「罪は何によって償うことができるのか」教誨師 bloodtrailさんの映画レビュー(感想・評価)
罪は何によって償うことができるのか
重かった。それは予想通りでしたが、「安直に死刑制度に対する疑問を投げかける映画」じゃ無かった。もう、ホントに真面目に考え始めると気が滅入ってしまう内容。登場人物が自分の口で語ってくれるのでリアルに訴えかけるものがあり、映像化する意義はあると思う。
宗教の役割と意味。現実の契約社会における罰と赦し。その狭間に自ら望んで身を置く教誨師。重い話だろうなとは思っていたけど、ここまでフェアに問題提起している映画だとは思っていませんでした。
殺人の法定刑は死刑ですが、実際には、おそらく二人以上の人命を奪わない限り裁判により死刑を宣告されることはありません。よって、ここに登場する人物は、複数人の命を奪うか、複数回に亘り奪おうとした事実があり、極刑を言い渡された、社会的に観れば極悪人である訳です。
犯した罪がうかがい知れるのは、6人中4人。
*家族三人を撲殺した小川
*17人を殺害した高宮
*リンチ殺人を首謀した野口
*ストーカー殺人で女性とその家族を殺害した鈴木
「罪と向きあい自分が奪ってしまった命に対する贖罪」と言う点において、教誨師の佐伯の目には、この6人はどう映っていたのか。
小川は死刑を、おそらく受け容れていますが、それは単に「家族の前から姿を消してしまいたい。いっそ死んでしまいたい」と言う気持ちからだと思われ。他の4人は極刑を宣告されるカギとなる「矯正不能と判断される」のも致し方無しな人格です。鈴木に至っては、身の毛がよだつ。
文盲の進藤は、「刑法上の赦し」と「宗教上の魂の赦し」を混同している様にも見えますが、これが主題につながります。
佐伯は、少なくとも死刑を否定していません。疑問も持っていないでしょう。神父ではなく、牧師という立場の設定は、それをうかがわせるものなのでしょう。ただ、死刑の執行の前に「神の赦し」を得て「魂を救いたい」と言う一心。ここに、「自分の代わりに殺人を犯した優しかった兄」の姿が被り、物語をより一層複雑に、かつ深く重いものにしています。
立場と状況次第では、誰もが罪を犯す可能性がある。だが犯した罪は償わなければならない。洗礼を受けることになった進藤のメモに、佐伯は絶望します。「あなたがたの罪のために、わたしはいのちを捨てます。だからあなたがたも救いという主のゆずりの地を受け継ぎなさい。」と言うキリストの言葉は、現代の契約社会における「殺人」と言う罪の贖罪になりうるのか?と言う問いかけ。
宗教から一旦身を引いて高宮と向き合った佐伯は、高宮が心の底から後悔をし始めたことを察しますが、彼は死刑台に上ることになります。「矯正不可能の判断」が誤りだったことをうかがわせる件なのですが、ここで観る者が何を思うのか。
死刑制度への疑問・否定、と言う立場に立たず、宗教と非宗教の両側面から「何によって罪を償わなければならないのか」を問う、すっごく深い、正解など無いテーマを投げかける、ある意味、どえらく迷惑な秀作でした。問題提起のカギになっているのは、高宮と進藤の二人です。
2019年の2本目。もたれてます、かなり。ちょっと、明日、口直しに行って来る。。。。。