「問題提起を含んだエンタテインメント作品」人魚の眠る家 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
問題提起を含んだエンタテインメント作品
ふたりの子を持つ播磨薫子(篠原涼子)。
夫の和昌(西島秀俊)は、ロボット技術を推進している会社の社長であるが、現在は別居中。
下の娘を小学校お受験を間近にしたある日、その娘・瑞穂(稲垣来泉)がプールで溺れる事故に遭ってしまう。
瑞穂は一命は取り留めたものの、ほとんど脳死状態。
医師の最終判断・宣告を待つばかりの状態。
しかし、薫子は「臓器提供を前提とした」脳死判定の行為そのものを受け入れることができない・・・
といったところからはじまる物語で、ひとの死とは何か、ましてやこれまでの人生途の少ない子どものそれをどう受け容れるべきか、という重い主題が横たわった映画。
なのだが、率直なところ、主題に真摯に向き合うよりも、観客の心情を動かし、感動させればよし、的な感じで作られているように感じて、冒頭から引き気味でした。
タイトル前の短いエピソード。
ノッケから仰々しい音楽で、ちょっと・・・。
幼い娘の瀕死の状態を受け容れるかどうか、ここいらあたりの中盤はかなり興味深く、映画的にも、社会派と(こういうと顰蹙かもしれないが)フランケンシュタインのモンスター映画的な側面があり、かなり興味深い。
そもそも、子どもの脳死というものがどういうものかわからない、というところから始まっているので、通常ならば自発呼吸もなく、延命措置をせねば心臓死に至るということがあらかじめ説明され、それでも一縷の望みをもって親はその子をの延命を願うのもわかる。
さらに(自発的でないにしろ)人工呼吸機が外れ、肉体的に成長することが可能ならば、それを「長期脳死」という言葉で受け容れ難いこともわかる。
なので、この中盤がすこぶる興味深い。
なのだけれど、終盤、過剰なほどのエンタテインメント(といっては語弊があるのかもしれないが)的な感動強要演出の修羅場・愁嘆場が登場し、ガッカリしました。
演出が過剰な上、そこで娘の事故の顛末が明かされる・・・って、事故の顛末、不要。
ただの事故でいいじゃない。やりすぎ・過剰すぎるよ。
この終盤の過剰演出が過剰すぎて、後半は、まるどエピローグの羅列にみえてしまうのは、映画としての主題を見失っている感もありました。
以下、個人的な蛇足感想。
娘を殺す、殺さない=娘が生きている、生きていないという、オン・オフ的発想には共感できない。
娘を傷つけ→傷害罪に問われる、問われないという方が、現実解的。切羽詰まっても、それまで大切に思ってきた娘を殺す(という意思)というのは、あまりにも身勝手過ぎて共感できなかったです。
とはいえ、少なからず(かなり大きい)問題提起を含んだエンタテインメント作品なので、まずますの評価はしたいです。