「きれいでした!」人魚の眠る家 トモーリスさんの映画レビュー(感想・評価)
きれいでした!
僕のバックグランドのせいでこの作品はとても感情移入しやすいものでした。それぞれの登場人物にも共感できる人はいるのではないでしょうか。
おばあちゃんの気持ち、弟の気持ち、妹の気持ち、星野さんの彼女の気持ち、脇役の気持ちまで非常にきれいに描かれているなと感じました。
彼女が目を覚まして母親に別れを告げるシーンがありましたが、あそこでちゃんと死ぬっていう展開がきれいに見えました。きっとこのようなお子さんを抱えている家庭は少なくないと思います。あそこで彼女が死ぬことでこの作品が偽りの希望にならなかったのだと思います。
またラストシーンの空き地もまたこの作品をきれいにした要素だと思います。あそこでみずほちゃんの家族に簡単に会うことがないことでハッピーエンド過ぎない演出になったと思います。
カメラワークにも工夫や、物語の構成、伏線の回収とかきれいに考えられてるなと、でも綺麗過ぎないのもまた、 作り手の良さが出てました。上から目線ですみません。
少なくとも僕が見た劇場のお客さんはみんな鼻をすすってましたよ。何か伝わるもの感じるものがあったのだと思いました。拍手
いい作品をありがとうございます!
まりえさん、bloodtrailさん
僕みたいなこんな映画ど素人相手に貴重なご意見ありがとうございます!
そして、僕の意見までも受け入れてくれてありがとうございます。
僕は原作を読むことは少なく劇場でのありのままの感想を綴っています。みなさんに知識量ではるかに劣ります。
ですがこうして1つの作品について話ができることが嬉しいです。
ありがとうございます。
今後とも何かお話できる機会があればまたよろしくお願いします。
トモーリスさんって、面白い方ですね、もちろん良い意味でですよ!深読みする人、要するに色々考えて映画見てる人が好きです。私も中途半端に深読みしますが。
ラストの屋敷前の解釈には、なるほどね、って思うところもあります。最後の場面はプロローグの答え合わせですが、いろんな表現が考えうるってことでしょうね。
ちなみに、堤監督は精神世界を肯定しているフシ(SPECシリーズ筆頭)があります。と、思ってます。最後のドローンもプロローグとの答え合わせだと、個人的には思いました。屋敷を見下ろす高さで止まったスタート画面。上空まで登っていく最後の場面。屋敷から離れられないみずほの魂と、空に帰って行く魂を表現、みたいな。勝手な深読みっすけど。
いずれにしても堤監督は、明確に臓器移植を肯定しています。ドナー側に、さまざまなドラマと想いがあるってのは理解しつつも。答えのない問題だから答えを言わない、と言うタイプの人じゃないでしょう。原作では、移植・脊髄刺激による運動補助、のどちらもが成果を上げて被施術者が幸せになる姿が描かれています。臓器移植も、ドナーが居ることを前提としている点が倫理で問題視され(騒ぐのは常に当事者ではない門外漢)、「人に許される範囲を超えている」と言われていました。東野さんも「その時点の技術でできることがあるならば、やるべき」と言ってるように思います。
トモーリスさん、bloodtrailさん
丁寧なご意見ありがとうございます。
こうして映画の感想を話し合える人がなかなかいないので楽しいです(笑)。
ラストシーンについては、トモーリスさんもbloodtrailさんもおっしゃるように、宗吾が播磨家の人とのやり取りがないほうがきれいであり、自然でもありますね。
私は瑞穂ちゃんの弟の生人くんがこれでラスト播磨夫妻が別れてしまってはあまりにかわいそうだなと思ったのですがそれはなさそうですね。
あれからレビューを書きましたが、映画ではラスト直前、瑞穂が薫子に見せたかったハートの木を親子4人で見ているし、離婚寸前だった夫婦が瑞穂によってやり直せたとも受け取れます。
お二人ともありがとうございました。
まりえさん、bloodtrailさんへ
貴重なご意見ありがとうございます、勉強になります。
和昌は最後に心停止が死を実感すると言っていました。だからラストシーンでドナー家族に会い鼓動を確かめることで、みずほちゃんの命はまだ生き続けている、彼女の他の人の幸せを願う性格の通り誰かのために生き続けているとわかった方が、機械で与えた偽りの希望より、この家族にとってははるかに希望となったのでは、と勝手に解釈していました。
また、映画では空き地を写した後、引きの画がやけに長く感じました。空き地に咲く花なんてまるで見えないみたいに、
東野圭吾さんはこんな物語を自分が書いていいのか?今でも悩んでいます。と言っています。重たいテーマです。答えなんてありません。きっとこの作品を見て脳死や臓器移植などの問題に初めて触れた人、深く考えるようになった人は多くいるのではないでしょうか?
あの引きの画は、ただ街を写してるように見えました。あんなに深刻な問題が小さく見えるかのように、深読みではあると思いますが、堤監督は、他人事じゃない!一見関係のない話に聞こえるが、苦しんでいる人はたくさんいる。そんな人たちに目を向け耳を傾けて考えることができるんじゃないか?って強く訴えてるように感じたんですよね、そんなことを知らずに生きてる自分たちがなんだか情けなくも思えるみたいに、
流石に深読みですね(笑)
心臓移植をし、命が譲り受け継がれて行くことの実感と希望を目の当たりにして幸福感を得るだけのラストシーンではなかったと感じました。
なのでハッピーエンド過ぎないと言う表現にしました。
まりえさんの解釈も気になります。差し支えなければお聞かせ願いたいです^_^
横から失礼
まりえさんへ
作者が更地にした理由は、「そうごが、あの少女の心臓の移植を受けたと言う事実に辿り着けなくする為」。そこに薫子が居て話をしようものなら、彼がドナーが誰かを知ってしまうからです。薔薇の香りにドナーを偲ぶ原作ラストを描く為の「作者都合」。
薫子家族や星野達の「今」の象徴は、老人の補助具、則ち星野の研究が結実している事です。個人的には、あれがハッピーエンドの隠喩と理解して居ます。
会社倒産で更地。離婚した母子にはデカ過ぎる屋敷だったから売り払う。暗い解釈なら幾らでもありますがビターエンド説は完全排除、「新たな研究開発の為、倫理先進国であるアメリカにでも家族で引っ越した」くらいに思っておいて良いかなと思いますよ。
トモーリスさんへ
「ドナー家族に会う」のはハッピーエンドにならないと思う。少年はどんな気持ちになるか。
少年は自分の心臓の鼓動に、ドナーを偲び立ち尽くす。ここで物語が終わるのは「譲り受けた命の実感と希望」で締めたかったからかと。これ以上に、幸福感を抱ける最後は無いんじゃないかな?
はじめまして。
この作品は小説が発売されてすぐに読んでいました。
どちらも最後は空き地になりますよね。
未だに二つの解釈で迷っています。
映画を観ると、薫子と和昌は別居を解消し新たな生活をスタートさせたのかな、とも思えるのですが、ハッピーエンド過ぎないとのご感想ですが、具体的に想像するとしたらどう思われますか?