「思いやりの不在で、思いやりの形を描く技法」ザ・スクエア 思いやりの聖域 aoiさんの映画レビュー(感想・評価)
思いやりの不在で、思いやりの形を描く技法
ドーナッツの空洞を追求することで、ドーナッツの形を浮かび上がらせる、そういう技法のように思った。
なぜなら、この映画では、思いやりは、ほんの数回しか出て来ないのだ。
むしろ、無視、無責任、言い逃れ、他人のせいのオンパレードである。
ザ・スクエアは現代アートの美術品。
「ザ・スクエアは、信頼と思いやりの聖域です。そこには、平等の権利と義務があります。」
主人公は、権威ある美術館の有名キュレーター。
美術品「ザ・スクエア」を展示して、その現代的意義と重要さを語るものの、主人公自身は、無責任で、自己中心的。
高度な知識人として福祉や平等の重要さを熟知しているという体裁を保ちつつ、
物乞いや仕事仲間や娘や一夜の相手に、人間的な共感は示さない。
成熟した知性や品性のある大人の振りをした大人である。
映画は、無責任と、無視と、不愉快が延々と、淡々と繰り返される。
緩急やドラマ性やショウ要素は乏しく、ドキュメンタリー調で続いていく。
決して好ましくも楽しくもないのだが、
見事だと思ったのは、不愉快な場面への引き摺り込まれ度合だ。
ドレスアップした華やかな晩餐会で、猿人が女性を襲うシーン。
余興なのか、本物なのか、余興なのか、本物なのか、本物の暴行なのか、巻き込まれたくない、助けるのは私の仕事だろうか、私は関係ない、誰かやるだろうという緊張の波が伝わってくる。
最初に動いた老紳士、ブラボー。
映画や舞台であっても、このように不愉快な態度や空気が悪いシーンがあると、
その空気に同調して、見ている観客も気まずい思いをすることがある。
観客をその仕掛けの中に引き摺り込むこと。
その果てに、日常生活では気づかない、何かを垣間見せること。
そういう仕掛けが、映像作品の醍醐味の一つだと思っている。
本作は特に、観客の負の感情を波立たせ、引き摺り込む仕掛けが多いと感じた。
だから、決してハッピーに見られる映画ではない。
ともかく、気まずい。
早く終わって欲しい、という不協和音のシーンが続く。
しかし、それこそが、思いやりの不在、ドーナツの空洞の中なのだと気づかされる。
そして、ドーナツを自分が必死に探さなくて済むように、
さっさと、いつも通りの、想定内の、予定調和で、事件が終わって欲しい、と強く願う自分に気づく。
場違いなものは、無視したい、過ぎ去って欲しい、責任は負いたくない。
見ている自分自身の心理的振る舞いを問いただされる仕掛けが凄い映画だった。
ーーー
最後に、好きだったエピソード。
少年との対決について。
庶民の少年は、富裕層の主人公に、怒り狂っている。
少年は、服や車や家や手取りや預金残高なんぞの違いで、卑屈にならない。
正々堂々、人間対人間として、怒っている。
お前が僕を侮辱したことで、僕は実害を被ったのだ、謝れ!と。
至極もっともな論理で自ら交渉に来る、賢く勇気ある少年である。
なお、ここで、私は、またしても、この映画に、自分自身の心理的振る舞いが、暴かれた。
何でこの子供、子供の癖に偉そうなの?
そう思っている自分が居たのだ。
怒鳴り続ける声を聴きたくない、怒鳴る子供が憎たらしい。
どこまでも少年は正当で、被害者で、困り果てている、子供だというのに…。
スクエアの外から、中の子供を見ている自分に気づいて、冷やりとした。
そして、無責任が身上の主人公はどうしたか。
逆ギレをして偉い大人の声音で説教をして、少年を突き飛ばして追い返した。
自分が完全に悪い癖に。
しかし、さすがに、主人公もばつが悪くなってきて、今までの主人公とは思えない行動を取る。
そして、数時間後、少年に謝罪を試みる。
だが、その謝罪声明でも、まだまだ、主人公は変われない。
理想を言えば、主人公は、ザ・スクエアの中に入って、素直に謝って欲しかった。
「個人の尊厳と権利と自由。信頼と思いやり。平等な権利と義務。
この世で一番大切なものなのに、君のそれを踏みにじった、私は、本当に悪うございました。
申し訳ありませんでした。君にも、君のご両親にも、直接謝罪させてください。
本当にごめんなさい。」
だが、主人公は、少年がその真ん中で彼を睨みつけている、ザ・スクエアの周りを相変わらず、うろうろしている。その声明を意訳すると、こうなる。
「僕も確かに悪かったんだけど、それは認めるんだけど、
でも僕が何でそんなことをしちゃったかって言うと、
君のお家のあるエリアって、ちょっと怖いからなんだよね。
ほら、お互い、偏見があるじゃない。お互いにね、君にも、僕にも。
この手の問題って、社会全体のもんだいだから、そうそう解決は出来ないよ。
僕が謝るだけでどうにかなる問題ではないもの。
大きくて構造的な問題なんだ。
世界の富の半分は291人が所有しているが、なんと、その一人と僕は知り合いなんだ。
彼に言えば、もしかしたら、あっという間に解決しちゃうかもしれないんだけどさ…。」
いや、大きくて構造的な問題の前に、君と僕との個人的な問題だろ。
さりげなく有名人と知り合いアピールまで入れて、何だお前。と、ツッコまずには居られない。
なお、末筆ながら、主人公のために言うと、
最後の最後には、主人公も、スクエアの線の上に足を置いたのだと、私は受け止めた。
人間は幾つになっても変われるもの。
スクエアやドーナツを探す眼を、忘れないようにしたい。