15時17分、パリ行きのレビュー・感想・評価
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偉業なれど・・・・・
テロリストに勇敢に立ち向かい、多くの乗客を救った彼らの行動は、
私ごときが言うまでもなく、賞賛に値する。
だからこそ、こうして映画化され、後世まで語り継がれることだろう。
だが、それと映画として面白いかはまた別物。
彼らの歩んできた半生と今回の偉業に関連性は乏しい。
無理やりこじつけようとする姿勢は鼻に衝くし、
小さい頃は悪ガキだったけどというのは陳腐だ。
電車に乗るまでの前振りにほとんど意味は感じられず、寝てしまった。
もっと複雑な人間模様を期待していただけに、残念。
単なるドキュメント作品!
現代に生きる若いアメリカ人男性が三人。
私は、当日朝にこの映画の存在を知り、その一時間後には、劇場の椅子に座っていた。C.イーストウッド監督、そして本人たちの主演ではなかったら観ていなかったと思う、そして観れて良かったと思う。これもひとつの偶然である。
現代に生きる若いアメリカ人男性が三人。アメリカ軍人二名、民間人一名。小学校時代からの親友三人。名もなき若いアメリカ人である彼らが時のフランス政府から表彰されるに至った経緯とは?そして彼らの人となりとは?
そもそも私は本日、花粉症の為、上映開始からハナグズグズであった。前半から、涙目が始まり、ラストは鼻汁と涙でずるずるになった。感動のためなのか、花粉のせいなのかわからない、こんなに長く泣いたのは初めてに近い。ただ、そこまでドラマチックな映画だったのかと問われれば、そうではないような気もする。ローマ観光はたしかにそれほど華やかなエピソードもなく、あえて語り継ぐほどの要素は特にないだろう。淡々としている。
しかしまさに、そこにこの物語の本質がある。ごく普通の西欧観光に訪れたごく普通のありふれた若者たちが、予約していたパリ行きの特急列車の中で、たまたま無差別殺戮が始まろうとする瞬間に歴史的殺戮を行おうとする犯人との至近距離に居合わせた。
迷ってるヒマはない。犯人は、テロリストだ。すでに弾は放たれ、銃弾は肉を破っている。撃たれた乗客の手当てをしなければ彼は死んでしまう。イーストウッドの演出と編集は的確にして鮮やかだ。
ストーリーは単純。彼らが、この列車に乗り合わせた経緯と、彼らの列車内での言動、そして事件後の華やかな表彰式やパレードの模様を、必要な長さで描いている。
ただ、彼らが少年時代だったときの映像は、他人が演じなければいけないので、かなりの部分は演出が含まれていると思う。そして、軍に入るときと入った後の訓練など本人が演じる自分のエピソードにも幾分かのフィクションは含まれるだろう。しかし、そんなリアリズムはどうでもいい。ローマ観光、そしてアムステルダムまでは、誰ひとり名前も顔も知られないただの若者だったわけだ。映画撮影時、彼らは彼らの物語を追体験しているわけだ。我々観客は、彼らがどんな思いでそこにいるかまではわからない。
色々考えてゆくと、実際の表彰式のテレビ映像を使用したいが為のフィクション部分の撮り直しだとしてもものすごい手間がかかかっていることになる。映画史的にもかなりの実験的手法なのではないかと思う。
この映画は、ノンフィクションあるいはドキュメンタリー映画のようであって、やはり、フィクションには違いないのだ。
悪がなされようとしたとき、まさに三人の天使によって悪魔が封じられた話ともとれる。
ただ、観客の中に若干の物足りなさを感じた人がいるならば、私も同じだ。善がなされるとき、悪は我々のがまんの限界まで善を蹂躙していなければならない。悪が強ければ強いほど闘いは面白くなるのだ。そこで私たちはカタルシスを感じる。闘牛士は、強すぎてもだめ、弱すぎてもだめなのだ。
もう一つ私が思うに、脚本的な物足りなさも感じる。犯人側の論理や、犯人の計画や裁判風景などが全くなかったことだ。あえてこの部分を切った理由は、原作が主人公たちのノンフィクションだったからなのだろうけれども、フランスが犯人をどう裁いてゆくのかにもわたしは興味がある。
とにかくイーストウッド製作監督の次回作がひそかな楽しみになった。
驚きを超えた驚き
テロを描くだけの作品じゃないという一文をチラ見してから一切の情報をシャットダウンして鑑賞した。それが功を奏したのか半端ない感動に襲われた。
最後に実話だと知ってビックリ。しかもエンディングテロップで本人たちによる演技だと確認してさらに驚いたからだ。
それを知らずにエンディングの下りで涙が止まらず、イーストウッドの描きの凄さに感心していただけに、その驚きは想像を超えた。
映画に感動し、実話という事実に感動したということだ。
さて、作品はいつテロの場面に?という中、あれ?彼らの日常の描きってどういうこと?と戸惑いながらのスタートだったが、最後になってすべてが怒濤のフラッシュバックとなって追いついてくる。子供の時の小さな祈りは印象的なシーン。
あまり素行が良くなくて親や先生からダメと言われた奴でも、ほんのちょっとの勇気で正義に立てる。国籍年齢性別問わず生い立ちも関係なく。そんな背中をそっと押してくれるメッセージ性。
テロの危険と背中合わせのアメリカだから、ヨーロッパだから、なおさら、どの国の誰もがもしかすると直面することになるかもしれない、その恐ろしさ。果たして足が動くかはわからないけど、でも、屈してはいけないことがある。それを教えてくれる。イーストウッドって本当に凄い人だ。
3人の若者の実話映画
アメリカンスナイパー ハドソン川…に続き 現代のアメリカンヒー...
フェイク!?監督被害者?~戸惑っているうちに終わり~
「15時17分、パリ行き」17点。
宣伝・予告・タイトル・今までのC.イーストウッドが関係した作品・過去の全ての映画作品から
「いつ?いつ?戦うの?」
「えっ?えっ?」の内に終わってしまいました。
「テロと戦う緊迫アクション」・「感動のドラマ」と予想・期待している内に終わってしまいました。
これは、申し訳ありませんが、
「フェイク(固いですが「羊頭狗肉」)」と言わざるを得ないのでは。
違うならそう伝えないと、ダメなのでは、「WB」さん!
おかげで私のような不器用な観客には、
「戸惑い>多くの人々を救った感動」になってしまいました。
この内容を予想していた人いるんでしょうか?
観客を「戸惑わせる」ため?「意外性に訴える」ため?
それはこの場合はダメではないでしょうか?
「ドキュメンタリー」ではないでしょうか?
もう一度実際に見事に再現した。
彼らの(主にひとりですが)生き方の。
敢えて「ヒーロードラマ」とせずに、派手な撃ち合いではなく、抑えた演出にしているのを考慮しても。
この時点で、
「すべてが本物。走ってる列車に、被害者までも!」と説明されても、
「3人の友情・勇気・とっさの判断の素晴らしさ」を訴えられても、
「彼の、人を助けたいという生き方は希望通りには行かず、挫折から学んだ」と唱えられても、
そして、「無名のヒーロー」と叫ばれても、
「偶然ではなく必然」と言われても、
「平和の道具にして下さい」という言葉までもが、
残念ながら…。もったいない。
監督が被害者になってしまっているのでは?
いやいや多くの観客が被害者になってしまっているのでは?
私はこの内容を期待して、お金を払っていません!
イーストウッド監督、これが最後とならないように!
次の作品を!!🍀
実話を世にしらしめる
ハドソン川といい、今作といい、こうして実際に起きた事件の映画化作品はエンターテイメントとして映画で流れる事で世界の片隅で起きている事実を知る事ができる。
平凡、というよりは冴えない子供時代を送った彼らのそれまでの人生と夢に向かって努力した過程、起きた事件を淡々と、分かりやすく伝えてくれる。
退屈というなかれ。これは事実で、ある意味伝記なのだから。君の人生は彼らより退屈ではないか?
エンターテイメントとしての映画という枠で見れば若干退屈かもしれないが、実際に人々の命を救った英雄の伝記としては素晴らしい作品だ。
本人達の素晴らしい熱演にも拍手を送りたい。
『大きな目的によって人生に導かれている』
スペンサーのこの台詞が実際に彼が言った言葉だったのかだけ非常に気になる。
咄嗟の行動に人生がある
走る列車の中でテロリストを退治するだけで映画ができるのかなという疑問があった。以前にも似たような疑問を抱いた映画がある。メル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」である。
しかし心配は杞憂に終わった。いずれの作品もハイライトのシーンに至るまでの主人公の人生が一定のベクトルで描かれているので、クライマックスに説得力がある。
本作では主人公が3人いるので、それぞれの人生を描くと同時に、互いの関わり合いも描かなければならないが、イーストウッド監督はその辺りが実にうまい。
人間が極限状況に置かれたとき、咄嗟にどういう行動をするのか。それはそれまでのその人の人生が大きく影響する。人間の行動はニュートン力学における運動と同じで、方向と速さとエネルギーがある。ひとつの行動は次の行動に影響する。どんな行動を選択するかによって次の行動の方向性が決まってくるのだ。何かが起きたときに人を助ける行動をするためには、日頃から人を助ける方向性の行動を連続する人生を歩んでいなければならない。咄嗟の行動にはその人の人生があるのだ。
本作は実話で、本人が自分の役を演じているとのことである。咄嗟に身を挺して人を救う行動は英雄的であるが、褒めたたえるべきはその行動をもたらしたそれまでの人生であり、生き方であり、行動の数々である。イーストウッドらしいスケールの大きな世界観で、作品としても格調の高い映画になった。
背景を知ると面白い
判断が難しい
87歳にして実験作⁉️
イーストウッド監督は「アメリカンスナイパー」「ハドソン川の奇跡」とどんどんノンフィクションにシフトしているように見えるが、今回は実際に事件に遭遇した人々を起用してしまった。何ということだろう? それも意外に違和感はなかったのである。また、自分はテロ事件の顛末を見るためにこの作品を観に来たのだが、テロのシーンは全体から見ればほんの少しだけだった。それよりも何だか青春映画を観ているような感じだった。監督はテロよりもどういう人間が、なぜ事件に関わったのかに興味があるようで、彼らの子ども時代から描いてみせる。落ちこぼれで、先生からはADHDだから薬を飲ませた方がいいとまで言われるような子どもたち。軍人といってもバリバリの軍人ではなく、あまり要領がよくない軍人。そんな彼らだが、人の役に立ちたいという思いがあった。だから、その時もどんなに多くの犠牲者が出たかもしれないその時も、そんな行動がとれたのだ。そして、監督は彼らを決して色眼鏡で見ることなく、正面から描いてみせる。淡々とただ事実だけをカメラで追ってゆく。決して英雄的ではない彼らが実際に多くの人々を救ったというその姿を描いてみせる。「事実は小説より奇なり」というけれど、本当にそうだなぁと思う。
よかった、
考えさせられました。
宗教や信仰との健全な距離感
宗教や信仰というものは、あくまでも個人的なものであってこそ健全なものだということがよく分かりました。
それぞれの信ずる神の声をどう自分の中で咀嚼し、生きていく支えとするか、或いは自分の良心のあり方の規範とするのか?
道端のお地蔵さんが見ているような気がして、ゴミのポイ捨てを思い留まる。これだってひとつの立派な信仰の形だと思います。
その形がどんなに人と違っても、個人の自由ですが、それを他人や社会(集団)にまで求めるととても厄介なことになる。
自分の信ずる神でなければ邪教であり、改宗できないのなら殺すことさえ許されると考えるテロリスト。アメリカの大使館移転話のように政治的利用さえまかり通る。
個人にとどまらず、集団化した、或いは同調圧力のかかった信仰というのは、不健全な気がしてなりません。
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