台北暮色のレビュー・感想・評価
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よく覚えてない、が、覚えている必要なんてあるだろうか?
観た。すごくよかった。しかし時間が経ってみると、本当に断片しか思い出せない。街を歩くシーンにストーカーのような怖さがあったこと、ハシゴを持ってくるシーンが妙に微笑ましかったこと、ヒロインに動物的な若さがあふれていたこと、高速道路のラストにわけもなく多幸感を感じたこと。街そのものが主人公、というのは陳腐な表現だし、実際、この映画の主人公は街ではなく人だと思っている。でも、彼らの人生をドラマとして捉えることはなく、知り合いそうで知り合わなかった人たちの生活を垣間見ただけであり、でも、垣間見たことで、ほのかな希望が自分の人生にも宿ったような気にさせられる。あの高速道路の車のどこかに、自分も乗っていたかも知れない。その、一粒に過ぎないという感覚がとても心地いい映画だったと思う。あんまり覚えてないけども。いつかまた観たいと思うし、その記憶もさらさらと流れていくのだろうけども。
これで終わり?
最後に小鳥を飼っていた女性が、 車中泊を続ける男性と付き合うようになって良かった。ただそれだけの映画でした。
ただ、「人間関係はある程度の距離を保った方が良い関係になる」というようなセリフが、なぜか印象に残り、共感できた。
みんなひとりぼっち
アンストを起こすボロ車に乗っているフォンは.高校時代の恩師の家に家族同然に往来する。
その家の中では家族である人々がギスギス暮らしている。
インコを飼う女性も訳ありで台中にパトロンのような愛人がいるが実は香港に子どもとその父親がいる。
ポストイットに書かれた時間と用事を見るように見ないと忘れてしまうからと母親に諭される男子は兄を亡くしているのか、ポストイットを拒絶し新聞やラジオで人、家族、家に関わるような話を切り取り書き写している。異様におしゃれな部屋はお兄さんの部屋だったのかな。
フォンはいう、距離が近すぎると。
距離が近すぎると愛し方がわからなくなる、忘れてしまうと。フォンも両親が離婚し苦い母親の思い出。家を出てから帰ってない。
家族とか親族なんかである必要はなくて、それでも、ふと気づけば隣に誰かいたりまたいなくなったり、嫌でも家族だから一緒にいたり。
妻や息子や孫に不機嫌な父親と、インコを飼う女性の愛人は人を支配しようとあれこれ命令する。近すぎる距離、被害と加害を生む距離。
台湾の家族と家族以外が混じる食事のシーン。
車、地下鉄、雨、景色はいつもしっとりとして人に寄り添うようだ。台湾という土地の、良いイメージの通り。
ホオシャオシエン監督の後継というより、雰囲気はウォンカーウェイという感じの洗練されたおしゃれな映像でもあるが日本語タイトルになっている台湾暮色の通り台湾の湿度ある温もり冷たいけど温度がありひとりぼっちだけど完全にひとりではない感じ。
ジョニーに間違えてかかってくるジョニーと繋がる人たちもなんだか心強いではないか。みんなひとりぼっちだけどみんなそれなりにリーンオンできていたりする。
YA・O・I
高崎映画祭にて鑑賞。
ストーリーの2/3位以降で動き出す気配を見せての、でも結局何も起らない展開である。なのでこの手の作品が一番好き嫌いが分かれるのではないだろうか?自分がどうかというと、実は自分もよく分らないというのが実感である。決して嫌いではないのだが、しかし自分の読み解き力の貧弱さも又痛感させられるので、感情を上手く飲み込めず口の周りを汚してしまうイメージである。今作品が決して親切ではないことは充分理解したのだが、だからといって不思議と拒絶感は感じない。まるで環境映画のようなカテゴリなのかと思ったりしたのだがそれとも違うような・・・ だから、表題の『やおい』が一番しっくりしたのである。“ヤマなし 落ちなし 意味なし”と言えば、制作側が異議を唱えるだろうし、それなりに緩やかな展開はあるはあるのだが・・・
ヒロインがこれまたまるでモデルだし、そのパトロンである男の大胸筋等も含めて、今の台湾のセレヴ感がかなり強い。それに引っ張られる様に、この群像劇の他のパートもそれ程猥雑で不衛生な負の部分の台湾の影がみえてこない。本来ならばもっと多湿な気候がスクリーンに映し出す筈なのだが、まるで日本のようなイメージである。しかし、台湾の人達の家族主義的行動、占いや儀式を重んじるさりげないシーンや台詞、しかし、そんな古えの迷信と対比するような、近代化される街並、そして崩壊ギリギリの家族といった今の台湾の現状を丁寧に演出している点は興味深い。鳥と自分の境遇の親近感を抱きながら、急に後半ぶっ込んでくる子供がいる設定等、少々無理矢理感も否めないが、もう一人の主人公である内装業の男の『距離が近すぎると衝突する』という台詞は心に重くのし掛ってくる。車のエンストも、渋滞の中で起ってしまうことで衝突する危険が出てくる。しかし、ラスト、カメラがパンした先に、動き始めた車が通りすぎることで、ほんの少しだが希望を観客に抱かせるというニクい演出もクセモノの監督である。日常は何も変わらないし、益々苛立ちは募る。それでも希少な希望で人は前に進んでゆけるというメタファーなのであろう。
ちなみに、解説での間違い電話におけるジョニーの件は、ヒロインはそんなに気にしていないので、解説は間違いであり、故に原題もミスリードになってしまうから、邦題に変更したのは正解だと思う。“思慕”を抱きつつそれでも人は進んでいく、切ないながらの希望を表現した作品である。
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