ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャーのレビュー・感想・評価
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コールフィールドは共鳴する
22.「ライ麦畑でつかまえて」は広く読まれているため、多様な読者がいる。劇中に登場する強く共鳴する人々。ジョン・レノン氏射殺等、話題性の高い事件と関連付けられることもある。身を削り紡ぎ出した言葉が、多くの人を惹き付ける
サリンジャーの人生に感動する
"ホールデン・コールフィールド"
正直サリンジャーは苦手でした
書くことが癒すこと
大学では文学部に籍を置いていたのに、恥ずかしながらサリンジャーは一度も読んでいなかった。「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルが能天気な青春小説に違いないという先入観をもたらしたというのが、若かりし頃の当方の言い訳である。
遅れ馳せながら鑑賞の前日、ジュンク堂で白水Uブックスの野崎孝さんの翻訳を買い求めたものの、最初のほうを読んだだけで上映時刻を迎えてしまった。それでもサリンジャーの、世の中に斜に構えたスタイルはなんとなく把握できた。
逆に映画で小説の内容が少し紹介されていたが、ライ麦畑の端っこが崖になっていて、子供が次々に落ちそうになるのを捕まえてあげる仕事を永遠に続けるというイメージを聞いて、美しい映像と厳しい現実が浮かび、それがたいそう比喩的であり、そして芸術的であるところに、サリンジャーの不世出の才能を理解した。
映画のサリンジャーはホールデン・コールフィールドほどエキセントリックではなく、友人と酒を飲みタバコを吸い女の子に気軽に声を掛ける、いかにも普通のアメリカの男の子であった。ただ文章を書くことだけに執着しすぎるきらいがあって、好きな女の子の誘いよりも小説を書く時間を優先してフラレてしまうほど、書くことが好きである。根っからの小説家なのだ。
映画ではユダヤ人の血が半分混じっていることや、ノルマンディー上陸作戦の後にアウシュヴィッツを訪れたことなどがさり気なく述べられていて、注意深くセリフを聞いていないとわからないほどだが、戦争がサリンジャーの魂に深い傷を与えたのは間違いない。PTSDという言葉が生まれるにはベトナム戦争の惨禍を待たねばならなかったが、第二次大戦後にももちろんPTSDはあった。
しかし精神科医は役に立たず、役に立ったのはヨガと瞑想で、それらの力を借りつつ、結局は書くことが癒やすことであった。若者の話を書くのは、若者がまだ汚れを知らない無垢だからとサリンジャーは言う。中原中也は「汚れつちまつた悲しみに」という詩を書いたが、意味は同じことだろう。
学校の講師であり文芸誌の編集者であるバーネットや女性編集者ドロシー、その他たくさんの出版関係の人々との関わりと、家族関係のダイナミズムが詳細に描かれ、サリンジャーのことを知らない人にもすべて理解できるようになっている。作品として独立して纏まっており、補完の必要がない点は高く評価できる。
俳優陣はいずれも好演だが、中でもバーネット役のケビン・スペイシーは素晴らしい演技で、サリンジャーがどういう人間であったかを浮き彫りにした。不採用に耐えること、何度も書くことという作家にとっての必須条件を伝えることで、サリンジャーに肚を決めさせる場面は素晴らしい。
主人公を演じたニコラス・ホルトはリドリー・スコット製作総指揮の「ロスト・エモーション」で難しい役を上手に演技していたが、本作の演技もとても見事であった。青年らしい揺れ動く世界観と迷いの中で、真実を書きたい、ありきたりの物語は書きたくないという魂のこもったセリフを言う。書き上げた「ライ麦畑でつかまえて」を編集者に渡す場面では、作家が命を預ける場面に見えて非常に感動的であった。
書くことが癒やしだが、出版することで社会との煩わしい関係性が生じる。身を削るようにして小説を書く作家にとって、書くことと生活することは相反であり、どこまでも悩ましいところである。出版がすべてだと言っていたドロシーが、最後に出版がすべてではないと堂々と言う場面には、主人公と一緒になって苦笑いしたが、この台詞によって辛かったサリンジャーの人生が救われたような気分になった。
J.D.サリンジャーの映画です。
原題は「REBEL IN THE RYE」です。
原題も邦題も映画の内容を表していないので、題名を気にする必要は
ありません。
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(J.D.サリンジャー)を
理解できない人々が、「反逆」、「反逆児」とか「ひとりぼっち」と
いうレッテルを張っているだけです。
自分と全く同じ意見を持つ人間は、他に存在しているはずはなく、
誰でもが「反逆児」で「ひとりぼっち」ですが、妥協することで、
「反逆児」で「ひとりぼっち」という現実から目を背けているだけです。
「ライ麦畑でつかまえて」、「ナイン・ストーリーズ」を読んで
理解していないと、楽しめない映画です。
「ライ麦畑でつかまえて」、「ナイン・ストーリーズ」を読んで
いると何気ないシーンも理解できますし、新しい発見もあり、楽しいです。
「ライ麦畑でつかまえて」、「ナイン・ストーリーズ」を読むことが
できない人は、J.D.サリンジャーについて、調べてから鑑賞することを
お勧めします。
昨年公開された「ライ麦畑で出会ったら」を観て、気に入った人々に
もお勧めできます。
「ライ麦畑でつかまえて」の主人公、ホールデン・コールフィールドは、
J.D.サリンジャーの一部なんだと理解できました。
「ナイン・ストーリーズ」の冒頭に「ドロシー・オールディングと
ガス・ロブラーノに捧ぐ」と記載されていますが、
ドロシー・オールディングについて理解することができました。
ドロシー・オールディングは、J.D.サリンジャーの書いた文章を初めて
高く評価し、評価しただけでなく、出版にもかかわり、終生の良き理解者
でした。
「ナイン・ストーリーズ」の冒頭に「禅の公案」が掲載されている
背景を理解することができました。
「禅」が、戦場でしか得ることができない人間が人間を殺すという
経験したJ.D.サリンジャーを救いました。
「禅」が、人気作家でしか得ることができない経験、無名作家への
酷評と人気作家への絶賛により、人と言葉を信じれなくなり、
読者の言葉も信じられなくなったJ.D.サリンジャーを救いました。
人と言葉を信じられなくなり「誰も信じぬ」ということになれば、
孤独に陥ります。
人と言葉を信じれなくなったJ.D.サリンジャーが言葉で人に伝える
という、新作を出版することをしなくなったんだろう感じました。
J.D.サリンジャーが書いた「ライ麦畑でつかまえて」は、人と言葉を
信じられなくなった多くの読者を孤独から救い続けています。
J.D.サリンジャーは、「ライ麦畑のつかまえ役」であり続けていますが、
「耳と目を閉じ、口をつぐんだ人間」になってしまいました。
私も「ライ麦畑のつかまえ役」でありたいと思いますが、
「耳と目を閉じ、口をつぐんだ人間」になる気はありません。
大人達が作り上げたインチキな社会のルールに従って生きるのではなく、
インチキな社会に挑戦するべきだと思います。
インチキな社会に挑戦するには、それ相応の資格がいると分かる私には
その資格があると思います。
映画を理解したいという人にはパンフレットの購入をお勧めします。
J.D.サリンジャーの半生の伝記映画
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