「小さな変化に気づくほどの凝視。」日日是好日 だいずさんの映画レビュー(感想・評価)
小さな変化に気づくほどの凝視。
大森立嗣監督×黒木華という組み合わせにそそられて見てきました。
公開前に出演者である樹木希林が逝去、そこはかとなく寂しい気持ちのする鑑賞となりました。
万引き家族のプロモーションの映像とか画像とか見ていると、あ、痩せたなって感じていて、長患いのがん患者が痩せるとどうしてもそろそろか、なんて思ってしまって、ひとりで腑に落ちていたものですから、突然の!という感じはしませんでしたが。
さて、映画本編についてですが、
前情報からして絶対地味だろうと思っていました。
予想通りの地味さで、わたしはとても満足です。
1993年から始まる25年の物語ですが、黒木華も多部未華子も1993年のもっさり感がない21世紀の女の子なので、全然90年代感はしませんでした。
多部ちゃんあたまちっちゃいな、華ちゃんの横顔美しいな、なんて思いました。お洋服も21世紀やなーて。辛うじて多部ちゃんのソバージュヘアーに90年代みを見出したかな。
1993年、わたしは12歳ですね。なので、典子たちがお茶を初めて数年後に現れた女子高生と同世代かなーとおもいます。
わたしは「道」がつくものに縁がないのですが、抹茶も和菓子も好きだから、飲み食いのカテゴリーとしてはお茶好きです。
でも「道」なので、哲学なんだと思うんですけど、その部分は全く疎いです。
映画を見て思ったのは、茶道が追求している道って、「今ここにいる」の実践なんだなということです。あくまでも映画で扱っていた茶道から、素人の私が思ったことですが。
「今ここにある(いる)」っていうのは、ゲシュタルト心理学で出てくるワードでして、わたしは全然詳しくないのですが、田房永子が著作で紹介していて知ったことなんですけど、過去も未来も見ずに、まずは今ここにいる(生きる)ことに集中することで、過去の後悔、未来への不安でパニックにならずに対処できるよっていう治療法?(ゲシュタルト療法というらしい)概念?なんです。
cf.『キレる私をやめたい ~夫をグーで殴る妻をやめるまで~』
ふくさをこうして折り、帯に挟んで、畳を6歩で歩いて、ひしゃくの持つ位置、蓋の置く場所、音をさせない、茶碗から湯をこぼさない、雨の音がして、鳥の声がして、温かい、寒い、熱い、心地よい風、草のにおい、お菓子の味、お茶の味、それらに集中するっていうことが、樹木希林のいるお茶の先生のおうちで繰り広げられていたと私は思いました。
それって、田房さんがやっていた「今ここにいる」と同じだなって、思いました。
道ってのは、哲学の実践ってことなのかしら?とか思っています。
特に、お湯の音と、冷水の音が違うってところが印象に残りました。
その音の違いを見出すくらい、瞬間を見つめているわけでしょ。
その気づきってうれしいよねって思いました。
ほんで、実際にお湯の音と、冷水の音違って聞こえたんですよね。
お湯はとろみのある音、冷水は澄んだ音に聞こえました。
あと、掛け軸の「瀧」って文字から、名瀑をイメージするシーンも、いいなあって思いました。
すっごく地味な映画なんですが、自分でも見つけられる小さなよろこびが入っていて、結構感動しました。
失恋のところ、一緒に泣きましたよあたしゃ。
お父さんの突然の電話が死亡フラグだった、戌年にしか使わない茶碗がラストのオチになるってのは、ちゃんと気づきました!