「最後の対話」教誨師 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
最後の対話
死後に公開された大杉漣最後の主演作。
全編ほとんど密室での会話劇。
派手な展開は皆無で、地味で淡々とした小品。
大杉漣が企画を気に入り、プロデュースまで兼ねてくれなければ、完成はもっと困難だっただろう。
しかし大杉漣の名演としっかりとした内容で、上質の人間ドラマとなっている。
死刑囚と対話し、彼らの心に寄り添い、救済と改心へと導く牧師、“教誨師”。
教誨師である佐伯は、拘置所にある“教誨室”にて、月に2度、6人の死刑囚と対話する。
6人の死刑囚は性格も性別も年齢も何もかもそれぞれ。
心を開かない無口な男。
気前のいいヤクザ。
お喋りな関西中年女。
老ホームレス。
家族思いの父親。
自己中心的な若者。
各々癖があり、対話する側も大変。
無口な男と父親は静か過ぎて対話がなかなか進まない。
ヤクザは逆に馴れ馴れしい。
関西女もそのタイプかと思いきや、突然情緒不安定に。
最も面倒なのは、自己チュー若者。博識ある事を盾にして、世の中全てを見下すような物言い。
見てると、本当に死刑囚なのか?…と思えてくる人物も。
全く反省の色ナシの自己チュー若者は例外として、家族思いの父親もさることながら、老ホームレス。
子供のような性格で、読み書き出来ず、佐伯に読み書きを習う。キリスト教信者へなりたいと申し出る。
彼らがどんな人間で、どんな罪を犯したのか、回想形式で語られたりはしない。
その必要は無いからだ。
見る側も佐伯と一緒になり、彼らがどんな人間でどんな罪を犯したのかより、今の彼らと向き合う。
その対話を通して、彼ら一人一人の人間性や背景、内面を浮かび上がらせる。
それどころか、本心まで考察させられる。
普段はどんと構えていたり、卑屈なのに、いざとなると、やはりそうであった。
次は自分の番じゃないかと恐怖し、遂にある一人の死刑が執行される事になり、これまでの強気な性格が嘘かのように激しく動揺する。
そこに、ザマアミロ、という感情は無い。初めて、本当は弱く脆い内面を見た。
その一方…。
まともに思えたある人物の本心。
罪を悔いてるように見えて、実は自分が罰せられる事に疑問を呈している。
一筋縄ではいかない人間各々の姿。玉置玲央、烏丸せつこ、五頭岳夫、小川登、古舘寛治、光石研、個性的な彼らの賜物。
対話する事で相手の心を開く事が出来たと思えた。
が、対話だけでは全てを分かりかねない。
では、何故対話を…?
対話を通して人を救済する事が出来るのか…?
それはただの自己満足なのか…?
佐伯にはある過去が。
ズバリ言うと、罪を背負っている。
自分が犯した訳ではないが、自分のせいで…。
そしてその時、大事な人を救えなかった。
人を救うなんて口では容易く言えるが、実際は難しい。
罪滅ぼしなんかでもない。
もし、人が人を必要としている時、対話を通じ、傍に居て、寄り添ってやる事が出来れば…。
相手を救うなんて大層な事は言わない。
微力ながら、せめてもの何らかの、助けになる事が出来るかもしれない。
映画を観るという事は、その作品や携わった人々、登場人物や演者と対話していると言っても過言ではない。
最後の主演作でこんなにも、大杉漣さんと対話出来た事を光栄に思う。