心と体とのレビュー・感想・評価
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かつてない不思議で神聖な余韻をもたらしてくれるラブストーリー
ハンガリーから届いた本作は、心と心とが静かに繋がり合っていく、そんな不可思議だが美しい瞬間に満ちたラブストーリーだ。20年ほど前、『私の20世紀』というモノクロ映画で高評価を獲得した監督が放つ久方ぶりの新作。奇しくも『レディ・プレイヤー1』や『ジュマンジ』では登場人物がゲームやバーチャルリアリティ内で異なる姿へと変身を遂げるが、本作における「夢」の中で見ず知らずの男女が何故か鹿になって出会うという設定も、これらと少し似ているのかもしれない。そこではあらゆる外見やハンディキャップを超えて、彼らは心と心を寄せ合い、自ずと惹かれあっていく。一方で男女が働く生肉処理工場は、命のやりとり、食の現実、そして魂そのものにも目を向けているかのようで、綺麗事だけではない崇高な視座や余韻をもたらしてくれる。おかしくて、可愛らしくて、しかし時々、厳粛な気持ちにも包まれ・・・こんな映画、他では滅多に出会えない。
メタファーの難しさ
2018年ハンガリーの作品
非常にメタファーで解釈が難しい作品
物語は屠殺場の財務責任者のエンドレと、出産休暇の代替としてやってきたマリアの物語となっている。
屠殺の瞬間は映像にないが、その直後の映像は見る人に大きな影響を与えるのは間違いない。
そしてそれらのことがあって我々は肉を食べることができる。
牛という生き物が肉というモノに変えられる瞬間があの場所
エンドレは面接に着た若者に「憐れみを感じないならば、この仕事は不向きだ」というが、確かに正気を保っているのは難しい気がする。
この場所をモチーフにしたのは、これが人間社会の仕組みで、最も酷な場所であって、心を閉ざさなければならないことで、加えてその延長線上にいる人間は少なからずその影響を受け続け、心や体が壊れてしまうという暗示なのかもしれない。
左腕が不自由なエンドレ
心が不自由なマリア
マリアは人との身体的接触を極端に避け、感情表現も非常に抑制している。
彼女は自閉スペクトラム症に近く、感覚過敏や社会的コミュニケーションの困難さがある。
彼女が手を握られることに強い拒否反応を示す場面などは、まさに接触恐怖症的だろう。
「鑑定士と顔のない依頼人」の主人公と同じだ。
二人は同じ夢を見ていた。
シカ
シカはおそらく自由の象徴
心や体の不自由さから自由への憧れをシカに例えたのだろうか?
社会構造が身体的自由を奪い、また心の自由を奪っている。
物語はその不自由さをAIとブレインマシンインターフェイスに置き換えた「攻殻機動隊」のようには持っていかず、お互いの欠点を認め合える世界に方向を向けた。
さて、
エンドレは老人であり妻とも別れ性的にもステージから降りた人物だ。
彼は娘がお金の都合を依頼してもOKせず、孤独な日々を過ごしている。
それはマリアも同じだが、何故この二人が主人公なのだろう?
何故親子ほど離れた年齢の二人だったのだろう?
エンドレは元妻か元カノかを呼んでSexし、やるだけやって「帰れ」という。
そこには満たされない気持ちと、マリアへの未練がある。
それ故に、「友達でいよう」と言ったにも拘らず電話を掛けてきた。
手首を切り血が溢れ出していたマリア
携帯電話に着信したのは間違いなくエンドレだとわかった。
絶望からの光
接触恐怖症を何としても克服したい彼女は、積極的に取り組んだ。
ただ、時間が必要で、ずっとモヤモヤしていたエンドレには少し長すぎたのだろう。
結ばれた二人はもうシカの夢を見なくなった。
不自由を克服した二人には、シカはもう必要なくなったのだろう。
この作品は、
人間社会のしている事実を背景に、命をモノにしてしまう構造と、それを知らない無数の人々は、動物たちの無言の声によって心も体も壊れていくのではないかと警鐘を鳴らしている。
そしてその壊れた体と心は、許し合い認め合う人間性によって補うことができると言っているのかもしれない。
エンドレが老人だったのは、老人にも未来はあると言いたかったのだろう。
最後の歌は、失恋を謳っているが、それは戦争によって引き裂かれたことを告げていた。
戦争も人間社会も否応なしだ。
このどうしようもない世界の中で、最後に通用するのが「許し合い認め合う人間性」なのだろう。
今回は完全に妄想的解釈だった。
寝ましょう
ものすごく好きなのに、伝わりきらない
心と体は人間が「生きる」ということの両輪だ。「心と体と」で出逢うマリカとエンドレは、その片側に複雑さを抱えているのが興味深い。
エンドレの場合はわかりやすい。登場人物たちからの言及もあるし、少し観ていれば「左腕が動かないんだな」とすぐにわかる。
また、年齢を重ねたことで自分の魅力についても自信がなく、人生の実りの時期を迎えて「愛は自分のもとを過ぎ去った」と感じているであろうことも想像に難くない。
一方のマリカは内面に複雑さを抱えているので、最初は彼女の事がよくわからない。単に几帳面なのか、思いやりに欠けるのか、人付き合いが苦手なのか、判然としないのだ。
徐々にマリカという人物を理解していくのは、エンドレも観客である私たちも一緒である。
そんな「普通」と一線を画した二人が親密になるきっかけが「同じ夢を見ている」という事実だ。
しかも、互いが雌雄の鹿として互いの夢に登場するという不思議さ。
簡単に言うと、「夢で逢っている」状態だ。
こんな状況で運命を感じないわけがない。
エンドレは夢の中での逢瀬をきっかけにマリカに恋愛感情を抱いているのがすぐにわかる。
で、マリカも同様にエンドレに夢中になっていくのだが、それが全然エンドレに伝わっていないのだ。もどかしすぎる!
レゴの人形でのリハーサルや、雑貨店での化粧水のやり取りなど、細やかで繊細なディテールがシンプルなストーリーと美しい映像にマッチしていて、全く観ていて飽きない。
精神的にはお互いを求めて止まない状況なのに、夢の中では野生の鹿としていつも行動を共にしているのに、精神が肉体を媒介にした目覚めの瞬間から二人はすれ違い続けてしまう。
肉体があることで、愛しあうという純粋な行為に社会性やコンプレックス等の不純物が混ざり、愛を伝える困難さが浮き彫りになる仕組みがとても面白い。
ピュアで王道のラブストーリーを堪能しつつも、いかに私たちの社会が「普通」を前提に成り立っているか痛感させられる。
体が「普通」で、心が「普通」な人間たちだけで構成されているかのようなシステムからはみ出した二人を、応援したくなる良質な恋愛映画だ。
鹿のシーンがとびっきり
相当独特なラブストーリー
美しい肢体のアレクサンドラボルベーイ
フレンチ・アート・コメディ
テンションひっくいなー
同じ夢
女性がキレイで美しくてファンタジーなのかと思いましたが……違いましたね
二人の寡黙さがよかったです
言葉よりお互いの事を思いやれるから
……あなたは美しい……雄鹿が優しくて(あなたが好きです)と言っている様に思えた 彼女は彼女なりに一生懸命アピールしてたし考えてた
同じ夢をみることはあるのだろうか
不思議な気もしますがそこもおもしろいと思った
彼女は彼と共通するところは同じ夢だから
雄鹿の優しさを彼に投影していた(わからないけど)
包み込む父親みたいな彼が彼女にとっては心地よさもあり話す歩調が合っていた(何となく)
鹿の夢を見なくなったのは二人が心と体がひとつになったから(年が離れていても思い合える人がいる)
彼女の微笑む顔が明るい
すごくきれいな映画
冒頭の鹿のシーンがキレイだなぁと思ってたら、
それが夢につながるなんて。ストーリー展開もキレイ。
その鹿のしぐさの愛くるしさや、動きのキレイさ。
この映像を見てから脚本作ったのかと思うほど。
色使いと距離感(カメラアングル)がとても上手い。
コミュニケーションが苦手で人付き合いができない彼女と、
人付き合いが面倒でコミュニケーションを放棄した彼。
寡黙な二人なので、心の変化を色合いや小物、距離感やアングルで表現。
映画は映像で語ってこそ映画。
初めて彼の家に行くシーン。
「眠れない」は、
彼の方は興奮して眠れないで間違いない。
彼女の方は?雑音がうるさいから?
他人への対応や、エアーベッドへの切れ方、
嘘の付き方、元家族への接し方など
彼の人間性が垣間見える。
せっかく心と体が結び合ったんだから、
どうか汚さないでおくれ。
彼女の。
心と体と。
良い映画
神秘的と言っていいのか迷う
この映画、新しいジャンルの幕開け。
ちょっと重苦しいんだけど、
時々笑いが抑えきれなくなるの w
これって監督の映画作りの「観る者たちへの配慮や優しさ」ですね。
暗い画面と、ひそひそ話の舞台設定で、あー、このままじゃ最後まで観るの辛いなーと、その思いがピークになる毎に「笑い」を配置してくれて、一気にこちらは二人の応援モードに引き込まれるのです。
これは「シンプル・シモン」でも感じたことでした。「笑い」は心の緊張を緩めてくれます。緊張が緩むと人を助ける行為が少したやすくなります。
マーリアは今までセラピストとしか会話をしたことのない娘。だから職場の上司に自然に惹かれたわけでもなく好きになったわけでもない。
同じ夢を見た、それだけが彼女の心に何かを起こしたわけで。
上司のエンドレを頑なにシャットアウトしつつも内なる衝動を診察室やアパートの布団の中で自己分析し、初めての対人関係に向けての助走を試みて孤軍奮闘するマリアが見ものです。
そこに登場するCD屋のお姉さんや職場のお掃除のおばちゃんのマリアの“病状”への察し方。マリアに無理なく接するセンス。とても良いんだなぁ!
難しい付き合いになるだろうことは想像も出来るが、今は二人の笑顔をこちらも幸せな気分で見守る、それで良いし、それが良いのだと思う。何か再び事件が起こったときには我々がCD屋のお姉さんや掃除のおばちゃんになればいいんだから。
それにしても、
僕らの社会にはいろんな人がいるのだと教えてくれる映画が数多く作られる時代になりましたね。
そしてこんなにアーティスティックに、そしてスタイリッシュに対人関係障害やサヴァン症の人間を「社会人」として登場させることも出来る、そんな映画人が出てきたことは、新しい時代の幕開けという気がします。
【好きなシーン】
・ブラウスが淡い暖色になりボタンがピンクになるところ。
・リスカの彼女がエンドレの麻痺した片腕を持ち上げるところ。
・陽光を求めて人々が空を仰ぐ冒頭シーンと日陰に後ずさりしていたマーリアもエンディングでは日光を浴びる。
・テーマソング、ローラ・マーリングの「What He Wrote」。韻がとてもきれい。
ハンガリー映画。PG12はと畜、ポルノ、自殺シーンのせい?
セックスシーンも二度入るが扇情的ではないしポルノ動画もほとんど映らない。
性に振り回されてる。
つがいの鹿のシーンが冒頭、これがきれい。夢のシーンながら非常にクリア。最後の駆けるシーンもずっと静だったので何か良かった。
食肉牛と畜場で牛が肉になるまでを描写。そんなに詳しくはないけど結構あっさり人の手により断首
食堂のあるシーンが最後の晩餐の絵に見えた。
心に障害のある若い女性と 身体に障害のある中年男性 が夢で繋がる。
主演女性が おばあちゃんのアドバイスを受ける前後できれいになる。
姿勢は大事。服も大事
主演女優の裸あり。
割ったガラス 手首を縦に切ったらものすごいドクンドクン言うて血が出てきたのでぎょっとした。やるやるっていうぞっとする前段階演出
食べる、寝る、セックスと本能を描きながら夢を絡ませたりしながらシュールでもなくちょっとした仕草を切り取るところとか、時折入る劇伴とかに魅了された。
ヨルゴス・ランティモスのロブスターなんかよりは全然分かりやすい。
出てくるご飯が軒並みおいしくなさそうやったり貧相なのはハンガリーあるあるなのか。何か意味があるのか。
この映画の中では鹿は神聖さの象徴
彼女の不器用さに不覚にも涙してしまった。えぐられた。
私はこの映画の彼役としては、
この俳優は好きじゃない。
ただ、夢の鹿と繋げてみると許せるのだ。
単なる鹿のドキュメンタリー映像なら、鹿の様子をここまで強烈に神聖には感じれなかったろう。
主人公の女性の親密になることへの恐れが際立っていた。
動物なら自然なことなのだが。
他者の行動に依存するというのは、自分がない、ということ。
元々はあるものも、抑圧されれば育たず埋もれて、あったことすら気づかない。
例えば親の教育だったり、学校教育だったり。
繊細であることが、マイナスに働く。
管理されて死んでいく牛逹も象徴的だった。
観るのも悲しい、辛い。
せめてもの弔いとして主人公の男性はそこに勤めているような。
この映画から人間も神聖さを取り戻す時だよ、というメッセージを私は受け取った。
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