「心の洗濯ができた」こどもしょくどう ピラルクさんの映画レビュー(感想・評価)
心の洗濯ができた
「こどもしょくどう」というタイトルからは、地域コミュニティのありかたを描いているのかと、勝手に想像してしまうが、そうではなかった。崩壊した家庭の子供と、通りすがりにすぎないながらも援けの手を差し伸べる小学生ユウト君とその家族の交流が、物語の主軸である。
崩壊した家庭、木下一家がなぜこのような末路をたどるに至ったか、は描かれていない。神の視点ではなく、ユウトの視点から大きく外れることはない。たびたび大きく映されるユウトの澄んだ瞳は、映画を録っているカメラレンズのようでもある。そういう効果もあってか、観る者はユウトに心を重ね合わせやすい。ユウトの言行は控えめだが、こちらの期待を裏切ることはない。自然、ユウトの感情と思考にシンクロし、さまざまな問題が重くのしかかってくる。
主役の子供たちはみな寡黙ながらも、目で演技するのがうまい。子供たちに限らずこの作品の共通項でもある。そこにリアリティがあり、だからこそ揺さぶられる。
貧困が問題を浮き彫りにさせるが、それら問題が貧困に因を成していない。ゆえに悲しみはいっそう深くことさら重たい。世間一般の常識が、ときには厳しい現実の巌そのものである。大人的思考は責任逃れ第一と区別がつかない。社会を成り立たせている規範は、あるケースでは過酷に弱者を奈落へと落とす。護るべきは何か、何を許すべきか。
大人は大人として学び、子供は子供として学んでいく。成長はそれぞれまばゆい。彩雲をみると幸せあるという。木下姉妹の行く先に幸あると、兆してくれたシーンは救いだ。
心の洗濯ができた。普段の生活において、いかに多くの恵みを受けているか、そしてそれを当たり前のものとして鈍感に暮らしているか。そういうことに気づくことができた。欲のミノムシになっているわが姿を、映画の内容を反芻しつつ深々と自覚したい。このような映画にときどき会いたい。