしてならない。
言うなれば、佐伯の過去は必要なかったし、ラストの「教誨」の言葉をも必要なかった。
生きているから生きる
教誨師と死刑囚の会話劇。一室からシーンが変わることはほとんどなく、殺人犯たちとはいえ過激な描写があるわけでもない。それでも飽きさせず世界に入りこませる映画でした。それぞれの死刑囚の起こした事件や裁判についての詳しい言及はなく、ただ対話を進めていくことだけで死を前にした死刑囚の葛藤が生々しく伝わってきた。死ぬのなんて怖くない、そんな風な口ぶりだった死刑囚達も執行日を目の前にして平常でいられなくなっていた。とにかく演技が生々しくいい意味で気持ちが悪かった。高宮は最後に先生の耳元でなにを言ったんだろう。
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