「停電とフェイスブック」ラジオ・コバニ よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
停電とフェイスブック
予告編に映し出される、廃墟というよりももはや瓦礫と化したコバニの街は、そこでとても恐ろしいことが起きたことを伺わせる。ほんの数年前まで、多くの人々の暮らしが営まれていたであろうその街で、いったいどのように人々が生活を取り戻すのか。そのことを知りたくて劇場へと足を運んだ。
瓦礫の中から掘り起こされる亡骸の数々。コンクリートの破片となった街と同様、それらはすでに人間の肉体ではない何かに過ぎなくなっている。
映像ではその臭気までは伝わってこないが、作業を眺めている少年は鼻を押さえている。
その遺体がISのものだろうと、コバニに住んでいたクルド人のものであろうと、もはや勝者でも敗者でもない。戦争が生み出すのは死者という敗者であり、肉親を失った敗者であり、体の一部を失った敗者である。ラジオ・コバニのパーソナリティ、ディロバン・キコの「戦争が生むのは敗者だけ」の言葉に重みが伴う。
映画には実際の市街戦の映像も使われている。素人同然の兵士が銃を撃ち、女性も無反動砲を放つ。しかし、驚くべきは、彼らが携帯電話を使用して味方との連絡を取っていることであろう。
この文明の利器は、現代の情報通信技術の粋を集めた高価な道具であるにもかかわらず、世界のどのような辺境にも普及している。交通や電気が寸断された戦場にすら、それを使う人々がいることは驚きだ。
この利器は、やがて戦闘が終わり、街が再建へと進み始めたときにも人々の生活に浸透している。停電が日課となっている状況でも、若者はスマートフォンでフェイスブックを利用している。
ISには占領することができなかった街が、ITには常に占拠され続けているという構図。インフラが破壊され、住む家すら瓦礫となっても、スマホが使えなくなることはない。IT強し。
しかし、資本主義と同様、どれだけそれが発展を遂げても、世界の平和に貢献することはないこともまた事実であることが、映画からは透けて見える。戦争に美談なし。