ゴーギャン タヒチ、楽園への旅のレビュー・感想・評価
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ゴーギャンが夢見た理想の敗北記。
ゴーギャンという画家は株の仲介人で成功し、絵画の売買を始めたことで趣味として絵を描くようになり、画家の友人に褒められて(おだてられて?)中年になって画家を志した。当時5人の子供がいたというのだから相当リスキーな道を選んだというしかない。
本作は、そんなゴーギャンが赤貧と誰の尊敬も勝ち得ない現実に嫌気が差して南の島タヒチに逃亡する物語だ。いや、逃亡と言うと本人は怒るだろうが、タヒチを選んだのはたまたまフランス領だったからで、フランス語が通じるタヒチで「西洋化されていてつまらん!」と怒るのだから随分勝手な話である。
実際のゴーギャンはタヒチでの経験を糧にそれなりの成功も収めるのだが、本作は身勝手な理想が現実の壁の前に崩れ去っていく様を描いていて、そのまま西洋文明が辺境を征服していく時代背景とシンクロする。テレンス・マリックの『ニュー・ワールド』のような美しくも哀しい歴史絵巻だと思った。
文明と芸術の関係について
ポスト印象派の代表的画家、ゴーギャンのタヒチへの放浪を描いたドラマ。原案はゴーギャン自身が書いた伝記『ノア・ノア』だそうだが、映画化にあたって脚色はされている。
パリの文化を退廃的に描き、大自然と土着の文明が残るタヒチを人間の真実を見られる場所として描いているが、それがゴーギャンの世界の見方だったのだろう。
しかし、そんなタヒチは当時、フランスの植民地であり、どんどん西欧文明が侵食していく。芸術家として理想の土地を見つけた喜びとそれが自らの出身地によって侵されていく様に憤る様子が丹念に描かれている。
現地の若者に、ゴーギャンが彫刻を教えて、その若者が西洋人相手に彫刻を売り始めるのが象徴的だ。ゴーギャン自身で、理想とした文明を壊すことに、知らずのうちに加担してしまう。
ヴァンサン・カッセルが野性味あふれるゴーギャンを熱演している。いつもよりもかなり体重を落としてなかなかに見違えている。芸術と文明の関係について考えさせられる一作。
楽園への憧憬と罪
先日、
怒りんぼの友人を笑わせるべく
「おまえはなぜ怒っているのか」のポストカードを買った。ゴーギャンの作だ。これ見よがしに送ってやった。
ゴーギャンの絵は
僕はボストンで、ほとんど毎週のようにボストン美術館に通って目に焼き付けた。
(=木曜日の午後は無料ですしね)。
彼の巨大な横長の絵
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』: D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?
この「我々はー」。
このキャンバスにはゴーギャンの前世(パリ時代)と彼の晩年は描き込まれてはいない。
でもタヒチで見つけた自分の人生が、土地の人たちの姿に向かい合う形でそこに投影されていると思う。
とくに本作を観たあとにもう一度この絵を眺めると、その事がよくわかる。
絵のサイズも長く、
絵のタイトルもこんなに長く、
観る者たちにも自分の長い長い一生をば俯瞰させてくれる時空超越の絵だ。
ゴーギャンはパリの証券取引所の精鋭だったのだが、株の暴落で家族と国を捨てて世捨て人になった男だ。
愛娘を失い、重い皮膚疾患もやり、自殺未遂もしている。
破滅ギリギリを行ったのは、タヒチ渡航直前にゴッホとしばらく暮らしたせいも有るかも知れない。
赤、黄色、ピンク、青。
子どものクレヨンの塗り絵のように、画面を大胆に区割りし、ぺったりと塗りつぶして、渋いけれど鮮やかな色彩で、おおまかに、人間とその暮らしをアースカラーで描いた画家。
ポスターのデザインは秀作だ。そこを見事に表している。
目を細めて見るとこの新印象派の作風はフォービズム⇒キュービズムを一足飛びに飛び越えてカンディンスキーの色彩の火花やモンドリアンの画面の直線での区割りを予兆するものがあるから驚くのだ。
美術史的に、ゴーギャンはエポックメイキングだったのだと感じる。
若い時分の彼と、島に渡ってからの彼。そして帰国。
美形のバンサン・カッセルは相変わらずその人になり切るし、
現地妻のテフラの輝けるうつくしさ。
その肩に幼子を抱き上げる南洋の聖母には、息を呑み、ただただ目が眩む。
しかし、
本国の妻、現地の妻。
思うに任せぬ自分自身の舵取り。
天国のようなタヒチにあっても、誰しもそうであるように、男と女は生まれたばかりのアダムスとイブのようには行かないものだ。
怒りや死にまとわりつかれていた画家の生涯だったようだ。
とても面白かった。喰らいついて観た。
「ゼロか100か」の、僕の人生に似ている所が多くて。
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追記
「タヒチ」は未だにフランス語を使う「フランスの海外領土」で、
まさか のちの日に、ポリネシアの島々で、しらみつぶしに白人たちが水爆実験をお見舞いしてくれるとは、さしものゴーギャンも予想しなかったろう。
残されたテフラもね。
アメリカ、イギリス、フランスがさんざん水爆実験をやってくれていた頃、僕は小学生で
「今日の雨は放射能の雨なので、髪の毛が抜けます。皆さん濡れないように下校して下さい」と担任から言われていたものだ。
死の風が、あの頃タヒチやムルロアから吹いて来ていたわけだ。
リゾート地は
絵の題材になったり、孕ませられたり、お見舞いされたり。
散々だ。
美しくなければこんな憂き目に遭うこともなかったろうに。
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資料:Wikipedia
「フランス領ポリネシア」
核実験と住民らへの補償
ムルロア環礁とファンガタウファ環礁は、フランスの核実験場となり、1966年から1996年まで193回(空中実験と地下実験を合わせて)行われた。
フランス政府は核実験の安全性を説明してきたが、2010年に核実験の被ばくによる健康被害を認めて被害者に補償する法律を施行。しかし2016年時点で、約1000件の申請のうち補償が認められたのは約20件と僅かにとどまった。同年、フランソワ・オランド大統領がポリネシアを訪問した際には、被害者への補償を見直すことを表明した[3]。
2013年にフランス政府が機密解除した核実験関連文書によれば、1974年に行われた核実験「サントール」だけでも、当時のフランス領ポリネシアのほぼ全人口に相当する約11万人が汚染されていたと推定されている[4]。
芸術家への偏見を補強できる稀有な作品
芸術家って気難しそう。
自分の興味にしか関心を持ってなさそう。
現実的なことを考えられなさそう。
自身の芸術が他の全てに優先されると思ってそう。
などと、「芸術家」への偏ったイメージは多い。
主にマイナス面で。
この作品はそんなクソ偏見をド直球に肯定するかのようなマジでダメな芸術家ゴーギャンを余すことなく見せてくれる。
スティーブ・ジョブズのド畜生ぶりをオブラートに包むことなく見せつけてくれたあの映画のよう。
タヒチの自然やその雰囲気は映像からはあまり多く感じられず、フランス領として文明に押し流されてつつあるタヒチの経過かのようにも見えた。
非常に常識的な客観的視点で描かれており、彼自身の芸術性についてはかなり控えめなような気がする。
私自身がレンブラントのような写実的で独自性のある表現をする絵画が好きなのでゴーギャンの作品の芸術性については解像度が低いのもあるやも。
ゴーギャン作品が好みの人にとっては彼の創造性がどのように積み上げられたものなのかの一端を知る手がかりになって面白いと思う。
飛んでる
タイトルなし
ヴァンサン・カッセル格好いいぃ😍
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そんな目線で観始めたのも束の間
ゴーギャンは混沌としたフランスを離れ
1891年42才でタヒチへ向かった
生活に困窮 病に倒れ 家族に見放され
心身ともにボロボロ
その姿は見ているだけで苦しかった
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この作品は
ゴーギャン自身が
現地で出会ったテフラとの愛の日々
神と自然とダイレクトに触れあった体験を書き起こした伝記小説
「ノア・ノア タヒチ紀行」 を元に描かれた映画
(NoaNoaはタヒチ語で「かぐわしい香り」の意)
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1893年テフラと別れパリへ戻り
1895年再度タヒチへ
テフラには会うことはなかったそうです
1903年5月8日55才で死去
彼の作品にはテフラの姿が沢山残っています
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映画は脚色されているとしても
ゴーギャンをちょっと知った気分の今
彼の作品🖼️を観てみたい
勉強では人生は学べない
映画「ゴーギャン タヒチ・楽園の旅」
(エドゥアルド・デルック監督)から。
物語は、タヒチに渡ってからの、画家・ゴーギャンを綴るが
私の気になったところは、フランスを去る前の
ゴーギャンの嘆きにも似た呟き。
「いつの世も画家は生活に追われ、時間とエネルギーを奪われる」
いつの世も、画家という職業だけで生活するのは難しく、
独身でも大変なのに、妻子持ちのゴーギャンは、
それ相当の苦労があったことが推察される。
また、一緒に移住すると思われていた家族に拒絶され、
子どもの将来を悲観する妻に、こう言い返す。
「勉強では人生は学べない」
いろいろな体験、経験することが「人生」を学ぶということ、
それには「タヒチ」という場所で生活するのも、
誰もが経験できることではないのだから、子どものためになる、
そんな意味なのだろうが、結局、妻には伝わらなかった。
「人生を学ぶ」って発想、なかなか難しいなぁ。
作品の背景を知るにはいいでしょう
ヴァンサン・カッセルは好きな役者だけれども、あまりゴーギャンには見えず、風景もあまりタヒチっぽさを感じなかったです。
意図してやっている部分も伺えますが、汲み取りにくかった。
その中でポリネシアの人々は、まさにゴーギャン風で、イメージを喚起させるものがあります。
しかし名画の映像的再現というのは、(デレク・ジャーマンなど一部を除き)あまり面白いものでもなく、評価がしにくいですね。
作品の背景を知るという意味では、もちろん有意義で、違った視点で絵画鑑賞を楽しめるようになると思います。
伝記物はどうしても評価が低めになってしまいますが、それなりに観た甲斐はありました。
モームの『月と六ペンス』を読み直したい気分です。
物を生み出すことの苦しみと情熱のよく表れた作品でした
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
ゴーギャンの第一次タヒチ時代を描いた作品です。時系列ではゴッホとの共同生活が破綻した後で、有名な『われわれは~』を作り上げる前にあたるようです(Wikipedia調べ)。
しっかしゴーギャンさん芸術家っぽく性格に難アリでしたね。芸術家に知り合いはいないので偏見なのですが、芸術家って基本自己中なイメージがありますよね。ゴーギャンはその最たる例でしょう。観てて「そりゃ駄目だよ、ゴーギャン」っと何度も思いました。ちなみに現実ではタヒチに行った時にはゴーギャン43歳、に対してテフラ13歳!?もし年齢までリアルに実写化していたら犯罪臭が漂う作品になった事でしょう。
ゴーギャンの一時代を切り取った作品であり、けっこう淡々と話が進み終わっていきます。正直美術に興味がある人ならまだしも、万人向けの映画作品ではないですね。でも、ヴァンサン・カッセルも歳取ったなぁ。
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