「『来る』- 「それ」を笑うか試される 中島哲也作品」来る ninonさんの映画レビュー(感想・評価)
『来る』- 「それ」を笑うか試される 中島哲也作品
近ごろはレビューサイトで高評価の作品はますます観られてヒットし、評価が別れた場合は客足が遠のくらしい。賛否両論作品を映画館で「作品をこの目で確かめよう」とはならず、失敗しない方を選ぶのだとか。たしかに劇場映画で失敗はしたくない。
年明けに『来る』を音響設備の良い映画館で観た。視聴後の感想は、ものすごい不快感。面白いところもあったのだけれど感情的に不快。
この感情の元は何なのか? その理由を知りたくてレビューの中身を次々と読んでいった。すると「面白い。皆が理解しない」と「不快。説明不足」という内容が目立った。
本来、面白いと不快というのは地続きではない。反義語でいうならば、面白い vs. つまらない。気持ち良い vs. 不快。それが、なぜこんなレイヤー違いの反応に割れるのだろうか。
高評価者は、低評価者について「全てを説明しなくても分かるだろう」と理解のなさを攻撃し、低評価者は「原作と違う。説明が無い。分かりづらい」と制作陣を非難する。
中島監督自身は本作を一言で表現すると“お祓いライブ映画”だと説明している。つまりお祓いというクライマックスに向かって集約していく。怖がらせることや人間ドラマは要素扱い。ましてや最後に構造が理解できるミステリーでもない。
また、ネット上の感想には『シンゴジラ』に似ているというコメントも見られたが、来るものを祓うという目的達成の観点からは邪魔する登場人物が多い。庵野監督であればサッパリ知紗ごと祓うだろう。
この「お祓いに向けて進行していく」は(細部に入り込みすぎるが)神官の装束をする5名程がカプセルホテルで朝の支度をしているところが気になった。
会場では笑いが漏れていた。だが、カプセルホテルに泊まることになった理由は、意外な場所に潜み分散して移動するためだ。ユタ集団が道路上で交通事故に遭った。その気配を感じて能力者は分散移動。実行するなら様々なホテルや場所に少人数で泊まり、その一組がカプセルホテルと居るというのがより正しい進行だ。
つまり目的達成に向けた物語の整合性よりも、ビジュアルの面白さを取ったのだと思う。絵的な刺激の重視。
この繰り出される刺激が、観た時に沸き起こる不快の理由ではないだろうか。
端的には、それらを高見の見物ができるかどうか。
作中で子どもの手の中で蝶が羽をもがれる。子どもは小さい生き物を無作為に殺すことがあるといった台詞が入る。
この映画に登場する人物も中島監督から昆虫のように扱われている。あるある満載でいじられチクチクと刺激される。内面を白日の下に晒されて悪意やズルさをバラされる。
世の中に不幸や痛みを表現する作品はたくさんある。
作中の痛みが一定以上の強さになった時、(そんなに強くなくても)経験やトラウマや知識など、何かの理由で共感が発動して自分自身に痛みや後ろめたさが起こると「見ていられない」が発動する。
例えば、作品の中に拷問シーンがあると、その描き方によって「話の本筋から逸れず見ていられる人」と「目を背ける人」がいる。
いわゆる、捕虜収容所の男性器切断描写とレイプ描写。前者であれば、男性器を持つ人は「うわっ」と思い、そうでない人は他部位の切断と同じ程度の痛みの想像に留まる。これは見る人ごとに「自分の身に起こったら・・・」の想起力や共感力により違いがある。
人間関係、事故、どんな言葉を投げかけられるか。中島監督はこういう刺激を並列で並べ、それぞれを素晴らしくうまく、さもありなんと描写する。
葬式の親類縁者・地縁のわずらわしさ、結婚式の陰口、結婚生活の中の怒鳴り声や圧をかける行為、浮気、自慢、ネグレクトやシングルマザーの保育園お迎え事情、身体は傷つき、不条理で、孤独で、差し迫る貧乏・・・。
これら登場人物の周辺で発生するドラマや人間関係模様について、すべてを「笑って観ていられる」領域にいる人は少ないのではないかと思う。
正確に数えていないが、例えば人間社会のイヤさや不幸が30個描かれているとして、その中の1つを体験したことがあっても、1つだから平気という数の問題ではない。負荷の深度というのか、1個でもスマッシュヒットすると強い打撃だと感じてしまうのだと思う。
妻の香奈について、描写が原作と比較して不公平という感想は自分を置き換えて共感した人からのものであり、後輩の立場に自分を置くと、妻夫木君演じる夫の調子の良さがとてもイヤということになる。
そして、1つでも当たると・・・それ以外の出来事についても「それ」を笑うかどうかについて試されることになる 。
体験したことがなくても、残り29個のいわゆる「不幸」に痛みを感じる人がいることを想像して、笑っていいのか同情していいのかが分からなくなるからだ。
高みの見物力、つまり、社会や人間関係の中で身体性や共感を持つ個人として視聴するのではなく、ドラマと自分自身と切り離してコンテンツを観る力量が無いと、純粋に中島監督の映画作りの表現を堪能することが難しい。
チャップリンの言葉に「人生はクローズアップで見れば悲劇だが,ロングショットで見れば喜劇だ」がある。喜劇だと思えるには、どれほどの高みが必要だろうか。結果、この映画では、多くの人が視座を上げつづけることに失敗し感情を揺らしてしまう。
そして、この動揺や不快感により、この映画の不備な点を探し、誉める者の人間性を非難するということが起こっている。例えば「知紗が助かったのはいいけれど、人が死に過ぎているのはヒドい」という感想。殺傷人数で非難。量刑か。
元々、中島哲也作品は、映画化のために選択した原作自体が「嫌ミス」(イヤな気分になるミステリー)「いじめ」「闇堕ち」(登場人物が自己選択の結果、どんどんダークサイドに堕ちて悪人になっていく様)「DV・裏表がある人・恨み」の要素を持つものが多い。
そしてそれをスタイリッシュに表現することを面白い、興味深いという立ち位置だ。
世の中には、車で人を轢き殺すゲームもある。
受け取る世間の反応は割れる。そんなゲームの存在に眉をひそめる人、プレイに背徳的な笑いが止まりませんという人。さらに、このゲームを思いつき実際に作ってしまったクリエイターを「バカだな(敬意を含めて)」と称賛する人もいる。
中島作品ファンは、「よくもまあ、こんなすごい表現力でもって、悪趣味なものを作ったな」の称賛者なのではないだろうか。
このお祓いライブ映画は、人のジタバタを昆虫のジタバタほどにロングショットに捉えつつ、子どもの無垢マンセーと夢の世界オムライスの国の煌びやかさを映す。
観た人が共通して感嘆したのは、出演者の演技とキャラクター造形。
この比嘉姉妹作品はシリーズ化されるのだろうか。二作目もゲスな痛み満載。さらには叙述トリックもの。・・・中島監督のことだから、トリックは飛ばして、また刺激的な絵作りを重視するのだろう。
最後に。
この『来る』を映画館や自宅でご覧になる方へ。
仮にあなたが優れた映画鑑賞者だったとしても、隣で一緒に観ている人の表情が曇り、震えたり怒ったりした時は、そこからは笑わないでいてあげて欲しい。
「この面白さが分からないのか?」ではなく、人としての繊細で優しいのだと考えて欲しい。
そして、傷ついた皆さんへ。
この映画の”面白い”は、楽しい気分の“Fun”ではない。「よくもまあ」の嗤いと“Interesting”なのだ。
あなたが怒らなくても観客動員数はきっと少ない。