ザ・スクエア 思いやりの聖域のレビュー・感想・評価
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大好き。
最新作の『逆転のトライアングル』から観たが
終わり方が秀逸なのが
この監督の持ち味なのを
二作目にして確信。
最新作もそうだが
貧富の格差により焦点を当てている。
しかし所謂社会的にその問題の
本質や解決策を提示するわけではなく
良くも悪くも貧富どちら側からも
人間味溢るるドラマが進行することで
そのシステムがよろしくないと
分かっていながらそれに流され
生活し続けている私達の胸の
奥深くまで突き刺さる。
階段から突き落とされた
少年はどうなったのか。
あの声は主人公の幻聴だったのか。
それともあの世からの恨み節だったのか。
娘の少年への謝罪の動向への思惑は。
様々なドラマの事実だけを提示し
回収しないことの豊かさ。
多分、スクウェアとはあの事でしょう。僕のは液晶が壊れてます。
Y◯uT◯beはあんな動画は絶対にアップロードしない。
それを前提にこの話は進んでいる事を先ずは知るべきだ。
従って、あり得ない寓話と言うことになる。
イルージョンとしての映像美術を鑑賞者を巻き込んで展開して行く。
しかも、ブラックなエスプリを含んだシュールなストーリー進行。
カメラだけでは話に流れが出ないが、カットを入れて話をつなき、物語を構成して行く。
小津安二郎監督の哲学が含まれている様に感じた。人物を保々正面から捉えて、台詞を話す人物をカメラの背後に隠す。
常套的な表現で申し訳ないが、小津安二郎監督やモンタージュ理論に則した作品制作をしていると感じた。
そして、大義名分で哲学的に語られるが、要は面白くないコンテンツが多んじゃない?っつう事さ!
これは面白い
とても良かったのですが、一口何がと言われると説明しにくい
例えばアンがチンパンジー?を飼育していることと、パフォーマンスアーティスト?のモンキーマンはどう対比されているのか、とか色んな解釈ができる
アンとクリスティンが美術館で話をするシーンで、背後に積み上げられた椅子のアート作品があり、それが時々ガラガラと(録音された)音を立てて崩れる(かのように演出されている)
そういうイメージの対比を使って、こちらの想像や読みを掻き立てるようなシーンが非常に面白い
映画を見終わったあとにやはり観念と現実との食い違い?というか、観念が現実を言語によって捉えたところで、現実は十歩も二十歩も先に進んでいってしまってるんだなみたいなことを考えました
それにしてもあのゴムはよく伸びた
手を差し伸べるか否か?
スウェーデン映画って、珍しいと思いながら鑑賞。冒頭、現代美術が、ある意味高尚すぎて、大衆受けしないからどうやって注目を集めるかをチームで協議。小難しい抽象的な専門用語ではね。そのために動画を撮影ということになるけれど、美術が、商業主義、分かり易さとのジレンマを抱えていることを理解。確かに。
クリスティアンが、財布とスマホとカフスボタンを金切り声を上げていた若い女性にすられる。取り戻そうと脅迫的な手紙をGPSが指し示すアパートに投げ込むのが全ての発端。下手に手を差し伸べれば、騙されてしまうのが、まず最初の皮肉。アパートのある地域が、下層の人々が住んでいるため、あまり直接的に関わりたくなかったのだろう。本人と部下が、お互いに責任を取りたがらないのが延々と続く。どういう経緯で盗難した物が少年に渡ったかはわからないが、盗みを疑われて酷い目にあったと少年が謝罪を求める。がしかし、部下もクリスティアンも謝罪しようとしない。我々の姿だ。それは、クリスティアンとインタビュアーの若い女性との性的な関係の後でも同様だった。深く関わると言質が取られたり、責任を取らされるのも現代社会だ。
美術についてのトーク会場で、障がいをもっている人が酷い言葉を投げつけるのも、美や思いやりと現実社会との乖離を痛烈に批判。実際にこのような美術を愛でている人たちへの生の感情なのではないか。
ディナーパーティでの、類人猿らしきパフォーマンスは、ちょっとやり過ぎ。実際は、類人猿のような欲望を衣服の中で隠し持っていながら、すましている上流階級の奴らが、他の人がどこまで困っていたら手を差し伸べるのかを映像化しようとしていた。意図がわからないこともあり、皆、浮くのを恐れて辞めさせようとしなかったが、女性が襲われて初めて、複数の男性が反応。でも、移民やら最下層の物乞いが捨てておかれるのは、
権力を持っている人たちが、困っている人たちを何とかしようと真剣に考えていないからというメッセージか。
最後、自分が役職を辞任して痛い目にあって、クリスティアンは少年に謝罪をしようと行動するが、もう既に引っ越しをしていて、後の祭り。
「ザ・スクエア」は、そこにいれば明らかに助けを呼んでいるという領域にしようという設定。しかし、実際には、明らかに助けを呼んでいる物乞いのような人たちでさえ、手を差し伸べられていない現実との対比。
スクエアの中は、中空のようにも見え、そこにどんな思いを詰め込んで行動するかは、一人一人に任されてているのかもしれない。
美術、福祉、広告、貧富の格差、社会の分断等、多くの要素が盛り込まれているように思えたが、ショッキングなシークエンスが目立って、あまり深く考えさせるような映画ではなかったように感じた。
モンキーマン、やり過ぎ!
スマホと財布とカフスボタンを盗まれたクリスティアン。その序盤のシーンからして、「助けて」と叫ぶ声が聞こえ、一人の女が近寄ってくるというシークエンス。現金を持たない主義のクリスティアンだから、カードは即無効にするとか、普通の対策を練ればよかったのに、GPSで特定できたアパートの全ての部屋に脅迫状を送るという手段を取った。
「スクエアの中では皆平等に権利と義務を持つ」などというテーマを前面に押し出してるにも関わらず、不条理な出来事と権力を持ったことによる矛盾が表面化している。各エピソードの合間には必ずと言っていいくらいに物乞いの姿が登場するが、慈善の心を持っているのにキャッシュレス時代を象徴するかのように小銭がない。通行人の誰もが恵もうとしないのだ。
偽善者と呼ばれてもおかしくない窮地に追い込まれたのは、部下の二人がYouTubeに動画を投稿したことがきっかけだった。美術館を宣伝するためにスクエアの中に物乞いの金髪少女を立たせるまでは良かったが、最後に爆発させるという酷いシロモノ。弱者をいたわるつもりが、弱者を排除するかのような動画はあっという間に30万回再生を超えてしまう。
財布とスマホはコンビニに届けられ、無事に戻ってきたはいいけど、親に泥棒扱いされて怒ってる少年が登場。その対処法にも思いやりが感じられず、精神的にも追いつめられるクリスティアン。
スウェーデンを中心に北欧の国々は社会保障や福祉は充実しているものの、その財源のための税金が高い。老人になれば平等といったイメージがあるけれど、それまでの現役世代にはやっぱり恐ろしいほどの貧富の格差があるのだろう。金だけじゃ解決できない思いやりも、目に見えない力によって均等化に向かわない。結局は権力者の傲慢さが生み出した社会矛盾なのだろうと感じた。
思いやりの不在で、思いやりの形を描く技法
ドーナッツの空洞を追求することで、ドーナッツの形を浮かび上がらせる、そういう技法のように思った。
なぜなら、この映画では、思いやりは、ほんの数回しか出て来ないのだ。
むしろ、無視、無責任、言い逃れ、他人のせいのオンパレードである。
ザ・スクエアは現代アートの美術品。
「ザ・スクエアは、信頼と思いやりの聖域です。そこには、平等の権利と義務があります。」
主人公は、権威ある美術館の有名キュレーター。
美術品「ザ・スクエア」を展示して、その現代的意義と重要さを語るものの、主人公自身は、無責任で、自己中心的。
高度な知識人として福祉や平等の重要さを熟知しているという体裁を保ちつつ、
物乞いや仕事仲間や娘や一夜の相手に、人間的な共感は示さない。
成熟した知性や品性のある大人の振りをした大人である。
映画は、無責任と、無視と、不愉快が延々と、淡々と繰り返される。
緩急やドラマ性やショウ要素は乏しく、ドキュメンタリー調で続いていく。
決して好ましくも楽しくもないのだが、
見事だと思ったのは、不愉快な場面への引き摺り込まれ度合だ。
ドレスアップした華やかな晩餐会で、猿人が女性を襲うシーン。
余興なのか、本物なのか、余興なのか、本物なのか、本物の暴行なのか、巻き込まれたくない、助けるのは私の仕事だろうか、私は関係ない、誰かやるだろうという緊張の波が伝わってくる。
最初に動いた老紳士、ブラボー。
映画や舞台であっても、このように不愉快な態度や空気が悪いシーンがあると、
その空気に同調して、見ている観客も気まずい思いをすることがある。
観客をその仕掛けの中に引き摺り込むこと。
その果てに、日常生活では気づかない、何かを垣間見せること。
そういう仕掛けが、映像作品の醍醐味の一つだと思っている。
本作は特に、観客の負の感情を波立たせ、引き摺り込む仕掛けが多いと感じた。
だから、決してハッピーに見られる映画ではない。
ともかく、気まずい。
早く終わって欲しい、という不協和音のシーンが続く。
しかし、それこそが、思いやりの不在、ドーナツの空洞の中なのだと気づかされる。
そして、ドーナツを自分が必死に探さなくて済むように、
さっさと、いつも通りの、想定内の、予定調和で、事件が終わって欲しい、と強く願う自分に気づく。
場違いなものは、無視したい、過ぎ去って欲しい、責任は負いたくない。
見ている自分自身の心理的振る舞いを問いただされる仕掛けが凄い映画だった。
ーーー
最後に、好きだったエピソード。
少年との対決について。
庶民の少年は、富裕層の主人公に、怒り狂っている。
少年は、服や車や家や手取りや預金残高なんぞの違いで、卑屈にならない。
正々堂々、人間対人間として、怒っている。
お前が僕を侮辱したことで、僕は実害を被ったのだ、謝れ!と。
至極もっともな論理で自ら交渉に来る、賢く勇気ある少年である。
なお、ここで、私は、またしても、この映画に、自分自身の心理的振る舞いが、暴かれた。
何でこの子供、子供の癖に偉そうなの?
そう思っている自分が居たのだ。
怒鳴り続ける声を聴きたくない、怒鳴る子供が憎たらしい。
どこまでも少年は正当で、被害者で、困り果てている、子供だというのに…。
スクエアの外から、中の子供を見ている自分に気づいて、冷やりとした。
そして、無責任が身上の主人公はどうしたか。
逆ギレをして偉い大人の声音で説教をして、少年を突き飛ばして追い返した。
自分が完全に悪い癖に。
しかし、さすがに、主人公もばつが悪くなってきて、今までの主人公とは思えない行動を取る。
そして、数時間後、少年に謝罪を試みる。
だが、その謝罪声明でも、まだまだ、主人公は変われない。
理想を言えば、主人公は、ザ・スクエアの中に入って、素直に謝って欲しかった。
「個人の尊厳と権利と自由。信頼と思いやり。平等な権利と義務。
この世で一番大切なものなのに、君のそれを踏みにじった、私は、本当に悪うございました。
申し訳ありませんでした。君にも、君のご両親にも、直接謝罪させてください。
本当にごめんなさい。」
だが、主人公は、少年がその真ん中で彼を睨みつけている、ザ・スクエアの周りを相変わらず、うろうろしている。その声明を意訳すると、こうなる。
「僕も確かに悪かったんだけど、それは認めるんだけど、
でも僕が何でそんなことをしちゃったかって言うと、
君のお家のあるエリアって、ちょっと怖いからなんだよね。
ほら、お互い、偏見があるじゃない。お互いにね、君にも、僕にも。
この手の問題って、社会全体のもんだいだから、そうそう解決は出来ないよ。
僕が謝るだけでどうにかなる問題ではないもの。
大きくて構造的な問題なんだ。
世界の富の半分は291人が所有しているが、なんと、その一人と僕は知り合いなんだ。
彼に言えば、もしかしたら、あっという間に解決しちゃうかもしれないんだけどさ…。」
いや、大きくて構造的な問題の前に、君と僕との個人的な問題だろ。
さりげなく有名人と知り合いアピールまで入れて、何だお前。と、ツッコまずには居られない。
なお、末筆ながら、主人公のために言うと、
最後の最後には、主人公も、スクエアの線の上に足を置いたのだと、私は受け止めた。
人間は幾つになっても変われるもの。
スクエアやドーナツを探す眼を、忘れないようにしたい。
アートとは誰のもの?
パルムドール受賞作らしい映画だったけど、ずっと内容・雰囲気ともにイライラさせる。脳のむかつきを抑えながら観た。でも、これだけ全編を通してずっとむかつかせることができるのもある意味すごい。
Youtube動画の件とかは、さすがにやりすぎと思ったけど、表現の自由とはなんだろうね。難しい。アートだと言い張ればなんでも許されるのか。そういったことも問題提起していると思った。
また、アートをどう扱うかは、富裕層が決めてきた。昔はお金持ちのパトロンがいて生活してたり。でも、もう今はいろんな人がアートを生み出す時代なのかも。アートが大好きな私も少し考えるべきだと思った。
点数は低くつけたけど、考えるきっかけをつくってくれた作品だ。
85点
ダメな事、正しい事をわかってるつもりでも
出来ていない事、出来ないない大人が多い。
自分が1番可愛い自分勝手な自己中心的考えや行動
謝らない。周りがやったらやる、
知らんぷり、他人のせい。
思い当たる節が大人の観客全員にあるような作品。
あっちの選択をしとけばよかった、
なんであんな事しちゃったんだろう。
など刺さる内容ばかり。
みんな見て欲しい。
思いやりの聖域、とは四角形のスクリーン
登場人物や物語のカオス加減を、始めはクソ映画だなぁとか、こいつらバカだなぁとか、乱発される社会風刺を面白がりながら観れる。
しかしながら終盤のプロモーション動画の映像と、ライブパフォーマンスのシーンは、それまでの映画のカオスさと予見のできなさから思わず観てる我々が身の危険を感じるような緊迫感がある。
映画の観客は映画内の出来事から完全に守られてるはずなのに、思わず緊張が走る本シーンを終え、気付くのは観客がいる世界そのもののカオスだ。
この映画における本当の聖域とは、四角形の映画のスクリーンであるが、そこでの平等が成立するのも、この映画が終わるまでの束の間である。
嫌悪感しか残らない全編逆説作品
まず、主要登場人物の中に、思いやりを持つ人物は1人もいない。どころか、こいつら全員に天罰が下りますように、とさえ思ってしまう。
どこかでこの状況が逆転するかと期待していたが、猿男のパートで、この作品の狙いを思い知る。
最終的に、主人公は失職し少しだけ行動を起こすが時すでに遅し。救いの無いまま物語は終わる。
確かに今の欧州は病んでいると思う。単純な貧困問題ではない。現金収入の手段を持たない移民が、町中にあふれていること自体を人々が受け入れられずにいる。
創作品のザ・スクエアの芸術的な価値はさて置いても、関わる人間の誰も彼もが、クズに過ぎる。故に、何もかもが強烈な皮肉を通り越して自虐的ブラックジョークにしか見えない。
とにかく、共感できる人物もエピソードも何もない。問題提起など、何を今更であろう。都市部の駅をうろつく非白人のホームレスを見たことが無いとでも?
文化人も芸術も、この状況を食い物にはすれども救いはしないと言う嫌味。既に手遅れであるとの警鐘。色々な事を考えさせられるのだが、何一つ心に響かない不思議さが、この作品の価値なの?
スクエアをつくった事がこの世にスクエアが欠けてる事を象徴してる
問題提起をして終わっても良かったかと思う。
主人公の考えが改まって更正?みたいな行動は付け足さず、あなたならどうしますか?で終わるのもありかと。
猿のアートのシーンで終わりとか。
ま、映画だから完結しないといけないのはわかるけれど。
あの場面、俺ならどうする?って何回も自分に問いかけた。ここで決めなきゃ事は進むし、待ってくれないし。
猿の後からが長かったよ。
考えて行動する事に関しては人それぞれだろうから
あえて行動を起こす前のマイナスの時点で終わってほしかった。
結果バッドエンドには変わりないんだけどね。
他には細かなとこにもスクエアが散りばめられて演出がみてて楽しかった。
最後らへんの物乞いのシーンは自動ドアが2つある間の仕切られた四角い空間。
あのホームレスに荷物番をお願いしたあたりは、娘に携帯をスクエアの中に置かせたのとリンクしたし、聖域としての形をつくり始めていたようにも見える。
もう一つ。
チアダンスの白線。
チアダンスでうまくいかなかったシーンを使ってるのは、スクエアでも、世の中という空間で、思いやりの聖域が形になっていない、聖域として成り立っていないところが、リンクさせている気がしてならなかった。
考えすぎかもしれないけど、考えすぎるくらいの価値と演出の面白さがあった。
この映画で皮肉に描かれた問題は当たり前にみんなが知っていることだけど、その当たり前は当たり前であるだけの、考えるだけの価値があると思う。
あと、セックスのくだり長くない?
あれなに?
元気な時に見たらより楽しめたかも。
通勤途中に財布と携帯をスられた主人公のキュレーターのクリスティアンが、あれよあれよと楽しくない出来事に巻き込まれていく、多分ブラックコメディ。
現代アートを愛でる感性はあまり磨けていないですが、概念が強くて、思考しないと味わえないヤツってイメージです。
クリスティアンが展開しようとしているのは地面を四角く区切ったスペースで、その中では誰もが平等であるという縛りがある「スクエア」の展示です。
おそらく誰かと誰かが「スクエア」内に共存することでアートが生まれる的なヤツでしょう。
なんやら高尚というか、よーわからんやつです。
そんなんのキュレーターが、出来事に翻弄されることで、高尚さとは縁遠い姿を見せていくんです。
まぁ、大人気なくて、情けなくて、自己中で、ゲスな一面が、これでもか!と露呈するんですよ。
多分世に提供しようとしている高尚さと、暴かれる器の小ささの対比を皮肉ってるんです。
そこまではなんとなーくわけるんです。
でも、この映画を見た頃の自分の状態があまり良くなくてね、すご〜く考えながらみるのに疲れたんです。
もっと良い状態で見たかったなーと思う次第。
美術館のレセプションパーティーに登場したゴリラかサルを演じた演者の暴走シーンが長くて、かなりこちらもHPを削られました。
あのパフォーマンスは一体どう解釈すれば良いの?
地獄なんやけど?と思いました。
不快アトラクション
ただタイトルだけで、前知識なしで観に行ったので余計に仰天した。
人は、何かをしてあげたら何か返ってくるとどこかで見返りを求めている、それを認めたくないと思っていても。
その当たり前のように人間の奥底に根付いている深層心理がここで引っぺがされ、その状態で罵声を浴びせられ、触れられたくないところをまさぐられ、毛を1本1本抜かれていくような嫌な嫌な状況に追い詰めてくる。
観るものがどこまで受け入れられるか、耐えられるのかのサディスティックで不愉快な実験をされている、まさに体感型のアトラクション。
むしろ訓練?
劇中、不幸にもたった1人の男性、クリスティアンが受け止めることとなってしまったのは、なにがアートで、なにがヒステリーで、なにが思いやりで、なにが非人道的で、どこまでが言論の自由というもので守られて、どこまで寛容すべきなのか、すべてにおいて確実な答えなんかない、だから皆がこうしてあーだこーだ言って面倒なことになっていく現代社会の縮図。
たたみかけるような不愉快な出来事の襲来に、こちらはひたすら耐え、我々の先頭に立つクリスティアンの選択を見守る。
そして、自分だったらこうするけどな…と異を唱えてみたりする。
これはそういう訓練?だとしたら効果的だとおもいます。
観客10人弱のうち、少なくとも2人が途中退場…。
サラッと流れたけど、唯一クリスティアンの思い通りに動いてくれたのは、物乞いの男性。道行く、一見普通の人々は、誰もクリスティアンを助けてくれなかった。
社会の底辺で生き、無視される毎日を送るホームレスは、小銭を乞うていてもクリスティアンの荷物を盗むなんてことはせず、きちんと言われたとおりに待った(はず)。
普通に普通の生活を営み、親切だとか寛容だとかを声高に叫ぶ人間よりも、何も主張せずただただ必死で生きている人間が、本当の意味で普通であるという、ものすごく控えめなメッセージに見えた。
加えて、大炎上した展覧会のプロモーションビデオのおかげで、異教徒同士がタッグを組んで美術館に対し抗議…ここは誰の思惑の通りでもない、意外すぎる展開。
結局共通の敵がいる者同士なら同盟を組めてしまうということですね。
しばらく混乱して疲れたら、つべこべ主張ばっかりしてないで、目の前の人が困ってたら助けるとか、自分なりの良いやり方でやってくしかない、と腹をくくる事となりました。
ちょいちょい、「スクエア」が象徴的に現れる。
この映画の象徴を視覚的に紛れさせてて、面白い。
「フレンチアルプスで〜」のオストルント監督作品第二弾。 スウェーデ...
「フレンチアルプスで〜」のオストルント監督作品第二弾。
スウェーデンにある前衛美術館が舞台。
大事な所で鳴る携帯だったり、響き続けるヘルプの声…。不快のオンパレードが続いたかと思いきや、貧困問題や群衆心理を風刺したハッとさせられるメタファーなメッセージが出てきたりもする。見て見ぬ振りをする『傍観者効果』をテーマにしたエピソードが次から次へと起こって実に痛い所を突いてくるのだ。
こういった構成も意味があるようで、よく練り上げられた脚本だからこそ伝わってくる。脚色だけでなく監督始め関係者が実体験したエピソードも色々、脚本に盛り込んで製作した作品だとのこと。
何だかすごい151分でした。
(´-`).。oO
映画冒頭で、主人公であるクリスティアンが街中で騒動に巻き込まれる。最初は傍観していたのだが、勇気を出して助けることにした。その結果、気付くと財布と携帯をすられてしまう。人助けをした仕打ちがこれじゃあんまりで、他人と関わるのが辛くなってしまうなぁ…なんて思ってたら、そしたら後のシーンで、「新しい美術館の企画なんだ」と、入り口が『人を信じる』『信じない』の2ヶ所に分かれた企画展のシーンが出てくるではないか!ウィット過ぎて思わず笑ってしまいました。
何か目の前で事件が起こった時に保守的になるのは防衛本能だから当然だと思う。「関わりたくない」「恥ずかしい」「怖い」といった感情は実に人間らしい。でも、その感情に勇気を出して勝ち越えられるのもまた人間の良いところ。『正義』なんて恥ずかしくて使いたくないけど、私は元々、正義なんてのは備わってるものじゃなくて、何かの目的が発生して初めて沸き上がってくるものなんだと思う。理想どおりに生きるよりも、人に寛容な生き方の方が難しい。だからこそ、それを意識するきっかけが必要なわけで、それをこの作品は教えてくれている。
正直、151分集中するのは辛い作品ですが、観終わった後の安堵感やシナリオの秀逸さ、そしてメッセージ性の深さは、是非、体験して欲しいです。シネフィルなら絶対、共有したい感情です(笑)。。
槓子!!
因果応報
自業自得
身から出た錆
上記の諺はスェーデンでもあるのだろうか?
前回パルムドール受賞作なので、勿論審査員が違うから単純に比較はできないが、どうしても『万引き家族』と比べてしまうのだが…。
実際、今作は極めて観方が難しい、観る人に読解力を要求される作品であると思えた。なにせ、ラストシーンの娘の表情一つとっても、これが一体どんな気持を思い描いているのか、観客一人一人の想像力の相違の隔たりが大きいと感じる。呆れているのか、憐憫の気持が顔にでているのか、観客の思考や感情を複雑にさせる、一言で、『優しくない』作りなのである。
欧米映画にある、日常のコミカルでユーモアさの隠れ蓑にした、シニカルと皮肉、そして人生の辛さを表現してると、言ってしまえばあるパターン内の一つなのだけど、その主軸に引っ付いている細かい小話も又かなり考えさせられるので、それが関連性があるのかないのかなんて細微なことまで思考を張り巡らせてしまうのが疲労感も強い。
現代社会の経済格差とそこに求められる本来備えている『親切心』の確認、そして誰もが持つ崇高な『プライド』。そのプライドは、決して犯すことをしてはならない、例え立場や年齢が違っていてもだ、というメッセージなのであろう。只、編集の毒気が強烈すぎて
戸惑う事もしばしばであるのが最大の特徴なのかもしれない。ゴリラやチンパンジーの暗喩的メッセージ、バイラル効果を狙った、今流行りのバズ広告企画がそれを物語っている。監督は余程の天才なのかもしれないが、果たして今作品、ついて行ける観客はどれだけいるのだろうか、もしかしたら自分だけついて行けていないんじゃないかと、恐く情けなくなる、と別の感情も沸々と湧き出るカオスに堕とし込まれる異質作であった。
考えさせられる
爆笑ではなくクスリと笑えるシーンが散りばめられているが、鑑賞後は思いやりとは何ぞやと考えさせられる。
記者会見のシーンは正義のもと思いやりを失って拳を振り回すマスコミの怖さを見せられた感じがして思わず主人公に同情してしまった。
感想 メモ
ザ・スクエア 感想
(データ保存、メモの為のレビュー。文章にまとまりはありません。)
クリスティアン、こいつなんっっっも思いやれてねぇ。笑
何1つ。いや1つぐらい?
思いやり、思いやりに欠ける行動、プライド、それらにまつわる行為、結果、ないがしろ…ほぼ全ての「思いやり」要素がこれでもかと詰め込まれた作品だった。
美術館の階段前に佇むクリスティアン、その背中を写すショット。アンに声かけられてやたらと驚くシーン。
それと子供の居るマンションの螺旋階段のシーン。
とか、映像的な面白さもわりとあって流石だと思った。まだよく理解はしてないけど。
でも螺旋階段のは、酔うって!笑
プロゴリラーやり過ぎ!誰か止めろよ!
でも。初めはショーとして見世物として楽しまれた物が、度を越して、一線を越え、文字通り暴力的になり最終的に視聴者からフルボッコ(これも文字通り)にされるとか、どっちも怖い。だし、本当に怖いのはどちらか?
アンがコンドームもらおうとする意味はよくわからなかったけど、渡す渡さないの引っ張り合いは笑えた。
美術館に入りかけた観光客を止め、城はあっちだって言うシーンが何か気になった。
空からの引きの美術館のシーンは綺麗だった。夜の。
興味深いのだが
理解しきれない作品なのは確か
美術館のキュレーターの男が、人助けしたら、スマホと財布をすられて、そこから彼の無関心や素っ気のない態度、不用意な言動が彼を負のスパイラルへと導く…ような作品?
財布とスマホをすられて、警察に届けず自力で何とかするというのも分からないし、あんなに冷静なのも謎
要するにそこをきっかけとして、男の愚かな行動の数々が引き起こす悲劇を巡る物語なのだろうが、理解しきれない
物乞いとかを印象的に映すあたりにはこちらの国の格差問題の提起(最終的には動画の内容)をしているのだけれどこの辺もどうにも…
ただ、なんだか見逃せない感じで最後まで集中して見られたのも確かであり、最後の娘のどこか切ない目線がこの作品を物語っているのかもと思った。
あと螺旋階段がなんだか印象的(負のスパイラルというか迷宮っぽい感じ)
他の人のレビューやパンフレット観てからの追記
猿人間?の件は、最初は何があっても皆観て観ぬ振りをしていたのに、一人が叩き出すと皆こぞって叩き出す辺りに、人間の集団心理というか現代のネット叩きに通じるものがあるのだろう。
後半になるとエピソードごとの時系列というかストーリー性?みたいなものが曖昧な感じで、どこか奇妙な感覚に。
そこからさらに物語が進むのかと思いきや、そこでブツッと終わり次のシークエンスに移るあたりがどうにも気になる(この辺も術中なのだろうが)
あと、ブラックユーモアが理解出来ないので、なかなか笑えるなんて場面には出くわさなかった。
さらに追記したくなった
なんとなく考えに至ったことなので合ってるかは分からんけど
この映画に出てくる美術館に来る大衆とはこの映画というアートを観ている私たちなのではないだろうか?
美術に興味があって、美術館のキュレーターの話を聴いていたかと思いきや、食事になると話も聴かずにワラワラと移動する大衆、猿人間のパフォーマンス芸術だと美術だと解釈しそれを危ないギリギリまで傍観するだけの大衆
その辺が映画を観ている我々に物語っているのではないか「映画にちゃんと興味持ってる?」「映画をちゃんと分かって観てる?」的な
いや、もしくはこのように思考を巡らせてしまうことすら、監督の術中なのかと知れないし…
というよりまだ完全に考えが固まってないなこりゃ
まだ追記したくなるかも
二度と見たくないけど、もう一度見たい映画
とにかく不可解で難解で後味の悪い映画。全編に亘って居心地が悪くて、ちょうど不愉快(変な言葉だけど、しっくりきたから直さない)。誰もが絶対に持っているはずの偽善とか不寛容や不平等さや矛盾などを、人が不快感を覚えるポイントを絶妙に突っつきながら厭らしく露見させてくるこの感じ。全てのシーンがまるで観ている者の良心やモラルを問う試験みたいな感じでとても胸糞悪い。しかも登場人物は別に嫌な人たちというわけでは決してなくて、其処彼処にいるごく普通の善良な市民であるというのがね。ますます後味悪いです(って、散々貶しているみたいだけど、この映画にとっては全部褒め言葉みたいなもの。私自身、褒めてるんだか貶してるんだか分からないまま書いてます)。
やっぱりそれが特に顕著なのがモンキーマンのシーンだったかなと思う。あのシーンの緊張感たるや凄まじかった。自分もあのテーブルで席についているような感覚だった。彼らが俯いて存在を消して一刻も早く時が流れ去ってくれるのをひたすら待ち続けているようなあの気持ちが良く分かったし、自分があの場にいても、絶対に何も出来ない自信があった。制止することも救助することも逃走することもできずに、あそこにいた多くの人がそうしたように何も見ない何も聞かない何にも気づかないという演技をしただろうと思う。
ただすべてのシーンや、すべてのエピソードについてきちんと解釈が取れたわけではなく、本当にただただ意味が分からずに終わったようなシーンも少なくはなかったし、この映画が面白かったか?って聞かれてしまったら絶対に面白くはなかったと答える。上映時間も長いし、体力的にも精神的にもすごく疲れた。映画を見ている間、早く映画が終わってほしいと思ったし、二度とこの映画を見たくないと思った。でも映画を見終わった後で、なんだかもう一回見直したい気持ちにもなった。なんだかもうよく分からない。
それに、この映画が見せたものって、謂わば人間の「人間らしさ」であって、それは不完全さであって醜悪さではないし、それを今更暴いたところで一体何になるんだろう?という風にも思ってしまった。人間が厭らしい生き物だってことくらいとっくに知っているよ、と開き直りたい気分だったし、それも含めて人間らしくていいじゃないか、と自己弁護したい気分だった。
コンセプトアートならぬコンセプトムーヴィか
前作『フレンチアルプスで起きたこと』は権威失墜型コメディとでも呼べばいいのかしらん?と首を傾げたくなる笑うに笑えないコメディだったが・・・
同じリューベン・オストルンド監督のカンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品。
スウェーデンの王宮の一部を改築した美術館エックス・ロイヤル美術館。
扱うのは現代アート。
その首席学芸員クリスティアン(クレス・バング)計画しているのは、「ザ・スクエア」という企画。
4メートル四方の四角い空間の中では、だれもがだれもを信頼し、思いやらねばならない、というもの。
そんなある日、クリスティアンは助けて詐欺に引っかかって、スマホと財布を盗まれてしまう。
幸い、スマホにはGPS機能があるので、どこにあるかはわかったが、そこは低収入者向けのアパート。
だれが犯人かわからない彼は、部下とともに、各戸に「スマホと財布を返せ、さもなくば・・・」という脅迫文を入れていく・・・
といったところから始まる物語。
ちょっと面白そうな題材なのだけれど、主人公がとる行動と同じく、映画全体の考えが浅い。
なんだか、一場面一場面を繋いだコントみたい。
いや、コントならば、それはそれでいいんだけれど、あまり動かないカメラの外側から不穏な雑音が鳴り響いたり、ぶった切ったようにカットが繋がったり、となんだか格好つけすぎで、かえってそれが映画としての恰好悪いことになっているような感じ。
映画はこの後、「ザ・スクエア」企画のトンデモPR動画がWEB上にアップされ、大炎上。
さらには、現在開催中の企画展のレセプションに、猿人が乱入して混乱するという、アートパフォーマンスが予想外の方向に大暴走して・・・と展開するのだけれど、いずれも場面場面のお団子串刺し演出で、ひとつひとつは面白いが(とはいえ、笑うに笑えないのだが)映画としてのドライブ感が欠如。
観ている方としては、ひたすら疲弊するばかり。
オチの付け方としても、少しばかりの信頼と思いやりを感じた主人公が、自身の脅迫行為の後始末をしようとするが、結果、覆水盆に返らず、信頼も思いやりも届きはしないという皮肉な結末となるのだが、その空しさも、なんだかなぁ、取って付けたよう。
個人的な好みとしては、この手の皮肉な映画は、もう少しテンポよくドライに進んだほうが効果的だと思うのだけれど、これではコンセプトアートならぬコンセプトムーヴィではありますまいか。
とにかく、長い、シーンシーンが無駄に長い。
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