こどもしょくどうのレビュー・感想・評価
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気分が晴れない映画
案外評価が良いので観に行きましたが、
全く気分が良くなるシーンが無くて辛かった
いじめられっ子もあの体格じゃ、そんなに食わせてあげる必要ないし、もはや当たり前の様に食べさせて貰ってる
追っかけシーンも、何故?
極めつけはエンディングの歌、音が大き過ぎるして、退散でした。
救いはお姉ちゃんの子役。
たべることはいのち、つながり、ぬくもり
「こどもしょくどう」昨日で3回目の鑑賞です。これは子供の貧困を、子供の目線で描いたものです。子供の残酷さとともに、少しずつ成長する姿をほぼ等身大で見せてくれます。何もしてくれない大人へのもどかしさと、何もできない自分への苛立ち。親から見捨てられたことで無くした笑顔。何度見ても心が締め付けられます。
最近観た「岬の兄妹」も、障害を持つ妹と失業した兄という設定で、貧困という設定は同じですが、どうにも救いようもない絶望的な状況と彼らを取り巻く環境(公的扶助とかのアドバイスもできるだろっ!と心底怒りすら覚えた)にかなりイライラさせられました。
でも「こどもしょくどう」では、子供の成長とともに少しずつ変わっていく親の様子も描かれ、こうした問題に気づき行動してくれる人が増えてくるのではないかと思い、少しホッとさせられました。是非多くの人に観てもらいたいと思う作品です。
この作品を見て、改めて思ったこと。それはお腹を空かせた人に食べさせてあげることは絶対の正義だとするアンパンとそれを創作したやなせたかしの偉大さ。イデオロギーは関係ない。生まれや育成環境も関係ない。最後の「食べることは命、食べることは温もり」「食べることは命、食べることは繋がり」という歌が心に染みる。
胸に刺さる映画。
ユウト君の両親に対する言葉が、胸に刺さる。子供たちの問題に何もしないのは、「様子を見る」という便利な言葉で、実際には問題に巻き込まれることから逃れたい気持ちがあるからではないか。
印象的だったのは、タカシ君とミチルちゃんの表情だった。愛情を与えられない子供は、あんなふうに笑顔がなくなり、思考力も衰えてしまうのかな、と悲しい気持ちになった。特に、母親に抱きしめられるユウト君を見つめるタカシ君の気持ちを想うと、辛かった。
パンフレットを読んで、古川凛ちゃんのコメントに共感し、温かい気持ちになった。理想の社会は、小さな子供でも分かる単純なことで、ミチルちゃんとヒカルちゃんの姉妹が、一緒に暮らせて、学校に行き、美味しいご飯が食べられる社会であり、タカシ君が子供らしく笑うことのできる社会だと思う。
少し誇張された表現が気になったけれど、リアリティーがあって、子供の貧困という問題だけでなく、それがどの家庭にも起こり得ることだという社会全体の問題まで広げたところが、問題の本質を突いていると思った。
心の洗濯ができた
「こどもしょくどう」というタイトルからは、地域コミュニティのありかたを描いているのかと、勝手に想像してしまうが、そうではなかった。崩壊した家庭の子供と、通りすがりにすぎないながらも援けの手を差し伸べる小学生ユウト君とその家族の交流が、物語の主軸である。
崩壊した家庭、木下一家がなぜこのような末路をたどるに至ったか、は描かれていない。神の視点ではなく、ユウトの視点から大きく外れることはない。たびたび大きく映されるユウトの澄んだ瞳は、映画を録っているカメラレンズのようでもある。そういう効果もあってか、観る者はユウトに心を重ね合わせやすい。ユウトの言行は控えめだが、こちらの期待を裏切ることはない。自然、ユウトの感情と思考にシンクロし、さまざまな問題が重くのしかかってくる。
主役の子供たちはみな寡黙ながらも、目で演技するのがうまい。子供たちに限らずこの作品の共通項でもある。そこにリアリティがあり、だからこそ揺さぶられる。
貧困が問題を浮き彫りにさせるが、それら問題が貧困に因を成していない。ゆえに悲しみはいっそう深くことさら重たい。世間一般の常識が、ときには厳しい現実の巌そのものである。大人的思考は責任逃れ第一と区別がつかない。社会を成り立たせている規範は、あるケースでは過酷に弱者を奈落へと落とす。護るべきは何か、何を許すべきか。
大人は大人として学び、子供は子供として学んでいく。成長はそれぞれまばゆい。彩雲をみると幸せあるという。木下姉妹の行く先に幸あると、兆してくれたシーンは救いだ。
心の洗濯ができた。普段の生活において、いかに多くの恵みを受けているか、そしてそれを当たり前のものとして鈍感に暮らしているか。そういうことに気づくことができた。欲のミノムシになっているわが姿を、映画の内容を反芻しつつ深々と自覚したい。このような映画にときどき会いたい。
タカシよ大物になれ
あまり、どうしてそういう状況になったとか子供たちが何を考えてるとかいうところが
うまく削られていてシンプルな話なんだけど観ていると色々な感情が湧き上がる作品になってると思います
うまそうに飯を食べる子供の姿を見てるだけで泣きそうになりました(いや泣いた)
特になんかヌボっとデカいタカシ君の存在はなんか野茂英雄みたいだなとか思いながら
彼の心情を興味深く推察してました。
将来大物になってほしいなタカシ君
#20 こどものための食堂
今各地にあるボランティアがやってるこども食堂が出来上がるまでの話かと思ったら、もっと社会的テーマが深い作品だった。
ああゆう子供達を増やさないというより、あんな親にならないような社会を築くほうが大事。
子供達が捨て猫にご飯をあげる感覚なのが違和感があったがあれが現実なのかなあ。
こどもの持つ「気づき」と「残酷さ」も
他の人より優越感を感じたいし、集団からはみだしてまで「正義感」ももてない おとなになってから日々感じているこのようなことは、実は幼いころから身についていたのだろう 他の家の生活・家庭環境と我が家とを比較する中で「あの家より恵まれている」ことで優越感や「自信」を持つ、そんないやらしさを振り返り、人の親になった今でもそんな気持ちを子どもに持たせていないか、と思いました 子どもには自分の力ではどうにもできない「枷」のようなものがあって、時にはそれに苦しみ、もがく 同じ子ども同士だからその「枷」に目をつぶらず一緒になって寄り添う姿もとれる お金だけでは測ることのできない「寂しさ」が、子どもの生活に横たわっている お金がなくて食べるものがないから「こどもしょくどう」ではなくて、こどもが誰にも打ち明けられずに引きこもってしまう、「あきらめ」に慣れてしまうその「枷」や「殻」を解き放つ場所としての「こどもしょくどう」の必要を訴えるものであったと思います こどもたちが喜ぶのをみて自分の存在を確認する(スタッフである)おとなたち、吐き出すことができずにこどもにあたってしまう親たち、こどもだけのためではないそんな集うことのできる「しょくどう」が次々できて欲しいですね 他人より優れているというつまらない優越感から、「少しの勇気」を出すことの尊さを感じる映画でした セリフは少ないけど姉妹の姉を演じる鈴木梨央ちゃんの表情、いっぱい泣きました
虐待やネグレクトは警察や児童相談所に通報して一件落着ではなくて、普段の私たちの生活の中に「少しの勇気」を投げかけてくれました
地元大阪での公開が待ちきれず先行公開されていた名古屋で観ましたが、平日午後50人定員の劇場でも年配の方ばかり6割埋まっていました(3月28日 名演小劇場にて鑑賞)
事情
食堂の息子で小学5年生の男の子とその友達で同級生の家庭に少し問題を抱えた子が、河原に停めた軽自動車の車中で暮らす小学生姉妹と出会う話。
NPO団体が運営している 所謂「子供食堂」を題材にした話ではなかった。
買い物に出かけた主人公の男の子が偶然姉妹の姉の所行を目撃、その後河原で暮らす姉妹を見かけストーリーが展開していく。
姉妹の両親のことや何故そうなったかの描写は無く、子供同士のやり取りと手助けしてくれる食堂の夫婦のやり取りが主。
家族に恵まれない悲しい子供とお節介だけど親切な両親とその息子って…モンクつけたら人手なしだし、余程のことがないと大コケしない反則設定じゃないの!?
まあこういう子だし多くは語らないという体は仕方ないところもわかるけれど、もうちょっと大人に大してのリアクションはあっても良いと思うし、もうちょっと賢くても良かったのかな…。
面白くはあったけど、同情系でも嫌悪系でも良いから両親のことをもうちょっと描くとかも含め、もう少しすっきりした気持ちにさせて欲しかったかな。
平成こども映画の傑作
主人公、ユウトは言ってしまえば傍観者だ。いじめられている友人をちゃんと助けることができない自分にも、そしてかまってあげて、気遣っている”ふり”をしている大人たちに対しても、その不満をぶつけることなく、なんとなくやり過ごしている傍観者。日本人のほとんどがこのタイプなのではないだろうか。
昭和以前の時代であれば、このような少年が主人公になるとするならば、わかりやすく最後にレギュラーになるなり、代打でホームランをかっ飛ばす等大活躍してハッピーエンド、となるのだろうが、この映画はそうではない。最後はとても切なく、そして、まぁ人間なんてこんなもんだ、というような結末なのだが、それが逆にとても深く心に残った。最後に舞台であった食堂が”子ども食堂”を始めるのと同時に、映画は終わる。観ている我々も何かできることがあるのでは?と製作者たちに問いかけられているような気持ちを残して。
「こどもしょくどう」って、どうして必要なの?
この作品は、名子役 鈴木梨央の出番で殆ど成り立っている。作品が訴えかけている内容は、物凄く素晴らしい。まさに「現実の貧困を強いられている家族のありよう。」について勉強になった。しかし、要所要所の描き方が甘い。
夫婦は、死別したのか離婚したのか。車中生活を強いられた3人。警察の巡回もなし?
ラストの終わり方も、子供たちのそれぞれの視線。ユウトはミチルの最後の別れに何を感じたのか。また、ミチルは、パトカーに乗る前のあの視線は何を言いたかったのか。タカシの学校での普段見られない「行動」を起こした心の変化は何だったのだろう。
最後のそれぞれの「思い」が明確ではなく、その他全ての答えは、観るものに委ねてのエンドロールである。
現代社会では、今現在「こども食堂」が、日本で必要とされている。それはなぜなのだろうか。その点を、はっきり明示されていない。
それが、DV問題や子供の少子化につながっていくのかもしれないが、解決の糸口を少しでも、監督自身が組み入れていれば、『万引き家族』に描かれていないDVをされていた(これからもされ続ける)少女の「救い」を描かれていれば良かったのにという後悔は残ってしまった。
追加:Dragon Ashの降谷と石田ひかりが夫婦役?
虹ぐもに無理がある。虹の彗星にでもすべきではなかったか。
食事処「あづまや」は、こどもは無料なのは本当か?
こどもしょくどう
映画は途中まで淡々と進んでいく。子どもがいじめられても、学校へ行っていなくて車で生活している姉妹がいても、なんだか世話する親子がいても感情が湧き起こらず淡々と。でもいじめられた男の子がプールサイドに座っているとき急に寄り添うように音楽が流れだし一気に悲しみが押し迫ってくる。そして私に向かってくる。あなたはどうするべきなの?と。
そして子ども達の行動は常識から飛び出して突き抜けていく。
子どもの視点で描かれながらすべての人に優しく誠実に問いかけるこの作品は後々まで残る現代の傑作だと思う。
ラストの歌も気分が明るくなってとても効果的で帰り道に口ずさみたくなる。
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