「超ネタバレ注意」クソ野郎と美しき世界 ロゼさんの映画レビュー(感想・評価)
超ネタバレ注意
1.2.3とそれぞれ独立したように思える短編が4で繋がる、特殊なオムニバス映画。
主役は三人ではなく大門(浅野忠信)だという言葉通りに大門の視点で物語を見ると
園子温監督の1で、彼は運命の女フジコに出会い彼女を得て、突如失う。
マフィアのボスというマッチョイズムの頂点に君臨する自分から、真実の愛を奪った相手は美しい部屋でピアノをかき鳴らすだけの優男ゴロー。しかもフジコはゴローの、女のような繊細な指に惚れ込んでいる。大門の生きる暴力の世界で何の価値もない、ピアノを弾き、愛するものを優しく撫でるだけの、繊細な美しい指。
勿論、大門はマフィアの親分らしい力技でその指を潰そうとする。その指(フジコの愛する指であり、ピアニストの存在意義である)に、手下のジョーがハンマーを振り下ろす
2には大門は直接関わらないが、ここでは自分のレゾンデートル(存在意義)を突然奪われた者たちがどんなものか、それを取り戻すためには究極の選択でも喜んで受け入れる様が描かれた。
関わりがないとはいえ、やはり主役は大門だというのなら、大門にとってフジコへの愛は存在意義や価値観を揺るがすほどのものであり、それを失った状態とも読み取れる。
3では大門の元を去った兄弟分オサムが、亡くなった息子の腕を捜し求める妻に寄り添っている。オサムがカタギでないこと、息子の生前は家庭を顧みなかったことは、妻の態度ですぐにわかる。野球が好きだった息子の右腕は妻にとっては黄金の右腕であり、最も息子の存在を感じられるものであった。
オサム自身は妻のその執着を馬鹿げていると思いながらも、自らヤクザな世界と足を洗うために小指を詰めてまで彼女に寄り添っている。
それを大門の視点で見ると、
大門と同じ価値観で暴力の世界に生き、家族愛に価値を見出していなかったオサムが、その価値観を一変させて、古女房の元へ行ってしまった。息子の死と、壊れかけた妻の心に直面して、自分の存在意義を暴力ではなく家族愛に求めた旧友の姿を、大門は目の当たりにする。
そして
4 で、大門は美しい純白の衣装に身を包み、髭剃り跡もさわやかな美男子として登場する。
大門はフジコを奪った美しい指を破壊しようとして、自らの指を失うという選択をした。
奪おうとした刹那に起こった事故は想定内であり、予め大門にはその覚悟があったのかもしれない、とも思えた。
真実の愛を取り戻すために、マッチョイズムに潜む醜い嫉妬(自分の価値観に合わないものを力ずくで排除し、潰す)から解脱したかのような清々しい姿と美しい顔で、フジコを見つめている。
そして彼の語ったセリフを全編通じた解釈で意訳すると
「自分には価値を感じられないモノでも、愛する人が愛したモノを壊すわけにはいかない。自分には価値を感じられないものでも、その人物の存在意義を奪うことでねじ伏せても意味がない。」と言っているようだった。