「主人公にとっての「タクシー運転手」という役割の意味」タクシー運転手 約束は海を越えて モーパッサンさんの映画レビュー(感想・評価)
主人公にとっての「タクシー運転手」という役割の意味
主人公は独裁にも戒厳令にも全く関心がない。娘に靴も買ってやれず、家賃も払えない貧しさから、金を稼ぐことしか頭にない。光州に到着してからも、デモ隊を軍が強制排除するさまを屋上から見て絶句するドイツ人記者たちを尻目に、主人公はデモ隊の女性からもらった握り飯を食べては、「これがこの辺の味付けか」などと感心している。主人公にとって、「タクシー運転手」とは、金をもらって人を運ぶ仕事だ。乗客が金を払えるかどうかは重要だが、乗客の目的はどうでもよい。デモに参加した息子が負傷したのではないかと心配し、病院まで乗せてくれと懇願する母親に対してさえ、「金はあるか」と確認する。「おいおい、この状況で金を取るのかい」とつっこみたくなる。
あまりの無邪気さに、ソウルに残してきた娘を案じドイツ人記者たちを残してソウルへ戻るという頃には、そういう生き方もあってよいと思えるようになってくる。だから、光州を脱出し、近郊の街で食事を摂りながら、主人公が迷い始めると、「せっかく脱出できたんだぞ。余計なことを考えるな。早く娘のところに帰れ。光州に戻るんじゃない」と叱りたくなった。
物語が終わりに近づくにつれ、主人公にとっての「タクシー運転手」という役割の意味が急激に変わる。弾圧への抵抗を描く映画では、弾圧の中でも職業上の使命を貫く人々に感動することが多いが、弾圧によって職業の意味がこのように変わるという描き方に心を揺さぶられる。
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