「「子育て」を女の武器にする恐さ」母という名の女 maruさんの映画レビュー(感想・評価)
「子育て」を女の武器にする恐さ
ラスト、母アブリルが、赤ちゃんをダイナーに置き去りにするシーンに「自己中心的な人間」の根底が見えた。店員に子供用の椅子を持ってこさせて、座らせ、置き去りにする。ここで、カレンを育てていた・子育てをしていた理由が、娘の彼氏マテオに対するアピールだったことが判明する。最初は、孫がかわいいという理由だったが、徐々に娘の母親としての自覚の無さに自分の優位性を見出し、(この子は私が)という自己中心的な視点になり、カレン(赤ちゃん)に必要なのは私だと、カレンを育てることで自分の承認欲求を満たして行く。しかし、マテオを意識しだしたころから子育て=母性をアピールするためになり、子育ての目的が「子育て」ではなく「マテオによく見られるため」になっていく。マテオと暮し、日に日に子育ての目的が後者となり、娘がマンションの前に表れた際、ヒステリックに陥り、ダイナーに子どもを置き去りにすることになった。
マテオと別れることになった、そこで『子どもが必要なくなったから』。怖過ぎる。あのシーンは悲しさしかない。
ラスト、マテオと別れたバレリアの決断は、こどものためにはならない。
バレリアは、母と浮気したマテオが許せない。母も許せない。だが、サポートなしでは子どもを育てきれなかったバレリアもどうだろう、「仕方ない」では済まされない。母がいて育ったのも事実、これまでの困難が生まれなければ『母親』としての“覚悟”は、生まれなかっただろう。“自覚”はあったとしても、必要なのは“覚悟”なのだから。今までの自分とは違う『母親としての自分』の目覚めに高揚し、1人で育てて行く!という決断を感じさせるラストではあるが、現状、家は売りに出され、姉のサポートなしではやって行けない厳しい現実が待っている。
そんなバレリアの笑顔のあとに暗転するラストは、そんな先行きを感じさせる。
「母という名の女」にバレリアがならないことを祈るばかり。